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第九章 そして祭りは始まった 2


 そういえば、と前置き、ティアレは言った。
「国境へ向かう際に、旧ハルマ・トルマ軍の行く末をほんの少し耳にいたしました」
「……なんだって?」
 目を見開いて、ラルトは上体を起こした。
 デュバートが兵を率いて併合したデルマ地方の中心地、城塞都市ハルマ・トルマは、傭兵を生業とするものたちが集まって出来た小さな自治都市だった。今まで誰もあの都市に手を出さなかったのは、住人が腕っ節の強いものばかりだということから、痛い目に遭うかもしれないという道への恐れがあったからだ。しかし実際には将があのシンバ・セトでは統率がとれるはずもなく、それなりの誠意をこちらの軍が見せれば、下級兵士はほとんどが無抵抗で投降、もしくは逃亡したという。残ったのは、既に街の人間として根を張ってしまったものたちだけであったらしい。
 逃げ出した兵士達の末路というものを、ラルトはほとんど耳にしていない。
「まとまりあるものは西大陸へと渡ったそうです。カジャから移民船がでたそうですよ」
「西大陸への移民船?」
 ラルトは無意識のうちに眉をひそめていた。
 カジャはハルマ・トルマがあるデルマ地方に隣接する地方だ。半島として内海に突き出ている部分の地方を示す。だがあそこには大規模な波止場などないし、あったとしても湾内を周回する小さな漁船がどうにか停泊できる浜程度だ。そもそも外海へ渡れる船は手続きを踏まなければ出航できず、そのようなものがカジャに停泊してのなら、御史が必ず報告してくるはずだった。
 そういった旨を手早く説明すると、ティアレが不思議そうに瞬きを繰り返していた。
「そうなのですか? 私はよくわかりませんが、カジャに暮らしている漁師に声がかかったそうです。西大陸へ出る船が領海内に泊まっていて、そこまで残党兵を運ぶようにと。ハルマ・トルマの傭兵がカジャに流れて、大変だったと伺いました」
「もともとデルマを併合したのもカジャに難民やら傭兵やらが流れるからだ。ハルマ・トルマを中心に統率が取れて、治安がよければ、デルマを無理に併合なんてしなかったさ」
 自治都市に派兵し、併合するという行為は他国に不信感を招く。デルマに派兵する前も、隣国への根回しに苦労させられた。特にデルマ地方を挟んで隣接していたダッシリナとは再三揉めたのだ。
「声をかけたのは領主か?」
 ラルトの質問に、ティアレは首を横に振った。
「そこまでは私も存じ上げません。私もただ、街人の話を耳に入れただけでしたので」
 直接会話したわけではなく、どこかで食事を取った折に、人の話が漏れ聞こえた――そんなところなのだろう。
 あふれかえる傭兵に、頭を抱えた領主が手段を講じ、この多忙のせいで報告をしていない、もしくはまだ自分がその報告に目を通していないだけであるのなら、構わない。
 それにしても奇妙な点がいくつかあった。内海を渡る船は公式の印がなければ出港できない。そして今はこの海が最も荒れる冬だ。海賊ですら、船を入れるのを躊躇う。それを、この時期に外界へ船を出すのは、自殺行為に等しい。
 諸島連国や他の大陸の使者でさえ、水の帝国に入ってくるには一度ダッシリナを通るのだ。船などと、一体誰が許可を出したのか。
 そして、西大陸、という部分がひっかかる。
 移民その他の受け入れ先を探すのなら、同じ大陸内、ダッシリナや、その向こうのカバサナのほうが早い。西大陸へはどうあっても、一度諸島連国辺りで補給を受けなければならない。しかも主軸国のメイゼンブルが滅んで久しいのだ。残党兵とはいえ、その実態はならず者だ。混乱を極めているはずの西大陸が、決して少なくない数の彼らを受け入れるとは考えにくい。
(デュバートが、前もって手配していた?)
