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第九章 そして祭りは始まった 1


「くせぇなぁ」
 兵士の一人が苦情を漏らした。鼻が曲がりそうだ、と彼の同僚が言った。彼らの主張ももっともだ。彼は皆と同じように顔をしかめた。武官の命を受けて、都郊外の古い屋敷に踏み入る兵士達に混じった彼は、普段は皇帝もしくは宰相の勅命でしか動かぬ暗部の人間だ。もしこの場に目的の男がいるのなら、密かに運び入れるようにとの命を受けていた。
 この屋敷を誰かが使っていると報告してきたのは、この辺りに薪を取りに来る農民の子供達だった。最初は皆子供達を馬鹿にしたが、ささいな報告の調書を目にしたらしい皇帝が、武官に命じて哨戒兵をこちらに回させたのだ。
 が、それは無駄足に終わったようである。
 屋敷は朽ちかけ、この場にいた誰かを判別するような形跡は一切残っていなかった。が、誰かがここにいたのだという確認はとれた。地下の牢に何者かが囚われていた形跡がある。悪臭は、そこから漂っていた。
 地下牢には血糊のようなものがべったりと付き、石畳の溝を赤黒いものが埋めていた。肉片のようなものも壁に張り付いてみられるが、それが正しくは一体何であるのかは判別しかねた。
 そしてこの悪臭。腐臭は仕事柄幾度もかいだが、それとは少し異なったものであるような気がしていた。
 ふと、彼は足元に描かれた円のようなものに気がついた。銀の粉を溶かした墨で書かれた円だ。ほとんど消えかかっているが、それが術式を執り行う際に用いられるものだと知っていた。
 術式。久方ぶりに目にするものだ。先代の皇帝が随分術式に入れ込んでいたが、現在の皇帝に代替わりしてから、とんとそういう類のものを見なくなった。術師も暦官の役目を拝命したもの以外は、皆国外へ出たという。今ではこんな禍々しい術を執り行うものなど、この国にはいないはずだった。
(嫌な臭いだ)
 他の兵士達と同じように、彼はここで初めて口元を覆った。それは臭覚を刺激されたからというよりも、吐き気のするような暗い時代が記憶の隅に呼び起こされたからかもしれなかった。


 たとえばだ。
 鋼の密閉容器に入った鮭の塩漬け。
 もしくは鹿肉の味噌漬け。
 玻璃の瓶につめられた、果実の砂糖煮。
 外に出たくてたまらない保存食たち。
 けれど外へ出ることは叶わない。
 つまり、今のラルトの心境は、おおむねそのようなものだった。
「………俺は今ものすごく泣きたい気分だ」
「そっかぁ。あ、ラルトこれ、月例決済報告書。先月よりマシなんじゃない? 合計でみると。……で、なんで泣きたい気分なの?」
「……お前が、思った以上に留守をしっかり預かっていてくれたことに対するうれし涙」
「おぉ。俺ってば、がんばっちゃったもんね!」
 あは、と笑いながらジンは次の書類を手渡してくる。ラルトはさっと目を通した月例報告書を、再確認要の書類の束の上にぽんと乗せ、その書類を受け取った。題名は難民定住枠。
 ぱらぱらと目を通し、問題ないことを確認。年々の難民等の比率を見て、こんなもんだろうと頷き、裁可の判と署名をして、査定終了書類の山の上に無造作に放り投げた。
「じゃぁ次お待ちかね春待ち祭りのほうへ行く?」
「待っていないがそうしてくれ」
 昨日今日で片付けた書類の山を見やる。もうすぐ文官がやってきて、この書類の山をえっちらおっちらひきとっていくだろう。国境近くから帰ってきて早十日。ティアレをシノに預け、服を着替えてこの執務室に直行して、会議を除けば湯浴みと手水以外本気でこの部屋から一歩も出ていない。ジンはラルトの執務机の傍に椅子を引っ張ってきていて、机の半分を占領して作業していた。彼は自分ほどこの部屋に縛り付けられては居ないが、それでもあちこち往復したり春待ち祭りの準備の状況を見て回ったり警備の打ち合わせをしたり云々。
 つまり、仕事漬けだった。
 一刻サボればツケがくる。だというのに数日も政務に穴を開けたのだから、ジンが最小限の仕事を終えていてくれたとはいえ、ツケの量たるや、言わずもがな。
 ここから出たくても叶わない。追い込んでいるのは自分で、言い訳も出来ない。仕事が嫌なわけではない。けれどもここまで缶詰状態だと、気が滅入る。
