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第十章 今でも愛するその人が 5


 頭上に影が射し、はっと我に返ってラルトは剣を鞘から引き抜いた。
 ぎし、と硬質の何かを刃は受け止める。受け止めたものは腕とも触手とも付かない何かだ。わずかに薄紫を帯びた剣の硬度は通常の鋼とは比べ物にならないはずなのだが、それがしなり、軋みをあげるほど、加えられた力は手に負えぬものだった。
「……くっそ!」
 その『腕』の胴体に蹴りを入れて引き離す。
「反魂呪法って知ってるよね」
 汗で滑る柄を握り直していると、ジンの淡々とした声が聞こえた。
「死人を生前そのままの姿で生き返らせる、国に伝わる禁呪法ってね。何かと制約がつく上にへたな呪いを吹っかけるよりも代価と魔力が必要で。だけどその人の原型をとどめずに生き返らせるなら、俺にもなんとかできる。それと<発芽>を使った人体強化の呪法を組み合わせてみた。一応メイゼンブルに留学してたのも、遊びに行ってたわけじゃないしね。俺ってば実は、こっちのほうが才能あるのかも」
 面白がるような響きが少し含まれていた。彼の表情を見る余裕は無い。息つく間もなく繰り出されてくる『それ』の攻撃に応戦するので手一杯だった。
「そんな、ことを、する必要が、どこにあったんだ……!!」
 この男はシンバ・セトだ。間違いない。だがこの男を逃がしやすいように警備を配置して、デュバートという隠れ蓑を使い、このような姿に変えてしまう必要が、一体どこにあったというのだ。
「一つは演出。一つは時間稼ぎ」
 体の位置を移動した際に、ジンが指折り数えていく様が視界の隅によぎった。
「目晦まし。……それと、お前との喧嘩に勝つため、かな?」
 ラルトは息を吐いて、間合いを詰める。草に足を滑らせそうになるのをどうにかこらえ、一息に鋼を人ではなくなってしまった男の体の中に突き入れた。
 るぉおおおおおおおぉん………
 ずん、と地鳴りを響かせて、ラルトの剣を身体に食い込ませたまま、かつてセトであったものは後方へ向かって倒れた。
「はぁはぁは………は」
 膝に手を当て支えにして、肩を揺らす。空気が欲しい。体中の汗腺という汗腺から噴出してくる汗が、肌を滑り落ちていく。前髪をよけ、頬についた肉や血を手の甲で拭いながら、ラルトは再び面を上げた。
 ジンが肩をすくめて断言する。
「だってそいつなんかでラルトが死んだりしないこと、俺知ってるし」
 天を仰いで呼吸を整え、ラルトはジンに向き直った。
「喧嘩?」
「うん」
 ジンは何かを舞台の上に書いていた。指で。視線はその指先を追い、浮かべる微笑はとても穏やかだ。ラルトは沈黙したセトの腹部から剣を引き抜いた。その柄の感触を手で確かめて、握りなおし、草を踏み分けて舞台へと歩く。冬の風が、熱を持った身体に心地よかった。草木がこすれて音を立てる。舞台に近づくと、その傍に、草葉に覆われるようにして倒れている存在を知った。
「シノ?」
「お前より早く来たよ」
 ジンがよし、と呟いて立ち上がる。ぽいっと墨壷らしき器を、ジンはラルトの横へ放り投げた。
 草の上に散らされた壷の中身に目をやって、ラルトは息を呑む。
「……血?」
 冬場で色素の抜けかけた草葉の上にこびりついたのは、明らかに赤黒い液体だった。少し粘り気がある。ジンは頷いた。
「血と真珠と銀と[にかわ]。何か呪法を行うときってさ、これが一番媒介になる。ティーちゃんぐらい魔力がでたらめに強ければ、何の媒介もなく効果を引き出せるけど、俺は違うし」
 舞台へと階段を上る。崩れかけた石畳を一段一段踏みしめて。
 上りきり、ジンと同じ舞台に立って、ラルトは探していた女が、ジンの背後に横たわっていることを認めた。
「……ティー」
 そしてジンと彼女の足元に描かれた、方陣にも。
「勘違いしないでラルト」
 ジンはティアレの傍らに置かれていた青龍刀を手に取った。口元には、苦笑。鞘から刀を引き抜きながら、彼は言う。
