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第十章 今でも愛するその人が 3


 広い白亜の宮廷。高い天井。伸びた柱。床に落ちる黒い影。人々のざわめき。香水の匂い。
 眩暈は起きなかったが、その代わりに息を呑んだ。目の前で腕を組む幼馴染は、酒を片手に薄く笑っている。
「何も言わないの?」
 絶句した自分に、ジンは言った。
 正直に言えば。
 彼の行動について言及すべき点は腐るほどあった。
 なぜ、そんな無謀なことをしたのか。
 何故、そんな風に勝手に決めてしまったのか。
 つまり、ティアレを巫に据え置くことをだ。
 頭を振って、ラルトは拳を握り締めた。
「考え合ってのことだと、俺は信じる」
 冷えていく唇を少しなめて、確認に念を押す。
「そうだろう?」
「……さっきもシノちゃんに言ったけど」
 ことん、と酒を卓の上に置いて、ジンは言った。
「目くらましになればと思って」
 そういって彼は理由を手短に説明する。幼馴染の解説はいつどんなものを説明させても、とても明快だ。最後に彼は杜撰な計画で御免ねと笑う。
「最初に言わなくて御免ね」
「お前はいっつもそうだよな」
 ため息をついて笑う。
 いつもいつもいつもいつも。
 この幼馴染は、全てを胸に秘めて何も言わないのだ。
「……ジン」
「なにー?」
「……昔した約束覚えているか?」
「いつのー?」
 ちびちびと器の酒をなめながらジンが問うてくる。
「俺ラルトと約束なんて腐るほどしてるからいってくれないとわかんない」
(そりゃそうだな)
 確かに、とラルトは納得した。生まれてから今まで、ジンと自分はほとんどその人生全てを共有してきたといっていい。その間に交わされた約束と宣誓は数知れず、その中からたった一つを拾い上げるのは難しい。
 ラルトは苦笑し、表情を消した。レイヤーナのものよりもうんと古い記憶を拾い上げる。
 国が泥沼の泥沼にはまり込んだ頃の、古い記憶。背中を向けるようになった老いた父。呪いの断片。
「母上が、死んだ頃の」
 広がった血。灰色の世界。翻った黒の旗。泣きはらした目をした、幼馴染の横顔。
『誓う』
「覚えてるよ」
 ジンは即答した。
 彼は杯から顔を上げて、微笑んだ。
「この国を、根底からひっくり返す?」
「うん」
「なんで? それがどうかした?」
 きょとんと丸められた目を見て、ラルトは笑った。
「いや、なんとなく思っただけ」
 この国を、裏切りの帝国の摂理を、全て二人で覆す。
 血に濡れ、濁った国。どの国よりも血なまぐさい歴史を持つ国。裏切ること、裏切られることを繰り返し、血族同士で、双頭の鷲が互いの頭を突き殺すが如く、殺し合いを演じる。
 そうして出来上がったのは民の深い失望と無秩序と、荒廃した国土だ。
 そこに住まう人々は、疑心暗鬼に駆られやすく、国にかけられた呪いを増長する。呪いは支柱と 魔力が必要で、それを解くことができないというのなら。
 せめて現実的な方法で、呪いに囚われにくくなるように、一つ一つ全てを作り直していくしかなかった。
 昔、まだそれほどまでに呪いを恐れていなかった頃。
 そして、呪いの片鱗、人間の業というものを垣間見たころ。
 自分たちは誓った。
 国を、ともに立て直していくこと。
 そのために、互いの全てを預けていくこと。
 決して、自分たちだけは裏切らぬこと。
「俺、実を言えばこの国結構どうだっていい。母上を殺した国だしね」
 ジンが唐突に呻いた。
 杯に唇をつけたままのせいか、その声は低くくぐもっている。淡々と、遠いことのように彼は続けた。
「だけど、この国はお前とヤーナの国で。俺はこの国に眠る思い出が大事。そしてお前が大事。この国がお前とレイヤーナの国であるかぎり、俺はこの国を守るよ」
 瞑目して、彼は繰り返す。
「……守るよ」
「ありがとうジン」
 ラルトはジンの首にしがみつき、肩に顔を押し当てて呻いた。ジンが苦笑する。
「どうしちゃったのラルトー。あ、あっちでほらお姉さんたちの失笑買ってるんだけど。変な噂立てられたらどうすんのまったく」
「変な噂って?」
 どんなだ。
 きょとんと目を丸めて面をあげると、ジンが複雑そうな面持ちで口元を引き結んだ。
「お前って、実はティーちゃんの天然移ったりしてないーよねぇ? ラルト」
「………は?」
「いやいーいー。あ、ラルトそろそろお前奉納の準備したほうがよくない? そのうちお迎えきちゃうよ」
「あぁ、そうだな」
「んじゃ俺あっちいってるね。ついでにソアラの自由船舶権もとってくるからまかせといてー」
 そういって、ジンは酒をあおり、ひらりと手を振って踵を返す。
 ラルトは遠ざかっていく背中を見ながら苦笑する。何故遠いと思ったりしたのだろう。何故あの頃のレイヤーナに、少しでも似ていると思ったのだろう。
 彼は今、こんなに近い。その位置は、変わらない。
 ラルトは小さく嘆息して、脳裏にちらついた紙切れの存在を追いやった。
 もう二度と思い出さないだろう。
 そう思って。

