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第十章 今でも愛するその人が 6


 あの頃の記憶は、薄靄がかかっているかのように遠く、しかし酷く鮮明だ。
『うそつき!』
 頬を掠めた何かが、壁面に叩きつけられる。
 派手に陶器の割れる音が響き、零れた中身が、壁面に染みを作っていく。
 どうして仕事へいってしまうのと、癇癪を起こすようになったレイヤーナ。最初は執務室に戻るときだけだったのが、次第に顔をみせるだけで泣きじゃくるようになった。
『俺が様子を見てくるよ』
 掠めた陶器によって傷つけられ、額から血を流して執務室に戻ったときだった。目玉が零れ落ちそうなほどに仰天して女官に救急箱を取りに行かせ、ジンがそう申し出た。
 苦肉の策だった。けれども功を奏したのか、レイヤーナは安定した。時折ジンとともに部屋を訪ねる。レイヤーナはころころ笑って、ジンになだめられ癇癪を起こすことも少なくなっていった。
 だがそれも一時的なものに留まってしまう。
 すぐに、忙しさが増して、自分たちはレイヤーナに会うことが難しくなっていった。


 初秋、間諜が一人暗殺された。
 政治が動き出すようになると、先帝派はその事実を認めたくはないとでもいうように激しく行動を起こし始めた。ランマ・ヤンマ地方に送り込んでいたこちらの調査員が何者かによって刺殺されたのも、その一つだった。自分たちで足を運び、その状況証拠を見る必要があった。周囲はまだ敵ばかりで、いつどこで情報が握りつぶされるのかわからなかった。
 が、ラルトが赴くことは仕事の都合上できず、代わりに自分が赴いた。そして次の日に入っている会議のために、とんぼ返りしたのだ。
 夕方には宮城に戻った。幼馴染の皇帝は自分をねぎらって、休みを交代してくれた。ぽっかりと久しぶりに空いた夜の時間。
 もし、その時間、彼女に会いにいこうなどと思わなければ。
 何も始まっていなかっただろうに。
 秋初めの特有の嵐が始まる直前。不吉さを象徴するかのように、血のような夕日が水平の彼方に解け落ちていた。
 レイヤーナとは、しばらく会っていなかった。たとえラルトではなくても、仕事ばかりにかまいすぎだと罵られることを覚悟していた。緊張に乾いた唇をなめて湿らせ、その薄暗い部屋に足を踏み入れた。
 生暖かい嵐の風が吹き込んで、御簾をからからと揺らしていた。招力石が壁に当たって、乾いた音を立てている。仄かな明かりが揺れていた。
 暗がりに浮かび上がる白い腕を伸ばして、自分の身体を引き寄せて女は言った。
『抱いてくれる?』
 それは恐ろしい誘惑だった。
 疲労が極限まで達していた身体に、その女の身体はあまりにも魅惑的だった。理性を総動員して押しのける。けれど女は白目の部分を青白く濡らして、必死に懇願してきた。
『どうして。ねぇどうして? 私のことそんなにキライになってしまった?』
 首を振り、そうではないと、言いかけた自分は、次に呼ばれた名前に眩暈がした。
『ラルト………!』
 その瞬間。
 感じた悲壮と悲哀と憐憫を、自分は決して忘れない。
 そうしてその夜、自分はその女を、乞われるがままに抱いたのだ。