「この血はティーちゃんの血じゃないから。シノちゃんも彼女も、二人とも気絶しているだけだよ。……まぁ、シノちゃんにはちょぉっと、きつい蹴りいれちゃったかもしれないけど」
「じゃぁ誰の血なんだ?」
 その方陣を描ききるには、かなりの血が必要だ。ちょっとやそっと、血を抜いたぐらいでは補いきれない。ジンは意外そうに目を丸めて肩をすくめた。
「わかるでしょ? ラルトの後ろに転がってる奴」
 ラルトはちらりと視線を背後へと動かした。人の姿に戻ることもなく、かつてのハルマ・トルマの領主は沈黙している。
「要らない奴を使ったほうがいいじゃん。生贄とか、そういう類ってさ」
 投げ捨てた報告書。後で部屋に戻って拾い上げて燃やした。もう無い、報告書。
 調べたこと全てが、ジンがあの男を匿い続けていたことを示していた。カジャからの移民船についても。それを手配した際に、デュバートに手を貸したハルマ・トルマの残党兵と、面識があったことも。
「じゃぁ、何のためにティアレをここへと運ばせたんだ?」
 ラルトは先ほど握りつぶし、あの穴の中へと投げ込んだ彼からの託を思い返した。『処刑場で預かっているからね』などと、まるで三流の誘拐犯のような内容だ。からかって遊んでいるかのような軽さ。それがジンらしく、笑いそうになるのと同時に殴りつけたくなった。
「呪いってさ」
 ジンは青龍刀をもてあそびながら訊いて来る。
「どうやって解かれるものだと思う?」
「お前、ふざけて」
「ふざけてないから真剣に答えてよラルト」
 ジンは手のひらで青龍刀の刃を撫で、ラルトの返答を待っていた。まるで今にも鼻歌でも歌いだしそうな、穏やかな雰囲気で。
 ラルトは、ため息をついた。
「……支柱の打破。呪いとはそもそも支柱と呼ばれる魔力によってその効果を持続する。それを、支柱以上の魔力によってぶち壊すなりなんなりするのが、一番の近道だ。もしくは呪いをかけた当人による解除。ほかには……」
「いいよそれで」
 ジンは面を上げて微笑んだ。親しみのこめられた微笑だ。場違いといっていい。
「ラルトは、この国にかけられた呪いを解きたい? ………建国から、今に至る悠久の時を経て、今だ、国を蝕み続ける、人の心を狂わせる裏切りの呪いを」
 ラルトはますます寄せた眉の溝を深くした。彼の意図を理解しかねるが、問うたところで答えまい。
「……あぁ」
 瞼を下ろして、頷く。
「……解きたいよ」
 思い返されるのは病んだ女の微笑。そして腕にまだ生々しく感触を残す爪あと。
 食器の割れる音と、仲間たちの呻き。
 銀の世界に広がる黒髪と。
 紅い。
「俺も解きたい。すごく」
 ジンは笑った。
「ラルト、ここに描かれているのは呪いを解くための方陣だよ」
「え」
「だけど発動するための欠片が一つ足りない」
 ジンは刀の切っ先を下ろし、ティアレに触れさせた。亜麻の双眸が、暗がりで熔けた黄金のように輝いている。
「選べラルト」
 真っ直ぐな眼差しがラルトを射抜き、ジンの口は厳かな響きをもって選択を要求した。
「この魔女を殺して呪いを解くか、それとも」
 言葉を切って、息を呑み、彼は言う。
「彼女を助けて、俺を殺すか」


 大事なものを二つ手に入れておくのは難しい。
 一方を追えば一方がするりと手のひらから零れ落ちていく。
 嵐の夜。
 雪の朝。
 自分はそれを悟った。


「……何を言っているのか、判らない」
「そのまんまの意味」
「だからどうしてティアレを殺すことが呪いを解くことに繋がるっていうんだ!」
 地団太を踏みたい気分で、歯を噛み鳴らす。剣の柄を握る手に力をこめて、ラルトは叫んだ。
「知らなかった?」
「だから何を!?」
「ティアレちゃんは神殺しの魔女だ」
 一瞬。
 何を言われたか理解できず、ラルトは瞬きを繰り返してジンを見やった。
「……は?」
 自分でも間抜けと思える呻きを漏らす。ジンはこちらの表情が可笑しいのか、けらけらと声を上げて笑った。