 ため息をついて、ラルトははす向かいに腰を下ろすジンを見た。
「進み具合はどれぐらいなんだ?」
 ラルトの留守中、祭りの準備の進行状況をすべて見てきたのはこの幼馴染だ。そして、ラルトが鮭の塩漬け、鹿肉の味噌漬け、あるいは、果実の砂糖煮になっているあいだも。
「舞台の進展がいまいちだねぇ。嵐が来たでしょ。お前が居ない間大雨降って一時中止になったし、采配を振るう文官がヘボだ。やばいかも」
「あとで見に行かなきゃな……」
 がっくりと肩を落としてラルトは頭の中で今日すべきことを確認してみる。日付を確認すればするほど気分が滅入る。何せ、祭事は目前なのだ。女官も兵士も文官も民も、誰もが下準備の忙しさに忙殺されている。皆が活気付いている姿を見るのは喜ばしいが、自分が一箇所に引き止められているのは嬉しくない。
 そしてラルトの場合、この祭事の下準備に集中して、ということは無理だった。祭りが終わってすぐの年末決済の会議の準備や春に行われる人事異動の承認、口分田の改革の懸案――しなければならないことは息つく間もないほど沢山ある。
「あ、そういえば報告聞いた? ウルから」
 とんとん、と、書類の束の角を机で揃えながら、ジンが尋ねてくる。
「あぁ……屋敷の件か?」
 ウル、というのは暗部の一人だ。ジンがどこからか見つけ出してきた。もともとの職がそちらのほうだったらしいので暗部に籍を置かせているが、そのうち別の部署に引き抜こうと思っている人材である。先日、デュバートの所持する古い屋敷からおあつらえ向きに人影があると、農家のほうから報告が上がっていたので、憲兵についていかせたのだ。
「聞いたよ。また一からか」
 調査は空振りに終わったらしい。屋敷は、人の跡を残しつつも、もぬけの殻だったという。
 呟きながら、ラルトは考えていた。シンバ・セトがいたと思われる屋敷には、魔術の跡があったと報告に上がっていた。シンバ・セトが術師を抱きこんでいる可能性は十分にあった。ティアレが囚われていたのもまた、魔術の檻であったらしいからだ。
 だが一体何の為に、魔術など。そもそも、一体何の術を施したのか。術の跡にはべっとりと血糊がつき、人が誰か死んだのでしょうとも、報告にあった。
 あそこで一体何があり、そして件の男がどこへと消えたのか。何もなければよいのだが、どうしても胸騒ぎがしてならないのだ。
「ラルト、仮眠とったら?」
 身を乗り出しながら提案してくるジンに、ラルトは面を上げた。
「仮眠?」
「そう。だって寝てないっしょ、昨日」
「少しは寝たよ」
 一刻満たぬ、時間だったが、という一言を、ラルトは飲み込んだ。頭は鉛のように重いが、うまく寝付けなかったのだ。
「まぁいいから寝なよ」
「お前はどうなんだ?」
 彼のほうが執務室から出る機会は多いとはいえ、仕事なら、ジンもラルトと変わらぬ量をこなしているはずだ。睡眠時間が十分に取れているとは思いがたい。
「ラルトよりは寝てるという自負はあるよ」
 ジンは胸を張るようにして言った。
「ここから動いている分、新鮮な空気も多く吸ってるしね。大体、皇帝がいそいそ働きすぎてたら、こっちはおちおちサボれもしないんだ。睡眠ぐらい、きちんととってよ」
 お前にだけは、言われたくない。
 胸中で呻くだけにとどめておいて、それでは、とラルトは腰を上げた。
 執務室の中二階には、仮眠用の寝台がある。部屋の奥、並び立つ本棚に隠されるようにして上へ上る階段がある。そちらのほうへのろのろと足を進めると、がたん、という椅子を引く音が背後で響いた。
「おいおいラルト、どこいくつもり?」
 苦笑しているジンを振り返りながら、ラルトは首を傾げた。
「……は?」


 祭りが近いということもあって、村も町も城も、国中の誰もが皆浮き足立った雰囲気で包まれていた。奥の離宮も例外ではない。小川と林、そして広い庭によって本殿から隔離された館にも、その雰囲気は確実に伝播していた。足を踏み入れる女官達が、ティアレの傍に美しい織物を持ってやってくる。宮城を飾る布は、そのままティアレに手渡された。縁取りの刺繍のほんの一部を、ティアレが再び請け負ったからだった。
「失礼いたします」
「シノ」
