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第十章 今でも愛するその人が 1


 君は魔女だね、と問われたことがある。
 そうだと答えた後、何かを見たかと尋ねられた。
 古い森の中で、確かに自分は幻を見た。魔に通じ、人を惑わせる、美しい幻を。
 肖像画に描かれていた面影を持つ、美しい幻影を思い返すとき、ふと思うのだ。
 自分に幻の存在を仄めかし、日の射さぬ闇の中で、美しく微笑む肖像の中の女を見つめていた彼もまた、魔の幻に囚われ続けているのだろうかと。


「ティアレ様! こちらです!」
 髪と目の色が目立たぬようすっぽりと頭から被った薄布を、ティアレは少し持ち上げた。視界を広げて、侍女の姿を探す。通りを満たすのは人人人。そして極彩色の洪水だ。以前ラルトと歩いたときとは比べ物にならないほど、大勢の人が通りを満たしている。
 隙間なく壁に沿って並ぶ露天商。井戸端に腰掛けて弦を爪弾く吟遊詩人。その横に並ぶ大道芸。芸を見上げる子供たち。冬の最中で風は冷たいはずだというのに、人いきれと熱気が街全体を温めていた。
 きょろきょろと周囲を見回していると、いつの間にか探していた侍女が傍らに立っていた。眉間を寄せて、もー、と口先を尖らせている。赤毛の髪にそばかす。女官のラナだ。
「ティアレ様。どこかのお店にお立ち寄りになられる際は、遠慮なく仰ってください。私、いくらでもお待ちいたしますので」
 無断で露天の前で立ち止まり、距離を開けてしまったティアレは、危うくラナと[はぐ]れてしまうところだった。ラナは自分を非難しているわけではないとはわかってはいるが、つい気が咎めてしまう。顔に出たのだろう。ラナは慌てて笑顔を向け取り繕ってきた。
「で、ですから、そんな顔をなさらずに。申し訳ございませんでした」
 彼女が謝罪する必要はまったくなかった。この混雑な通りを先導する侍女の苦労は判っているつもりだった。
 ティアレが迷子になりでもして、シノに咎められるのはラナのほうだった。無理を言って外へ出してもらっているのだから、迷惑はかけられない。シノはそんなことを考える必要はないのだ、と口をすっぱくして主張するが。
「謝らないでください」
 恐る恐る手を握って、そう請うと、ラナは、はにかんだ微笑を浮かべる。振り払われるのではなく握り返される手がひどく温かい。
「何をご覧になられていたのですか?」
「見たことのない飾りを見かけましたので。あれです」
 指差した先には、赤い果物が陳列されている。ただ、それが本当に果物なのか、と問われるとティアレには答えかねた。それらは確かに実に一般的な果物の形をしているが、どこかしわくちゃで、そして玻璃で加工したかのようにつややかに光っていたからだった。ただ、露天商はティアレから見て実に珍妙なその飾りしかおいておらず、そして子供が、こぞってそれを買い求めていた。
 ラナは笑った。
「あぁ林檎飴ですか。ティアレ様もお召しあがりになられます?」
「お召し上がり……食べられるんですか? あれ」
「そりゃあ飴ですもの。美味しいですわよ」
 ラナが一瞬思案し、ティアレの手を引いて列に並んだ。待たせなかったのは、露天に目移りしがちなティアレが迷子になるのを防ぐためであろう。
 それほど今日の街の様子は、ティアレの興味を引きすぎた。
 以前ラルトと来たときも、十分驚きはあった。けれどそれは単純に、街を散策するという経験の乏しさからくる驚きであった。しかし今日の街の様相は経験とかそういったものからは、かけ離れている。おそらく、どこの大きな都市に住む人間も、今日の街の様子には驚くだろう。
 それほど賑々しく、煌びやかなのだ。
 空は高く澄んで、雲ひとつない晴天だった。その蒼を、さまざまな布が飾っている。風に翻る飾り布。一つ一つに、来年の豊作への祈りが古い言葉で綴られているのだとラナが説明してくれる。
 悪魔の面を付けた芸人が、ひらりひらりと舞い踊る。鳴らされる囃子。その向こうで響く弦。朗とした歌。女子供たちの笑い声。