「神殺しの魔女。この国に呪いをかけた、古い魔女。あの、魔女のかけらの本体。それが、滅びの魔女、ティアレ・フォシアナだ」
「……馬鹿な……そんな、そんなこと……ありえない。ティアレの年は、俺たちより下だぞ」
 彼女の年は確か二十一。彼女が語る過去からも、それは本当であると推測できるし、第一自分に嘘をつくことで得られる利点がない。
「その彼女が、呪いをかけた魔女だって?」
「正確には生まれ変わりってところかな」
 ジンはちらりと刀の先に横たわる女を一瞥し、即答した。
「魔力と瞳を受け継いで生まれ、魔女の再来と呼ばれ、国の興亡、繁栄と衰退に大きく関わってきた女たち。……ティアレちゃんは、そのうち一人だ」
「……確証は?」
 信じられない思いで、尋ねると同時、どこか納得は出来ていた。
「あの七色の双眸が何よりもの証拠だよ」
 色移り変わる七色の銀の虹の双眸。数々の大国の興亡に携わってきた呪われた魔女達。
 そして、この国に呪いと祝福を与えた魔女も、その魔女の一人であったという。
 シンバ・セトは嘘をついてはいなかった。確かに傾国姫は、魔女のかけらの一部だった。
 そしてティアレも嘘をついてはいなかった。ティアレは魔女のかけら[・・・]ではなく、欠片を内包する、魔女そのものだったのだから。
 その関連性に気付かなかったわけではない。だから古い文献を漁って、調べなおそうとしたのだ。だがその文献はジンの手にあって、とうとう今日まで調べることは叶わなかった。
「……ティアレは、知っていた?」
「さぁ……うすうす感づいてはいるのかもしれないけれど、俺は知らんよ」
 気づいていた可能性は高かった。彼女は、彼女の中を循環する魔力の粒子ひとつひとつに、魔女が住んでいるのだといった。彼女自身ではない、魔力の源である『魔女』が。
 もしティアレがラルトを含め、この国を蝕む呪いの根源である魔女との関連性に気づいていたというのなら、この国を滅ぼすことに必要以上に怯え、すんなりこの国を出て行こうとしたのも、彼女の中にいる魔女がこの国の滅びを望んでいるとでも思ったからなのかもしれない。
「この国の呪いはね、ラルト。確かに魔女の魔力を基盤にしている。この場所で殺された、魔女の魔力を」
「……まるで、魔女ではない別の誰かが呪いをかけたような言い方だ」
 ジンは曖昧に笑って、空を見上げた。すでに日は沈み、濃紺の帳が天を覆い隠している。縫いとめられた宝石のように瞬く星々が美しい、冬の夜空。
「誰がこの国に呪いをかけたなんてどうでもいいんだよ。大事なのは、何が支柱であるかなんだ。この国の呪いを支えるのも、確かに魔女の魔力なのだから。この場所に留まり続ける、魔女の魔力なのだから」
 自分たちが立つこの石作りの舞台は、淡い緑に発光していた。この場所は魔力のたまり場だ。レイヤーナがこの場所を気に入っていた理由でもある。春になれば、ここに咲き乱れる花もまた魔力を帯び、風に散る花弁が燐光のように舞う。
「これが」
 この場所にあふれる魔力全てが。
「呪いの支柱」
「そしてここに溜まる魔力を吹き飛ばせるのは、ティアレちゃんだけだ」
 ジンがラルトの目を見たまま断言する。表情はとても穏やかであるのに、いつものジンとまったく変わらないのに。
 そのことこそが、ことの異常さを伝えている。ジンが携える刃の切っ先の位置は、先ほどからほんの一寸たりとも動いていない。
 ラルトは反論した。
「だからって、だったらティアレに魔力の使い方を覚えさせればいいだけだろう!」
 殺さずとも魔力は引き出せる。魔力の暴発も引き出された一つの形だ。殺す必要が、一体どこにある――。
 ジンは、静かに首を横に振った。
「俺、言ったっしょラルト。呪いの支柱は、この場所に留まる魔力全て。この場所にゆたう魔力は、川の流れを伝い、地脈を渡り、国の全てを支配している。今までの魔力の暴発のように、土を抉るだとか、天変地異を起こすのとはわけが違う。まぁ……それでも充分に凄い魔力なわけだけどさ。この場所に留まっている魔力は、そんなものとは比べ物にならない。魔女が死ぬ際に弾け飛ぶ、魔力だ。魔女が、生れ落ちた瞬間から、死ぬ瞬間までに体の中に溜め、死という行為を使って開放される全ての魔力」