 台車に茶器を載せてやってきたシノを、ティアレは刺繍の手をとめて迎えた。忙しさが増したのか、近頃ティアレの傍にいるのは他の女官達が主だった。シノが女官長という、実質上宮城の女官全てを統率する立場にあると知ったのは、ティアレがこの奥の離宮に戻ってきてからのことだった。祭りでは多くの女官が支度に借り出される。その統率に文字通り忙殺されているらしく、ここしばらくシノの姿を見なかったのだ。
「お久しぶりでございますティアレ様」
「お久しぶりですシノ。こちらにきても大丈夫なのですか?」
「陛下ほど忙しくはございませんので」
 そう言って苦笑をもらすシノは、てきぱきと卓の上に茶菓子の入った籐の籠と茶器を並べ置く。つられてティアレも苦笑せざるを得なかった。ラルトは忙殺どころの勢いではないらしく、こちらのほうに来ることも難しい日々がもう十日続いている。その彼と、忙しさを張り合ってはならない気がした。
「お体のお加減はいかがですか?」
 ことん、と水差しの中に招力石を落としながらシノが言った。しゅわしゅわと湯の沸く音。茶葉の量を匙で計りながら、ティアレは返した。
「えぇ。大丈夫ですよ。リョシュンにもお墨付きをいただきました……ただ足は傷つけることが癖になっていると、注意されましたけれど」
「養生なさいませ……あぁそのようなこと、私がいたしますのに」
「これぐらいさせてください。最近ようやっと、お茶の淹れ方が上達してきたのです」
 おかけください、とティアレはシノに言って、茶道具を奪った。どうせティアレは暇な身だ。茶を淹れて多忙な女官長を労う程度は訳ない。
「あぁ……本当だったのですね」
 眉間を軽く押さえながらシノが言った。
「何がですか?」
「ラナたちが、ティアレ様が仕事を奪ってしまうのだと、嘆いておりましたので」
 その言葉には笑いが込められ、決してティアレを非難しているものではなかった。ティアレはただ、身の回りのことを自分でしているだけである。身づくろいしかり、茶をいれることしかり。
「お茶を淹れて女官の方々を労う程度のことしかできません。皆さんお忙しいのに、よくしてくださって」
 そのようなことをシノに伝えると、彼女は盛大に嘆息を零した。
「いいえ。全くそのようなことは。本末転倒でございます。大体私達女官の多くは、ティアレ様のような姫君に仕えることが本職でありますれば。最近の仕事と申しましたら、むさくるしい殿方の忙しいという愚痴を聞いたり取次ぎをしたりとそのようなことばかりで」
 シノにしては珍しい物言いに、ティアレは小さく笑いながら彼女に陶磁の茶碗を差し出した。その椀をシノは恐縮そうに受け取った。
「ありがとうございますティアレ様……まぁ、そのようなことですので、身の回りのことは全てご自分がなさるなどということを申されては、私共女官一同、寂しく思わずにはいられません」
「心しておきます」
 世話をさせろ、という女官長に、ティアレは一つ頷いておいた。
「お急ぎにならずとも、そう遠くない未来には、ティアレ様にはしていただくお仕事が山積しております」
「まぁ、本当ですか?」
 手を合わせて、ティアレは感嘆の声をあげた。奥の離宮で女官の仕事の手伝いをするとはいえども、たかが知れていて、日がな本を読んだり、庭を回ったりして日々を過ごすに留まっている。
「えぇそれはもう。ですから今のうちにご養生なされませ」
 意味深な笑いを浮かべつつ、しかしそれ以上シノはその仕事とやらについて言及する気はないようで、話題は自然と他の事に移っていった。例えば、祭事のことや、季節、宮城に仕える人々の構成、役職について。最近、女官達は話題の中に宮城の内情についての事柄を挟む。以前はそれとなくそういった話題から遠ざけられていたことが判っていたので、ティアレがこの国に――端的にいえばこの宮城に――早くなじむようにとの女官達の心配りをティアレは嬉しく思う。
「今日も陛下と閣下は執務室に缶詰ですわ」
 先ほど執務室に寄ってきたらしいシノは、彼らの嘆きを代弁するかのように盛大にため息を落としてみせた。
「それはそれは仲睦まじく、書類に埋もれておいででした。お仕事とは重々承知している身ではありますが、よくもまぁ毎日飽きずにお二人であの狭いお部屋に篭れるものだと、感心しております」
「仲がよろしいからこそ、お二人で飽きることなくお仕事を進めることができるのでしょうね」
 口元を緩めながら、ティアレは言った。