 だから背中を向けている彼が泣きそうな笑いを浮かべているなどと。
 気付けるはずもない。


「あまり信用なさらないでくださいね」
 ラナが用事をこなしに部屋を退出し、二人きりになったあと、シノは厳かにそういった。
 下着一切を取り替えて、襦袢を着付ける。その上にさらに順々に着せ掛けられながら、ティアレは振り返った。
「え?」
「宰相閣下のことです」
 ひゅ、と帯を締められ息が詰まる。壁に手を突いて体を支える。自分ですることには慣れた。他人に帯を締めてもらうのはまだ慣れない。その、予測なしに体が締め付けられる感覚。
 シノはてきぱきと帯をそれようの飾りで留め、衣装を調えていく。
「どうして?」
「私も信用下さらなくてもかまいません。この帝国は、そういう場所です。……お座りになられてください。御髪を纏めますわ」
 おとなしく従って鏡台の前の椅子に腰を下ろせば、首周りに清潔な布を巻かれて、髪を梳かれる。シノの髪を梳く手つきは、赤子をあやす時の様にとても優しい。
「ですがシノ、それではいつまでもこの国はそのままではありませんか」
 髪を編まれ、上でまとめられる。髪留めが差し込まれ、崩れ落ちてこないように油が塗られていく。
「私は信用いたします」
 磨きこまれた鏡に映る、自分の緋い髪に、選びぬかれた飾りが留められていく。口に[かんざし]をくわえて、髪を整えているシノに向かって、ティアレは断言した。
「ジン様が、ラルト様のことを想っていることは、確かですから」
 ジンが、ラルトを本当に大事に想っていて、ラルトが、ジンをどこまでも信用すると決めている。
 自分が彼を信じる根拠はそれだけでいい。
 シノは顔を上げて微笑んだ。
「陛下がティアレ様をお選びになった理由が、私判ったような気がいたしますわ」
「え?」
「……陛下とティアレ様は、根本的なところが、とてもよく似ていらっしゃるのです」
 その微笑みは、苦笑のようだ。