 デュバートはメイゼンブル出身だ。けれども彼がそうしてやる義理がない。確かにデルマ地方の権利を、彼に譲渡はしたが。
 メイゼンブル。
 滅び去った西の大国は、かねてよりこの水の帝国と付き合いが深い。だからといって滅びた後までも繋がりも何もなしに、いらぬ厄介を背負うとは思えない。
 大体、残党兵の大移動などというものが行われているのなら、報告書だけではなく、誰かが奏上しているはずだ。やはり、いくら多忙を極めていたとはいえ、自分が知らないということはおかしい。
 執務室に戻ったら、報告書が上がっていないか探してみよう、とラルトは心に決めた。
「ですがラルト様がご存じないとは、驚きでした」
 ティアレはラルトから解放され、卓上の茶器で茶を入れなおしているところだった。
「何故?」
「街人たちの話しぶりから、ラルト様が手をお打ちになられたように、聞いたものですから」
 そんなはずはない、とラルトは反論しかけ。
 ふと。
 そこで嫌なものが脳裏をよぎっていった。
 ひらめき、というものだ。が、それは出来れば閃いてほしくはなかった考えだ。だが恐るべきことに、その閃きは解れた糸を解きほぐし、穴が開いた思考に蓋をし、埋め、一本の道筋を指し示す。
 血の気が、引いた。
 引くと同時に、身体を痺れが支配していく。脳裏に止んだ微笑と爪あとと、女の泣き顔が再生された。
 じくじくと、まだ膿んでいる傷口が開く。
 ラルトは立ち上がり様によろけ、かしゃんと茶器が落ちる音を聞いた。
 怯えながら、床に落下し、円を描きながら中身を零す椀を見やる。
 広がっていく、紅いもの。
 呻きと悲鳴と、女の微笑と。
『……らぎりもの』
「ラルト様!?」
 ラルトを現実に引き戻したのは、悲鳴じみた女の声だった。
「大丈夫ですか? 火傷いたしませんでした?!」
 腰を落とし、ラルトの手をとってその手に降りかかった茶を、ティアレが拭う。温度を見計らわれた茶は、実際それほど熱いというわけではない。火傷などするはずもない。
 だがティアレは、そのひやりとした手でラルトの手をとり、丁寧に白い布で手にかかった茶を拭った。その必死さに、苦笑を浮かべかけ――どうしようもないほどの胸の痛みに駆られて、彼女の腕を取った。
「……ら………ど、どうか、なさいました?」
 突然腕をとられ、抱き寄せられて狼狽しているのは彼女だった。抱き寄せられたことよりも、その体位に狼狽しているのだろう。その胸にすがりつく子供のように、彼女を抱き寄せて、ラルトは彼女が纏う茶葉の匂いをすった。
 記憶にある血の臭いを振り払い、硬く目を閉じ、抱く腕に力をこめる。
「……悪い、俺戻る。それを片付けておいてくれ」
「……はい」
 身体を離すと、ティアレは目を白黒させていた。わけが判らない、と寄せられた眉が物語っている。軽くその頬と瞼の上に唇を寄せて、ラルトは立ち上がった
「陛下? どちらへ……」
 途中で、掛け布を持ったシノとすれ違ったが、立ち止まることができぬほど、気は[]いでいた。
 そして真っ直ぐに向かった先は。
 執務室でもなかった。


 誰もが、笑い合えるような国を。
 それは一つの約束事だった。自分達が交わした初めての、そして永久に守られるべき約束だった。この国の摂理を根底から覆す。魔術に頼るのでもなければ、人民を生贄として差し出すわけでもない。自らの手で。
 折り重なっていく呪いに膝をついた屍にも、うんざりしていた。
『一緒に作るんだ』
 身につけていたのは喪服で、誓った場所は墓所だった。眼下に広がる城下と広大な水の土地。けれどもその豊かな水と同じほどの血が、この国には染み込んでいる。