 そう、あの二人は、とても大切に思いあっている。
 ティアレは結局、娼館に転がり込んだ顛末を詳しくラルトには話さなかった。案内人の男とはぐれて行き倒れたのだとだけ、彼に伝えた。
 ジンが自分を殺すように命じていたのも、ただラルトの将来を案じてだろう。ティアレが採択したわがままは、それだけラルトを危機に陥れる可能性を秘めていた。隣国ダッシリナまで送り届けるように言われていたといった、あの案内人は、ジンにティアレの選択を前もって告げていたのだろうか。奥の離宮に戻ってきてすぐに、一度だけラルトと共に彼に会ったが、ラルトの報告にもジンは大して驚いた様子も見せなかったし、案内人はどうしたのかということを、訊いて来ることもなかった。
 ラルトのわがままには負ける。ジンはそういって笑った。ラルトはすまなさそうにしていたが、安堵したようでもあった。
 幼馴染というものを、ティアレはもったことがない。だからその絆がいかほどなのかということは、計りかねる。が、あの二人は特別互いを大事に想い、そして信頼しているように思えた。
 ラルトとジンは、自分のことについては反目しあっているようであったから、この身が彼らの絆に頚城を入れることがありませんようと、ティアレは願っている。
「そうですね。あのお二人が頂点に上り詰めるまでに、並々ならぬ苦難がございましたもの。戦友のようなものなのでしょう」
「……内部分裂のことですか?」
 三年前の内部抗争。シノの言葉が暗に指し示す意味を勘繰って、ティアレは躊躇いがちに尋ねてみた。が、シノは、いいえ、と首を横に振った。
「まだ、たくさんのご兄弟の方々がご存命のときのことでございます。陛下も閣下も、当時、現在の地位から一番隔てられた立場においででした」
「そうなのですか?」
 異母兄弟をラルトもジンも数多く抱えていた、という話は聞き及んでいる。が、一番隔てられた立場、ということは初耳だ。ティアレは茶を飲む手を止めて、シノを見つめ返した。
「えぇ。陛下も閣下も、それぞれのお家で末弟でございますれば。お二人共、さして権力には興味をお持ちになっていらっしゃらなかったようですけれども、周囲の目にはそのように映らなかったのでございましょう。陛下のご生母様は後ろ盾も何も持たない、平民の方でいらっしゃいましたが、先帝の特別のご寵愛を受けた方。閣下のご生母様は、西の大国の姫君でございます。他のご兄弟を差し置いて家督を継ぐことは、お二方が生れ落ちたその瞬間から十分に考えられることでございました」
 どの国の王家でも、そして王家のみならずある程度の家ならば、家督争いはそのまま周囲の権力争いに繋がる。血のつながったものたち同士で殺し合い奪い合う、この世で最も浅ましい生存競争だ。その上、この国には歴史があり、そして呪いがある。その争いの苛烈さは、想像するべくもない。
「あれは、お二方が十に手が届くか届かないかの年でございました。そんな闘争に巻き込まれて、お二方のご生母であらせられる方々が、お隠れになられたときだったと思います」
 シノが懐かしそうに目を細める。年数を逆算すると、ティアレがまだ、化石の森近くの農村で、畑の世話をしていたころだ。
「その時、初めてあの方々は、口にしたのでございます」
 為政者になるのだ、と。


 ジンに執務室を追い出され、勧めにしたがってまず湯を浴びた。身なりがさっぱりすれば、出てくる疲れもあるようで、奥の離宮に向かう頃には足が重くなっていた。
 女官が出払っているらしく、奥の離宮はことのほか静かだった。夏の日陰のように静謐な雰囲気を湛えていたが、寂しさとは異なっていた。人の気配があるからだろう。
 灯りの入った部屋からは、ぼそぼそと話し声が聞こえていた。声からティアレとシノだということはすぐに判別でき、いつも控えている取次ぎの女官がいないようだったので、軽く戸口を叩く。が、反応がない。仕方なく、そのまま足を踏み込んだ。
「なんの話だ?」
 為政者云々、と聞こえて、ラルトは口を挟んだ。別に驚かせるつもりはなかった。が、彼女らにとっては十分であったらしい。茶卓を挟んで腰を下ろす二人は、揃って目を見開いて、ラルトを凝視してくる。
「まぁ、陛下、どうなさったのですか!?」
「どうなさったのって……ジンに叩き出されたんだよ。能率があがらないってな」