「レイヤーナはもう、俺だとわかっていなかった」
 淡々とジンの口によって語られる過去は、淡白だからこそ信憑性を帯びていた。
 信じたくはなくとも。
 事実は厳然として存在している。
「俺を見て、お前の名前を呼ぶんだラルト。とろけるような笑顔で俺を迎えて、俺に抱いてくれってすがるんだ。……一度抱いて、それからはなし崩しだよ。訪ねるたびに、あわただしく密やかに情事を重ねる。拒絶すれば縋ってきて、子供のようにしくしく泣き出す。なぁラルト。俺はどうすればよかった? どうすればよかったんだ!」
 そのときジンは初めて声を荒げた。足を踏み鳴らし、苦悶に表情をゆがめて。
「本当は、途中で俺だと気づいていたのかもしれない。もしくは、ラルトではなくほかの人間だと気づいていたのかもしれない。だけれど彼女はお前の名前を繰り返し呼んで、俺に抱かれてた」
 幼馴染の頬を涙が伝い降りていく。苦悶というよりは、浮かべられている表情は笑いにも似て。
 その表情が、ラルトの胸を締め付ける。
 しゃくりあげながら、ジンが続けた。
「彼女を抱いたとき、俺は歓喜した。ずっとそう、したいと、思っていたのは確かだった。とてつもなく幸福で、そしてとてつもなく惨めだった。判るかラルト! 抱く女が、俺と判らず別の男の名前を呼んで、愛していると囁いてくる。俺に抱かれている間、どれほど幸福そうな顔をしていても、その女が見ているのは俺じゃない、俺じゃないんだ!」
「ジン」
 ジンは天を仰いで慟哭する。
「俺だって……俺だって、レイヤーナを愛していたのに! 愛していたのに!! 愛していたのに!!!」
 かすれた声で、幼馴染は繰り返す。
「…………愛して……いるのに……」
 気づいていなかった、といえば嘘になる。
 けれども気づかないふりをした。お互いに。
 それが、関係を続けていくための条件だった。大事だった。あの天真爛漫な少女と同時に、この男が。
 その小さな嘘が、小さな間違いが、裏切りを引き連れてくる。
 ジンが面を上げる。亜麻の瞳が苦渋に細められ、きつく口元が結ばれている。
 かみ合わせた歯と歯の間から、搾り出すようなジンの声が響き渡る。
「一瞬、一瞬だ。俺はお前を憎んだよ。お前に激しく嫉妬した。だけどすぐに、激しく後悔した。この国で、この裏切りの帝国で、俺は、裏切るつもりなんてなかったのに!他でもない、お前を!」
 そんなこと知っている。
 そんなことは、知っているんだ、ジン。
「本当に、裏切るつもりなんて、本当に、なかった。なかったんだ……!
 ジンは消え入りそうな声で、本当になかったと繰り返す。聞くものの胸を潰すような啜り泣き。
 だからそれだけは信じて、と懇願された時、意図せず答えはラルトの口から零れ出ていた。
「信じる」
 怨嗟の声と血に塗れたこの国で、自分達が誰よりも憎んだ罪を犯したことを、笑顔の裏に仕舞いこみ、ひたすら自分を支え続けてきた幼馴染。
 憎め、と何かが言う。胸の奥に救う、悪意という名の何かが。
 許せ、と何かが言う。この男と、苦楽を共にして一つ一つ、国というものの土台を積み上げてきた、その記憶が。
 ラルトは、胸の痛みに顔をしかめながら、ジンに尋ねた。
「……シノは、知っていたんだな?」
「うん」
 ジンがラルトの背後のシノをすかし見る。皮肉にだろう、口角を持ち上げてジンは頷いた。
「知ってた」


 ことの後は、いつもそう。
 一瞬の快楽が消え去って、身を引き裂かんばかりの罪悪感と後悔に責め苛まれる。
女の安らかな寝顔を見ても、ただただ苦しさしかこみ上げてこない。
『……何を、なさっているのですか』
 その日、ほんの少しだけ楽になった気がしたのは。
 自分を押しつぶしてしまいそうなこの罪を、共有する相手が出来たからだろう。