『約束だから』
 そう言い出したのは果たしてどちらであったのかは判らない。おそらく二人同時に言い出したのかもしれない。そのときの記憶は薄れていくばかりで、ただその内容ばかりが鮮明で。
 ただ。
『約束だ』
 この呪われた帝国において、その約束はとても重かった。
『この国を二人で作り変えていくために、絶対的な信頼と命を互いに預ける』
 とても。
『裏切るなよ』
 重かった。
 はずなのに。


「お前どこいってたんだぁ? あっちに呼びにいってもいないしさ」
 夕刻と呼ぶには少し早い頃合に、埃まみれで執務室に戻ると、案の定ジンのあきれ果てた顔があった。
「俺、お姫様を抱き枕に、仮眠でもとってきたらっていったんだけど、なんかますます疲労の影こくなってるじゃん。どうすんの?」
「悪かった」
「突然姿を消したラルトの埋め合わせさぁ。聞いてあれとかそれとかこれとかそりゃもういろいろと今日もやる羽目になりましたよ」
「あーあーもう悪かったな!」
 頭をかき回して叫ぶと、ジンの笑い声が上がった。
 執務室は雑多に物が積み上げられていて、歩くたびに書籍から零れ落ちた細かい埃が舞い上がるが、先ほどまでラルトが居た、地下の書類保管室よりは幾分かマシであった。とりあえずこの部屋は、呼吸するたびに黴に肺が侵食される気分を味わうことは無い。ジンが傍らに立って、ぽんぽんと肩を叩いてくる。白い埃がぽろぽろ零れ落ちて、夕方の光差し込む執務室に踊った。
「あーあ。酷い有様。だいたいなんで湯浴みしにいって仮眠とってこいっていったばっかなのに、こんな酷い格好してるのさ。もういっかい軽く身体拭いてきて着替えてきたほうがいいよ。もうすぐシノちゃん来るし。怒られるよぉ」
「そう脅すな」
 楽しげに脅しをかけてくる幼馴染に、ラルトは脱力しながら呻いた。
 昼前に湯浴みしたことを知っているシノが、この姿を見れば確実に激怒するだろう。部屋の入り口に置かれている姿見を見て思う。確かに今の自分は酷い有様だ。
 頭から埃を被った、泣きそうな顔をした男の姿がそこにある。
「ジン」
「んーなにうわおどうしたのラルト!」
 とりあえず抱きついてみせると、幼馴染はこれ以上ないほどに大いに慌てた。しばらく彼は手をばたばたと振り回していたが、しがみついて動かないこちらを認め、少しため息をついてみせた。
「……どうしたのラルト。疲れてる?」
「少しな」
「抱きつく相手違うっしょ」
「かも……なぁジン」
「なんすか?」
「お前、この国が好きか?」
 裏切りの帝国。そのように呼ばれて久しい、もはやその二つ名のほうが広く知られる、呪われた帝国。
 ジンがこの国にあまり頓着していないことを知っている。むしろ彼自身は世界を旅して回りたかったのであろう。幼い頃から彼の枕元につまれていた、異国の地図、異国の冒険記の数を、知っている。
「……俺が愛しているのはお前だよラルト」
 真剣な響きがある。ラルトは笑ってジンの身体を離した。
「………男の愛の告白なんて聞きたくないもんだ」
「馬鹿いってないで早く湯いってきなよシノちゃん来る前に。あーぁ。俺も服着替えなきゃ。何すんだよ埃だらけ」
 ばさばさとジンが袍の裾を振るうと、細かな埃が舞った。けらけらと笑い合う。冬の白い光が差し込む部屋に舞う埃は、お世辞ではなく綺麗だった。
と。
「失礼いたします陛下ならびに閣下」
 ばたん、と唐突に扉が開いて、青筋笑顔を浮かべたシノが、子供をあやすような、けれども決して優しくない声で呻いた。