 魔女。
 その定義を、ラルトは良く知らない。魔女狩りと呼ばれるものは歴史書を紐解いても数多く行われてきたことだが、ティアレのような存在はほとんど記録には残らない。残っていたとしても、探し出すことは極めて難しい。
 だが今ジンの口から聞かされた話を、ラルトは一度読んだことがあった。
 剣の帝国。別名<水晶の帝国>ディスラ。五百年前に世界の覇権を握り滅びた帝国。いまや伝説と化している、古い帝国の女帝は、『魔女』であったという。
 そして彼女が死んだとき、国も全て、魔力に没し、今も亡者と化した住人が、生前と同じ姿形で彷徨っていると。
 だが、そんなものは御伽噺だ。
「呪いの支柱を吹き飛ばすには、それに匹敵する魔力、つまり、ティアレちゃんの死によって開放される魔力が必要だ」
 ジンは静かに、しかし決然と断言する。
 ラルトは思わず押し黙った。
 呪いを、ずっと解きたいと思っていた。
 いつ裏切ってしまうのか、いつ裏切られるのかという不安感。信頼しているつもりでも、どこか身構えと諦めができる。そうして真剣に誰かを信頼し、愛したときに、それは息を潜めて忍び寄り、刃を閃かせ、大事なものを奪い去っていく。
 呪いなどではなく、それは人の心の弱さだと、いってしまうこともできる。けれども延々と繰り返される歴史を見て、果たしてそれは人の心の脆弱さだけだと呼べるのか。
 答えは、否、だ。
 愛した女の言葉が蘇る。
 どうして、という懇願の声。裏切り者、と涙と笑顔で紡がれる罵倒の声。
「……ティアレを殺さずとも」
 ラルトは瞼を閉じ、搾り出すようにして呻いた。
「ティアレを殺さずとも、呪いなんてものは、打破できる。こんな形をとらなくたって」
「……ティアレちゃんが、お前を裏切らないという確証は?」
 からかうように、ジンが笑う。ラルトは、面を上げた。
「馬鹿だなラルト。呪いはいつまでも付いてまわる。裏切らないと誓っていても、囁きに負けていつかお前を裏切るよ。その度にお前は許すの? その度にお前は自分をすり減らしていくの? レイヤーナが死んだときと同じように」
「ジン」
「現に、俺は今、お前を裏切ってるじゃないか」
 ぱっと両手を広げて、ジンは笑った。
「お前の意思に反して、ティアレちゃんを、殺そうとしているじゃないか」
「ジン、それは裏切りじゃない」
 裏切りじゃない。
 自分に言い聞かすようにしてラルトは呻いた。息が苦しい。頭の奥が疼くように痛む。喉が渇いて、声を紡ぐたびに、ひりついた。
「この国を、守るために、しようとしていることは、裏切りじゃない」
 もう、この国から呪いの犠牲者を出したくないと、自分と彼は繰り返し墓の前で誓った。
 失われた家族、仲間、そして、レイヤーナの墓の前で。
「前にも俺は言ったけど、俺はこの国なんてどうだっていいんだよラルト」
「そんなこと詭弁だ。俺の名前を使って、国に貢献しようとしてるやつが、俺に、民の信頼を勝ち得ようとさせている奴が、いったいどうやって俺を裏切るんだよ……!」
 カジャ地方の、傭兵の移送。わざわざラルトの名前を出して手配する必要はなかったはずだ。
 ジンはカジャに流れた浮浪傭兵の輸送を、公の命令で行った。そこには一切の不備はない。怪しむべき点がない。だからラルトには報告が寄越されることはなかった。
 それと同じように。
 どんな仕事屋がいくら苦心しても、皇帝が手をつくして探している男一人、隠し切るのは難しいが、それが、探している本人とほぼ同じ位置にたつ男の手によって隠されているのなら。
 さほど難しくないのだ。
 ジンの行動は矛盾が過ぎる。
 本当に国がどうだってよいのなら、傭兵など放っておけばいいのだ。
 わざわざ人脈を最大限に使って、そんなもの手配する必要もない。
「お前が殺したシンバ・セトの部下って、結構仲間思いでさ」