 <春待ち祭り>。
 冬の最中、[きた]る新年を祝い、豊作豊漁を祈る祭り。
「残念ですわね」
「は?」
 ラナは意味深に笑みを浮かべてティアレを見上げていた。
「陛下ですわ。いらっしゃることができなくて。ぎちぎちに組まれた予定表を見つめて、ため息をついていらしたと、シノ様がおっしゃっておりました」
「お忙しい方ですもの」
 仕方がないという風に笑い、ティアレは空を仰いだ。
 寂しいのは事実だった。けれどその寂しさがまぎれる程度、ティアレは十分祭りを楽しんでいたし、ラナの気遣いも嬉しかった。そもそも共に回ろうという約束も、約束かどうかも怪しい口約束だった。それにも係わらず、きちんと約束を覚えていてくれたことにティアレは喜んだし、彼が祭事の準備に忙殺され、当日の朝まで掛かりきりであったのは、ひとえに仕事を放り投げて自分を追いかけてきてくれたからに他ならない。
 祭りは来年もある。再来年も、そのまた次の年も。これからいくらでも、共に見て回る機会はあるだろう。自分達に課せられた運命が、それを許すというのなら。
 ふと、ティアレはラナの視線を感じて、目を瞬かせた。ラナは困惑の色をにじませて、けれどもふわりと笑った。幼さを引きずる彼女の容姿。笑うと一層幼く見える。
「申し訳ございません。不躾でございました」
「あの、何か変ですか?」
「いいえ。何もおかしなことなど」
 では何故、という問いをティアレは飲み込んだ。それは愚問だった。珍しい容姿は、ただでさえ人の視線をひきつける。ティアレは少し深く、薄布を被りなおした。
「失礼いたしました。本当に違うのです。ただレイヤーナ様のことを、少し、思い出してしまいまして」
「……レイヤーナ様のことを?」
 慌てて抗弁したらしいラナは、しまった、という表情を浮かべて、ティアレの顔を恐々覗き込んできた。ティアレは苦笑に言葉を添えた。
「……レイヤーナ様のことでしたら、お伺いしていますし、さほど言葉にすることを躊躇うようなものでもありません。もしよろしければ、お聞かせいただけますか?」
 レイヤーナのことは、どうやら奥の離宮の女官たちの間でも禁句となっているようで、話題に上ることは皆無といっていい。シノにとってはどうやら近い人であったらしいから、直接聞くのも気が引ける。だが知りたいとは常に思っている。
 ラルトがとても、愛していたひと。
「本当に、何でもありませんティアレ様」
 これ以上は勘弁してほしいという意思が見て取れたので、ティアレはあきらめて前を向いた。
 子供達の笑い。母親の咎める声。賑々[にぎにぎ]しい、雑踏が、耳朶を震わせる。
「ただ」
 ラナの囁きは、街の喧噪にかき消されてしまいそうなほど、か細いものだった。
「ほんの少し……ほんの少し、思ってしまっただけです」
 何を思ったのだろう。自分とレイヤーナは対極だったという。違いすぎて、似ている部分を探すのが難しいよ。ラルトはそういって笑った。
「……ティアレ様がいらっしゃるために、レイヤーナ様はお亡くなりになられたのかもしれない、と」
「はい次の人。いくつご入用だい?」
 順番が回り、店主が声を張り上げる。ラナは「シノ様には内緒にしておいてくださいね」と泣きそうな声で懇願してきた。ティアレが頷くが早いか、彼女は店主に声をかける。指を二本突き出しているところを見る限り、どうやら彼女の分も買っているようだった。
「えへへ。本当、シノ様には内緒にしておいてくださいね。一緒に自分の分も買ってしまったことがシノ様に知れてしまわれたら、大目玉くらってしまいますので」
「大目玉? 何故怒られてしまうのですか?」
「今日は一応お仕事ということになっておりますもの! お仕事中に自分のものを買い上げたなんて、シノ様がお知りになられたら、雷を落とされてしまいます。あ、ですが勘違いなさらないでくださいね。私、ティアレ様とご一緒させていただけるだけで、それはもう嬉しいのですから。誰が行くかで、大変もめましたの。シノ様はお忙しくあらせられるので泣く泣く権利を私どもにお譲りになられたのですから!」