「メルゼバ共和国の方々があとすこしでお着きになるそうですと早馬が参りましたが、その埃だらけの格好でどのようにしてお顔をあわせるつもりでいらっしゃいますの?」


 到着した来賓の第一陣との簡単な会談を済ませ、春待ち祭りの打ち合わせに顔をのぞかせる。執務室に戻り書類を整理し、ティアレに聞いたカジャからの移民船の報告書を探した――が、やはりなかった。
 睡眠をとるのもそこそこに、地下へと潜って紙片をひっくり返しながら、シンバ・セトのいた独房の看守から話を聞く。夜明け、眠い目をこすりながら執務室へと戻った。ジンと他の文官たちと顔を突き合わせて祭事の最終調整。次々と到着する来賓とも顔を合わせないわけにはいかない。半分寝ながらで内容は覚えていないのだが、とりあえず挨拶会談会食を済ませた。
 翌日、春待ち祭りの関係で具合よく首都へ来ていた、カジャの役人と短い会話を交わした。来賓の数が増えてきた都合上、官服でうろつくわけにもいかず、慣れぬ重い衣装はラルトの疲労をより濃いものにした。
 毎日夜半まで仕事を片付けどうにか捻出した休憩時間、こっそり宮廷を抜けて、元デュバート候の屋敷へ。
 そういった諸々のことを、ひとつひとつこなしていくたびに、足が重くなっていくのを感じた。
 それはきっと、眠れない日々が続いていたからだけではない。


 窓から差し込む柔らかな朝日の要求に応じ、ラルトは面を上げた。欠伸をかみ殺しつつ軽く頭を振る。と、はらりと一枚、紙が落ちた。頬に張り付いていたらしい。指先でひょいとつまみ上げ、頬杖をつきながらぼんやりとその書類を見つめた。
 それは、報告書だった。
 自分もまた足を運んだもの、この目で見たもの、調べさせたこと。
 全てを纏めた、一枚の報告書。
 くしゃりと、それを握りつぶして、部屋の隅にそれを放る。両手で強く、顔を拭った。
「おいラルト。起きてる?」
 軽く戸を叩く音と同時に扉を開けて、執務室に踏み込んできたのはジンだった。浅黄色の長衣を身につけ、光沢のある濃い緑の帯で腰を縛っている。彼にしては珍しい簡素な仕立ての衣服だ。
「起きてるよ」
 ラルトは頭をかき回しながら、再び欠伸をかみ殺した。緩慢な動作で立ち上がる。
「なんだよその顔。ラルトもしかして寝起きぃ?」
「あぁ……そんなに眠たそうな顔してるか?」
「うん。てかね。顔に墨がついちょるよ」
「げ」
 反射的に頬に手をやり、強くこすって手のひらを見やれば、黒いものが付着している。書類を枕にして寝るからだ。ラルトは自嘲のため息をこっそり落とした。
「やはははめずらしいっちゃめずらしいね。いつも俺の方が顔洗って来いっていわれるのにねー。つうわけで今日は俺がいっちゃうよ。顔洗ってきなよラルト」
「というか湯浴みにいってくる。このまま行ったらシノの怒りが怖くて仕方がないからな」
 この前埃だらけで発見された折、あの女官長は着替えを手伝ってもらう間中ひたすら小言を言っていたことを思い出す。ジンも同じことを思い浮かべていたのか、目配せをしてきた。
「うむ。いい心がけだねぇ」
 ジンが朗らかに笑い、ラルトもつられるようにして笑んだ。椅子から立ち上がり、ジンに歩み寄る。
 ラルトは手のひらを握りこんで拳を作り、こん、とジンの胸に当てた。
「じゃ、また後で。今日はよろしく頼むからな。ジン」
「わぁってるって」
 拳が離れて、距離が開く。
 祭りが、始まる。


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