 祭壇へ続く階段へ足をかけた彼女は遠めでもとても美しく、まるでこの国に祝福を与えにやってきた女神か何かのようだった。贔屓目を差し引いてもそう見えた。
 古い魔女の魂を祭ったという祭壇へ、一歩一歩確かめるように上ってくる彼女。この祭壇は、かつての刑場の上に立てられたのだという。もう伝説だ。ラルト自身、何か古い文献を読んでそれを知ったのであり、おそらく歴代の皇帝の中でもそんなことを知っているのは、指折りで数えられてしまう程度なのだろう。
 もう、魔女の鎮魂という願いすらも、薄れてしまっている。どちらかといえば、豊穣と豊漁を祈る意味合いのほうが強かった。だからこそ、春待ち祭りにあわせて、事は行われるのだ。
 ラルトは肩をすくめてティアレから目をそらした。
 祭壇からは街を一望することができた。宮城すら。仮設の来賓席に収まる他国からの使者と、ひしめくこの国の民が、祭壇周辺の広場に見える。視線だけを巡らせてそれらを一望し、再びティアレに目を戻した。否、意識をせずとも視線はそちらに戻っていた。どうせ自分は、彼女が自分の前に引き出されてきたときから目をそらすことなど、出来ないのだ。
 もう一度、肩をすくめる。正装は重く、体を強張らせる。滑らかな光沢のある黒と藍。常人には手に入れることの出来ない上質の絹。微細な部分まで描きこまれた、流梅。この重みを重いと思わなくなったとき、皇帝はおそらく名ばかりに成り下がり、そして民を裏切ることになるのだ。
 祭壇へと上り詰めてきたティアレは、巫の白と丹の衣装を身につけていた。まるで対照的だな、と笑いたくなる。その微笑を見て取ったのか、目の前に立った“巫”は、膝を折る寸前柔らかく笑ってきた。
 すぐさま、真剣な面持ちに戻る。彼女は携えてきた宝剣をラルトへと献上してくる。垂れる頭。さらりとなる髪飾り。派手でないそれは、巫のためというよりは彼女のために用意されたものらしい。おそらくはシノが選んだのだろう。
 ラルトは宝剣を受け取って、恭しくそれを掲げた。祭事の、決まりごと。
 ぽん、と鼓がならされる。
 ティアレが頭を垂れたまま一歩背後に下がり、袖口に隠していたらしい銀の扇を取り出した。銀は魔よけの意味合いがある。毎年、祭りが行われるときに、決まって新しく作り直される。
 鈴が、鳴らされて、ティアレが面を上げた。七色に移ろう虹彩に、夕暮れの色が溶け落ちる。白い袖が上げられて、銀の扇が振られた。
 笛の音が、響く。
 舞が、始まる。
 その舞は正式な舞ではない。幾度か目にしたことのある奉納の舞とは異なっていた。急な代役で、そんな踊りを踊れるわけがない。シノに多少手ほどきは受けたのだろうが、型自体は実にいい加減なものだった。
 女は実にでたらめに、足を踏み鳴らし、衣を翻し、扇を振っている。けれどもかき鳴らされていく音楽の中で、でたらめに 舞う女は、宮廷に飾られる神話の一枚絵のように美しかった。
 飾り紐が、揺らめいて、その先に[くく]られた蜻蛉玉が空を映しながら光る。きちんと結われた髪の色が萌えて、青い国に鮮やかな残像を残した。
 この女を、娼婦だと誰が信じる?
 この女を、魔女だと誰が信じる?
 ただ祝福を与えに来た精霊のように、その姿は幽玄だった。
 ふと、下界で人が割れた。誰かが祭壇へと上ってくるようだった。よくよく注視してみればそれは灰色の薄汚れた外套を、頭からすっぽりと被った小柄な男であり、落ち窪んだ眼窩の奥に、異様なまでに血走った目をラルトは見た。
「ティアレ」
 宝剣をおいて、携えていた剣を抜く。ティアレは舞うことに没頭しているのか、呼びかけが聞こえていないらしい。
 男が、薄く笑って、そしてその笑みには、見覚えがあった。
 シンバ・セト。
「ティアレっ!!」
 がしゃん
 扇が、落ちた。
 男はくるりとラルトに背を向けていた。ぶつぶつと、縄か何かが引きちぎられる音がする。その腕には怯え硬直するティアレの姿があった。
 ティアレは、しゃくりあげたように口を小さく開いたまま、悲鳴すら上げない。
 ラルトもまた、何も言うことができなかった。
 逃げろ、という言葉すら、喉の奥に引っかかっていた。
 立ちすくんでいたのは、ラルトも同じだったのだ。
 肌が粟立つ。呼吸が止まる。渇いた喉を潤すべく喉を鳴らすが、すぐにそれは無意味だと知る。背中を冷たいものが滑り降り、瞬きをすることすら出来ずに、ラルトはただ、瞠目した。
 ぶち、ぶつぶつぶち
「見よ、おろかな民衆よ!」
 男の声には聞き覚えがあり、それは確かにかねてより探していた男の声だった。
「ここに魔女がいる!この国に、永遠不滅の呪いを与えた、神殺しの魔女がここに!」
 ぶつ、ぶちぶちぶつん
 ありえない音に混じって、男の声は朗々と響く。その演説は高らかであり、魔力でも帯びているかのように、この祭壇一体に響き渡った。
 ぶちぶち、もご
「うっえ………」
 弦楽を爪弾いていた楽師の一人が、口を押さえて胃の中のものを吐瀉[としゃ]した。無理も無かった。
 こんなものを目の当たりにすれば。
 背中が異様な形で盛り上がっている。頭もぶくぶくと粟立つように膨れ上がり、ぷつぷつと気泡が浮かぶように弾け、そしてその弾けた窪みから、赤黒い肉の塊が伸びていく。その触手とも呼べる肉の塊は、複雑に絡み合って新しい手足を構成していった。
 そのお世辞にも大柄とはいえない身の丈が、人の倍を越していく。
 人ではなくなった男は、人ではない声で高らかに宣言した。
「見よ、この体と同じように、この国にも滅びがもたらされるであろう!」
 一瞬だった。
 眩い閃光が目を焼いて、世界の音が、消失する。
 そして少し遅れて、どん、という、何かが弾ける音がした。


「守るよ」
 その呟きを周囲が聞きとがめたのかどうかは知らない。ただ彼は薄く笑って、粉塵の上がる方向を見る。ざわめきも、人々の狼狽も、何もかもを拒絶するように目を閉じて、彼は繰り返す。
「守るよ」
 古い古い、呪いに蝕まれて、それでも何かに守られて、消えていかない国。
 本当はそんな国どうでもよかった。
 自分が守りたかったのは
 愛しているただ二人。
 それなのに今守っているのは
 その国に染み付いている
 悲しい思い出、ただ一つ。
「だからありがとうなんていわないで」
『決して裏切らないと誓うか?』
『誓うよ』
 その誓いを違えても。
 守らなければならないものなんて、なかったはずだったのに。


 何を間違えたのだろう。
 どこを間違えたのだろう。
 いくつもの小さな過ちは、いつになったら正せるのだろう。
 積み重なった過ちを、僕らはこう呼び習わすのだ。
 『呪い』と。


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