 ジンが口元に苦笑いを浮かべて呟いた。
「あいつらをどっか移送することが、交換条件だった。憂さ晴らししたかったのも、確かだろうけど」
「ジン」
「ラルト。俺はそんなに優しくないよ。お前みたいには、俺はなれない」
 ジンは初めて表情を歪ませた。苦渋、という文字に相応しい表情を浮かべて、彼は言う。
「……今回のことがなくたって、俺はとっくに裏切り者だったから」
 ――言っている意味が。
 いっている意味が、よく、判らない。
 表情に、それが出たらしい。ジンは可笑しそうにくすくす笑った。ただ、その刀の切っ先は、再びティアレの元へ戻された。
「俺はこの呪いを解きたい。どうしても。けれどそれは、国のためなんかじゃなくて。お前のためでもないんだよラルト。他でもない、俺のため。俺が、この囁きから逃れるためなんだ」
「囁き?」
「……レイヤーナが俺に囁く。……私の居場所を奪うこの女を殺して。……ティアレ・フォシアナを、殺してと」
 ジンがわずかに手首を返し、青龍刀の刃先がティアレの首元を傷つける。痛みを感じたのか、ティアレはわずかに眉を寄せ、唇から呻きを漏らした。
 白い首元から、血が一滴零れ落ちる。
「ジン!」
 ラルトは叫びながら駆け出し、剣の刃を返していた。ジンが喜色ともとれる表情に目を細めて、刀を振り上げる。
 ぎし、という金属の触れ合う耳障りな音が、鼓膜を震わせた。ラルトが振り上げた刃は、ジンを殺すつもりで振るわれたものでは決して無い。だがジンの一太刀には、一突きで人を殺せてしまえるほどの尋常ではない力がこめられていた。勝敗は一瞬で決する。ラルトの刃はあっさりと撥ね付けられ、もともと疲労が溜まっていた身体は容易に体勢を崩した。
 二太刀目がこなかったのが幸いする。ラルトはかろうじて転倒を踏みとどまり、ジンを見上げた。
「きちんと殺す気でこなきゃ。ラルト」
「馬鹿を言え……! 大体、ヤーナがお前に囁くってどういう意味だ!? しっかりしろジン。ヤーナはもう死んでいる。三年前に!」
 死者は何も求めない。
 死者は何も囁かない。
 囁くのは使者ではない。自分達が纏う、死者に対する思い出だ。
 未練という名の、亡霊なのだ。
「……大体、そもそも裏切り者、っていうのはどういう意味……」
「そのまんまの意味」
 ジンは微笑み、ひゅ、と刀を振り上げた。剣でなんとか威力を殺ぐが、かわしきれず、次の瞬間には胸部に焼けるような痛みが走る。青龍刀にまとわり付いた血が遠心力によって払われ、ぱたたた、と石畳の上に丸い染みを作った。
「俺はね、ラルト。レイヤーナに逆らえない。あの囁きに、抗えない。あの声で囁かれたら、もう終わりなんだ。耐えることにももう限界なんよ。俺は生きている限り、あの声に囚われ続ける限り、呪いに、囚われる限り、ティアレちゃんを殺そうとするだろう」
「……お前がいつ、裏切りの呪いに囚われた」
「……すっとぼけないでラルト。今目の前のこの状況を、いったいどう見てるのさ?」
 ジンが。
 ジンが、自分を裏切る。
 そんなことはない。ありえない。絶対に。ありえない。
 あってほしくない。
 沈黙する自分に、ジンは続ける。
「俺は三年前から、お前にとっての裏切り者だった。……レイヤーナも」
青龍刀の刃先をラルトの背後のほうへと向ける。
「シノちゃんもね」
 ちょうどその場所には、シノが横たわっているはずだった。
 ラルトは身体をきちんと起こし、首を横に振った。呼吸を整えながら、ジンを見据える。
「俺には……俺にはお前の言っている意味が」
 ジンの顔は酷く歪んでいる。それは奇妙な表情だった。笑っているのか、泣いているのか、それとも怒っているのか、判別が付かない。あるいは、その全てを押し込めているのか。
 そんな表情を浮かべて、ジンは言った。
「俺がレイヤーナの間男だって、ラルト知ってたぁ?」


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