「シノちゃんが俺と共犯になる気になったのは、俺とお前の間に亀裂を入れることを恐れたからだと思うよ」
 目をわずかに伏せて、ジンが言う。彼の口から語られる事実に、怒りも悲しみも湧いてこない。 シノが知っている、と思ったのは、思い当たる節があったからだ。
 シノとジンの仲が、おかしくなってしまったのは三年前だ。表面上は取り繕ってある二人の間に流れる奇妙な緊張に、ラルトが気付いていなかったわけではない。
 昔はそんなふうに緊張することなど、なかったのだ。子供の頃、シノはジンにとっても姉のような女官であったし、ジンも苦手と明言するほどではなかった。痛いところを言われても、再び食って掛かるぐらいに彼も彼女を気に入ってはいたのに。
 それが全て変化した。
 三年前に。 
「他でもない俺が、お前を裏切っている。その事実に、彼女は戦慄したんだ」
 シノは先帝の混沌とした時代を知り、そして何故そのような時代になったのかも知っている。ラルトの父も、祖父も、愛したものには裏切られてきた。
 ラルトは背後を少し振り返った。
 シノが横たわっている姿は、草葉の陰になって確認することはできない。
 シノは、鈍感な自分を笑顔の下で嗤っていたのだろうか。
 そうではないだろう、とラルトは頭を振った。姿を消したティアレに戻ってきて欲しいと切望していた彼女。自分とティアレが並んでいるところを見ていると、こちらまで幸せになると、笑っていた彼女。
 いつも浮かべている笑顔の下で、おそらく彼女も良心の呵責にさいなまれていたのだと、ラルトは信じる。
「俺はね。本当に、レイヤーナを愛していて」
 ジンは淡々と言葉を続ける。
「お前も愛しているのに、俺はお前を裏切ってしまって」
 見開かれた目から、涙が伝い落ちているのに、それを拭おうともせずに。
「苦しいのに、お前を裏切るつもりなんてないのに。幸福感だとか、快楽なんて爪の垢ほども無いよ。なのに俺を押しつぶしそうになっていた罪悪感を忘れるために、その欠片ほども無い快楽を俺は狂ったように追い求めたんだ」
 神の前で贖罪を求めるように。
「俺は彼女から抜け出せなかった。シノちゃんに見つかった後も、ヤーナが死ぬ前も死んだ後も、寝ても覚めても、生々しい感触と、彼女の声とが俺を支配する。だんだんそれが実体を帯びてくる。ティアレちゃんがこの国に来てからは特にだよ。俺に繰り返し繰り返し、ヤーナは囁く。この女を殺して。お前の中のヤーナの居場所を奪う女を殺して。そうして、この国に染み付いている、レイヤーナという女の記憶を、守り抜いて」
 ラルトの前で告解する。
「もう限界なんだよ。たまらない。弱いと笑っていいよ。俺は彼女の言葉に従う。そしてこの囁きが、呪いだというのなら……たとえ呪いでなかったとしても……。お前を裏切ってティアレちゃんを殺す、ただそれだけなんて、とても尺だから」
 ジンの涙は止まっていた。その眼差しは真っ直ぐで、屈託なく、いつもこの光のような幼馴染の明るさに、自分は救われていたのだとラルトは思い返した。
 ジンは厳かに断言した。
「俺は、俺自身の破滅に、この国の呪いを道連れにしていく」
「……ジン」
「勘違いしないで。これは他でもない俺のためだから。俺が救われたいが為だけに、俺はティアレちゃんを殺そうとしているのだから。俺はねラルト。お前みたいに強くはなれない。レイヤーナを赦したような優しさと強さを持って、俺は呪いを跳ね除けることはできない。俺はもうお前を裏切ってしまって、この罪悪感と、現実味を帯びて俺をさいなむレイヤーナを振り払いたいがために、俺はただ、もう一つ裏切りを犯す。それだけだから」
「だから、憎んでしまってと、そういいたいのですか、ジン様」
 ラルトは会話に割り込んだその声に、はっと息を呑んだ。同じくジンも勢いよく背後を顧みる。
「そうやって、己を憎んでしまってと、そういいたいのですか、ジン様。憎んで憎んで、楽になってしまってと、そういいたいのですか?」
 ティアレが、石畳に手を突いて、ゆっくりと上半身を起こしていた。先ほど傷つけられた部分が傷むのか、それとも気絶させられた際に与えられた衝撃が尾を引いているのか、顔をしかめながら。


 赦せなかった。
 それはあまりにも自分勝手すぎる。
 会話の全てを耳に入れていたわけではない。ただ夢現で脳の奥に届いていた。薄く開いた瞼の向こうで、ラルトが悲痛の表情で佇んでいた。
 この人が、どれほど幼馴染の彼を信頼しているか、愛しているか、この人はきちんと理解していないのだ。
 レイヤーナは彼を裏切って、たくさんの人を道連れにして死んだという。
 そうやって裏切られて、どれほどの苦しさと必死さで、感情に飲み込まれないようにしているか。
 それがどれほどこの人の傷になっているか。
 ジンは。
「貴方は何もわかっていらっしゃらない!」
 立ち上がりながら、ティアレは叫んだ。