 ラルトは肩をすくめて言った。
 朝方シノとは仕事で顔を合わせている。その時の様子を思い返せば、ここに来られる余裕など、ないと女官長は思っていたのだろう。実際、ラルトも来られると思っていなかったのだから。
 それ以上彼女らの話を追求することが、どことなく面倒臭かった。欠伸をしながら、ラルトはシノに命じた。
「シノ、なにか上にかけるものを持ってきてくれ。仮眠する」
「かしこまりました」
 どこで、とは訊きかえされなかった。シノは心得たとすぐに立ち上がり、ティアレに一礼して退室していった。シノはかけ布を持ってはくるだろうが、少し時間を空けてくれるだろう。これで気も利かずにすぐに布を持ってくるようなら、女官長失格だ。
 ティアレが腰を下ろす長椅子の開いている空間を陣取ると、ラルトは半ば倒れこむようにティアレの膝の上に頭を乗せた。
 眠いからできることだ、とラルトはなんとなく思った。他人に甘えることも、それを、自分に許すことも。
 ティアレはやや瞠目したが、逃げることはしなかった。はにかむように少し笑って、恐々と、しかし優しく、ラルトの前髪を撫でてくる。
 昔、笑えないのだと泣いた女が。
 何時の間にこんな風に、笑うようになったのだろう。今はまだ野の小さな花のような微笑だが、それはまだ笑うという行為に、女が慣れていないせいだとラルトは思っていた。いずれ、彼女は大輪の花となって咲き誇るのだろう。
 温かい愛しさがひたひたと心を満たして、ラルトは無意識に彼女の髪を引いた。眼前にある瞳は、怪訝そうな眼差しをラルトに向けていた。軽く口付けをして、離す。それだけの行為だったが、妙に気恥ずかしかった。
「なんか、照れる」
 互いに、男と女を知らぬ者同士でもあるまいに。
 その意味を汲み取ったのか、ティアレは笑っていた。
「悪かったな、何日も顔を見せず」
「いいえ」
 彼女は首を横に振った。
「お忙しいことは、存じ上げておりましたので」
 音楽のように落ちてくる声に耳を澄ませながら、ラルトは彼女に申し訳なく思った。ジンに言われるまでもなく、自分はここに足を向けるべきであったのに。
「約束な」
 え、と首を傾げるティアレを他所に、ラルトは続けた。
「守れそうもない。仕事を詰めてみたんだけどな。全然終わらないんだ。春待ち祭りは、一緒に回ってみせてやることは、どうもできそうにない」
 すまない、と、ため息混じりの謝罪が口から漏れる。いいのです、と笑う彼女に対して、次に口から漏れたのは、言い訳めいた物言いだった。
「それに――セトだ。シンバ・セト。逃げ出したまま、まだ行方がしれない。いや、わかってはいたんだが……遅かった。屋敷を押さえたところで、また逃げられた。これで一仕事増えているんだ」
 睡魔で思考がうまくまとまらない。ラルトは額に手を当てたまま、ぶつぶつと仕事の内容を繰り返した。こんな話、彼女に対してすべきではないと、自覚しながら。
 しかし、到底理解しているはずもないというのに、ティアレはラルトの言葉にひとつひとつ、丁寧に頷いていった。
 木漏れ日のような温かく、愛しい、ひと時。
 レイヤーナ。
 夢現の中にあると、自覚しながらラルトは思った。脳裏に浮かんだのは、今自分に膝を貸し、髪を撫でている女ではなく、かつての自分の配偶者だったからだ。
 お前はどうして、と繰り返したな。
 どうして、傍にいてくれないのか、と。
 それはきっと、お前が俺を置き去りにしたからだ。
 膨大な責務。古い宮城に張り巡らされた謀略の網。それに自ら挑んでいったのは自分だけれども、その中に、彼女は確かにラルトを置き去りにしたのだ。彼女はラルトの手を握らなかった。ラルトの忙しさだけを非難し、最終的には拒絶した。
 傍にいてやりたいと願っていた。出来る限りのことはして、それがレイヤーナの心に触れなかったのは、ラルトの罪だった。しかしレイヤーナも確かにラルトを置き去りにしたのだ。
 呪いの渦中に。
 ラルトは息苦しい幸福の中で、初めて幼馴染だった少女を非難した。非難し、そして彼女に自分を置き去りにさせたのは、やはり彼女を非難することすらできなかった自分だったのだと、ラルトは思った。


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