「……はぁ。そういうものですか」
「そういうものなのです」
 どうぞ、と林檎飴を差し出される。遠めに見て艶めいていたそれは、間近に見るとより一層、宝石のように輝いてみえた。小さな匙がついていて、これで表面の飴を割って食べるのですと、ラナが嬉々として説明してくる。
 言われたとおりにしてかじると、微かな酸味と飴の甘さが口の中に広がった。
「お口に合います?」
「はい。美味しいです。とても」
 この土地に来るまで、ほとんどまともな食事は取っていなかった。この国で胃の中に収めるものは、そのほとんどが口に新しい。そして、泣きたいような切なさを伴って、とても美味しい。
「それで、レイヤーナ様の、ことですけれど」
 ティアレは匙で飴を突っつきながら、先導するラナに問うた。
 ラナは背を向けたまま沈黙している。人の流れが時折彼女を隠す。このままでは、また迷子になって迷惑をかけてしまう。手を伸ばしかけたとき、ラナが立ち止まって振り返った。
「……本当に、こんなこと、普通はティアレ様のお耳に入れるべきことではありません。もし、私が申したことが明るみになりましたら、私、罷免されてしまいます」
「そんなことには、なりませんよ」
 彼女は苦笑して、じっと待っていた。ティアレは横に並んだ。ちらりと横目で見下ろすと、彼女はとても厳しい顔をしていた。
「この国は、今ではこんなに明るい祭りを、開けるまでになったのです。私が子供のころ、考えられませんでした。陛下が真剣にこの国のことを考えてくれているとわかっても、こんなに早く、こんな日がくるとは国の誰もが予想していなかったのです。多くの人々は、きっと期待すらかけていませんでした。今日のこの日は陛下の尽力なしには成しえなかった。私はそう思います。……ですが、その陛下は? この国が立ち直っていけば立ち直っていくほど、陛下の何かが磨り減っていくように、私たちには見えました。お傍近くお使えする、奥の離宮の女官だからこそ、そう思うのでしょうが」
 かける言葉に困る。シノもまた同じようなことをかつて口にしていた。初めて、ラルトに出逢ったころ。皮肉に口元をゆがめて、自分を見つめていた、権力者。
「レイヤーナ様は、本当に、とても愛らしくて朗らかな方、だったのです。けれどもどこをどう間違ったのか。レイヤーナ様が茶器を投げられて、陛下は[ひたい]から血をお流しになられて、でも陛下はただ悲しそうに微笑んで、何も仰らなかった。陛下は、すり減らしていくばかりだった。ですが、ティアレ様がおいでになられて、あれこれ思案なされる姿すら、どこか楽しそうに見えました。レイヤーナ様が、もし仮に生きていらっしゃられたら、陛下はすり減らしていくばかりで、ティアレ様はこの国に留まりになられないで。そんな未来は、すこし悲しいと思ってしまったのです」
 彼女の語る意味が、いまひとつよく判らない。
 口を開きかけたティアレを制するように、ラナは言った。
「ふと、思ったのです。ティアレ様がこの国に、留まりになられ、陛下のお傍においでになられるように、レイヤーナ様はお亡くなりになられたのやもしれない、と」
「あの」
 それは、どういう意味か。
 まるで、レイヤーナが死んでいてよかったとでも、いうような。
 ラナはばつが悪そうに表情を曇らせ、一礼を取った。
「申し訳ございません。いうべきではありませんでしたそんなこと。本当に。さ、そろそろ引き返しながら見て回りましょうティアレ様。丁度戻った頃に、舞の奉納が始まりますわ」
「あ、はい。そうですね」
 今まで見て回っていた露天商の列とは逆の列を、来た道を戻りながら見て回る。たわいのないおしゃべりに興じながら、ふと不安に駆られる。
 自分は、彼女らの期待に応えられるだろうか。
 いまさらながら、ラルトという存在の傍に立つことが、どんな意味を持ち合わせるのか理解する。
 理解して、戻ってきたつもりだったのに。
(しっかりしなくては)