 ひゅ、っと振り上げられる刃に、ラルトは蒼白になった。ジンが振り上げた刀には、明白な殺意がこめられていた。冷ややかな彼の眼差しがそれを物語る。ティアレは決然とジンを見上げたまま、微動だにしない。真っ向から彼と対峙しようとしているのか、それとも単に、恐怖から身体が凍てついているだけか。
 ラルトは駆け出しながら舌打ちし、力いっぱい剣を投げる。重量のある剣は、短剣のように上手く投げることは出来ない。弧を描きながらもそれでもジンの足元に落ちたそれは、彼の意識を一瞬でもそらす。その隙をついて、ラルトはジンに飛び掛った。
「つ……!」
 飛び掛った拍子に傷口に思いっきり拳が触れて、激痛が走った。舌を噛みたくなるような衝撃に顔をしかめながら、それでもラルトはジンの襟首をつかむ手を緩めなかった。もみ合いになりながら、ジンの手から刀が離れる。視界の端に、ジンとラルトの剣を胸に抱いて立ち尽くしている、ティアレがよぎった。
 どす、っと膝が腹部に入る。咳き込み思わず手の力が緩むと、ジンが力いっぱい自分の身体を引き剥がし、石畳に叩きつけてきた。
「こほっこっ……ジ……」
 ジンはどこから取り出したのか細身の短剣を引き抜いて、立ち尽くしたままのティアレに飛び掛ろうとしていた。その背中に飛びついて、手首を取り、石畳に叩きつけて短剣を取り上げた。遠くへそれを弾きとばす。短剣は円を描きながら石畳を滑り、舞台を滑り落ちていった。
 馬乗りになってジンの顔を殴りつける。とりあえず黙らせる必要があった。だがジンもジンで黙っては居ない。空いた手足で正確に急所を着いてくる。殴り、殴られ、上下を入れ替えて、もみ合いになる。
 ようやくジンを組み敷いて襟首をつかんだまま身体を固定すると、ラルトは嘆息して、幼馴染を見下ろした。
「……どうして、俺を待っていたりしたんだ」
 身体のどこかしこも痛んで、痛覚が麻痺しかかっていた。口内が切れてしゃべりにくい。ジンは肩で息をしながら、大の字で寝そべっている。お互いに酷い有様だ。苦笑する気にもなれない。
「俺を待たずに、ティアレを殺していれば。そうすればお前をただ憎めたのに。そうすれば、ただ、お前をどこまでも憎みきることができたのに」
 過去にどんなことをしていても、かまわない。
 レイヤーナはもう死んでいる。彼が裏切ったのも三年前。今更それを蒸し返してどうしろというのだ。
 確かに。
 確かに彼とレイヤーナのことが衝撃的でなかったといえば嘘になる。淡々と語る彼に怒りがこみ上げなかったといえば嘘になる。憎悪が膨れ上がらなかったといえば嘘になる。あっさり笑って赦せてしまうほど、やはり自分も聖人君子ではないのだ。
 けれども。
 それを超えて、どうしようもない憐憫とやりきれなさが、身体を支配していた。ジンは十分苦しんだし、その苦しんでいる合間に、自分をこれ以上ないほど救ってくれた。彼は幾度か、自分に救いを求めていたのかもしれない。けれども自分は鈍感で、彼の笑顔の裏に隠されたものを、読み取ろうとはしなかった。
 そうして今も。
「……助けて欲しいのなら、そういえよ」
 虚ろな亜麻の瞳が焦点を結んで自分を映す。ラルトはジンの頭を掠めて、拳を石畳に叩き付けた。
「そんな風に、苦しんでいることを知って、俺がお前をただ憎むことなど、できるわけが無い!」
 ティアレを救いたいのなら、自分を殺せとジンは言う。
 けれど、そんなことは無理だ。
「たとえ憎んだとしても、お前を殺すことなんて、俺にはできるわけがない!」
 せいぜいこうして、殴り合いをするので精一杯だ。
 この裏切りの帝国で。
 駆け引きと嘘と策謀とにまみれた国で。
 レイヤーナを失った自分にとっての唯一だった。
 それを殺せるわけが無い。
「……殺してほしかったのでしょう?」
 厳かとも思える声音でティアレがジンに尋ねた。ジンはただ荒い息を繰り返して瞼を閉じている。しんと静まり返った夜に、ティアレの声は涼やかに響き渡る。
「……ただ呪いを解きたいだけであるのなら。その苦しみから逃れたいだけであるのなら、何のためらいも無く私を殺せばよかったのです。貴方はそれが出来る方でいらっしゃいますでしょう? 必要とあれば、なんの躊躇いもなく刃を引けるお方でしょう? その機会など、いくらでもあった」
 ティアレは瞑目し、何かを思い返しているようだった。
「それをしなかったのはどうしてですか。何故ラルト様がいらっしゃるまで、待っていたりなどしたのですか」
 再び見開かれたティアレの目には、確固たる確信の色があった。
「……貴方は最初から、私を殺すつもりなどなかったのです」


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