 唇を引き結んで、ティアレは気を引き締めた。左手には林檎飴、右手には、小さな匙を握り締めているので、外面的にはさぞや滑稽であろうが。
 足に力をこめて踏み出したとき、ふとティアレは背後に視線を感じた。
「どうかなさいました? ティアレ様」
「……いえ。ごめんなさい。本当に美味しくて、林檎飴」
「本当に。私も初めてのときは食べるのに苦労したものですけれどね。なのについつい食べすぎちゃって、気分悪くなったものですよ」
 明るく屈託なく笑うラナ。ティアレは小さく微笑みに口元を緩めて、同時にちらりと背後に視線を送った。もうあの、突き刺さるような目線は消えている。
「さぁ急ぎましょうか」
 ラナに促されて再び歩き始める。少しあの視線の主が気になりもした。だが針の筵のような視線にはなれていたし、彼女の楽しいおしゃべりと露天に並ぶもの珍しい品々は、ティアレの意識をすぐにそらした。
 ラナに手を引かれて歩き出す。この手のぬくもりが、今頃各国の代表者に囲まれてあくせくしているだろう人のものだったら。
 最初にこの祭りのことを話してくれた人のものだったら、と、僅かながらティアレは思ってしまい、なんだかとても自分が贅沢もののような気がした。


 少々苛立っていることを、自覚せざるを得ないかもしれない。
 その立腹具合を顔に出さずに行動するため、必要以上の労力が要求された。ラルトはため息をついた。表情はどうにか取り繕えても、指示を出す声に苛立ちがにじみ出てしまったからだ。
 舞を奉納するための祭壇の準備がぎりぎりで、出来る限り人手をかき集め、時間に追われながら総動員で取り掛かっていた。
 数刻前、ラルトの元にこわごわと舞台の不備を報告してきた担当大臣の表情を思い出す。皇帝が自ら現場に足を運んで指示を出すなどと、それこそシノ以下女官一同が口うるさく言う威厳云々に係わるのではないか。状況と時間、そして人手の不足三拍子が揃った今となっては仕方がないが。
 突然の皇帝の登場に脅えている家臣たちに発破をかけて、どうにか動かすしかなかった。とりあえず担当していた大臣は頃合をみて議席からはずすしかないなと、祭りを終えた後にやるべき仕事を思えば頭が痛んだ。
「失礼いたします皇帝陛下」
 拳と手のひらを胸の前で合わせ一礼してきた男に、ラルトは向き直った。
「何だ?」
「お一つ提案させていただいてよろしいでしょうか?」
「あぁ? かまわない。言ってみろ」
 長い黒髪を肩口で結わえた、少年の面影すら残すまだ若い男は、仮面でも被っているかのごとく眉一つひそめず淡々と作業工程の変更を進言してきた。男の見解は実に客観的で、そしてよくよく考え込まれたものだった。あごに手を当ててラルトは思案する。その思案は一瞬で、すぐにラルトは笑って手のひらを振った。
「いいぞやれよその形で。ただ指示はお前が出せ。お前がたった今から責任者だ。ただ間に合わせろよ。時間は迫ってきているんだからな」
「はい。ありがとうございます」
「どうせ俺もそろそろ迎えが――」
「陛下」
 ほらきた、とラルトは早足で歩み寄ってくるジンを見つめた。至極真面目な顔つきで歩いてくるのは、『宰相』としての立場を重んじてだろう。
「失礼いたします少々よろしいでしょうか」
 公の立場でしかそんな堅苦しいやり取りはされないが、それでも七年だ。けれどもいまだになれない自分に、ラルトは内心苦笑を浮かべた。
「あぁ。今行く」
 ジンに促されるままに歩き出そうとして、ラルトは思いついて足を止めた。
「あーっと。お前! 名前訊いていなかった!」
 は? と振り返る先ほどの家臣に慌てて声をかける。名前を聞いておいて書類をきちんと纏めておかなければ、責任を取らせるときに困る。彼は引き結んでいた口元をほんのわずかに緩め、再度両手を胸の前で合わせて一礼を取った。
「エイ・カンウと申します。今年学館を卒業し、宮廷に上がりましたばかりでございます。お目にかかれて光栄です。皇帝陛下」


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