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第一章 魔女と皇帝


 玉座に腰を下ろすことは好きではない。出来ればその場所から逃げ出したいとすら思っている。世界最長の歴史を誇る帝国の椅子は幾度か代替わりしているにしろ、他国に比べてはるかに数多い皇帝の気配を染み付かせていた。そのせいだろうか。なんともいえない居心地の悪さが、自分を襲うのだ。
 くわえて、段差。自分と家臣を隔てる段差が、どうしても好きになれない。相手の顔が見難い。もっとも、かつてこの椅子を温めたであろうものたちに言わせれば、家臣の顔色などうかがわなくてもよいということなのかもしれない。
 滅多に使われることのない謁見の間の玉座にこうして腰を下ろしているのは、国境への遠征から凱旋した官の報告を聞くためだった。いつものように朝議も行われる会議室を使わなかったのは、時刻が真夜中ちかいということもある。だがそれ以上に、この顔ぶれが原因であった。
 衛兵と、遠征で指揮を執っていた官はいい。が、問題は鎖で厳重に拘束され、玉座の膝下に跪く男と、彼のやや後方に控えるようにして外套を着込み、その被りものを目深に被った同じく鎖で拘束された何者かだった。彼らは、遠征の指揮を執っていた官――デュバート候に連れてこられてきた。彼らと自分を引き合わせたいとデュバートが主張したことが、この謁見の間を珍しく使用している理由だった。囚人を、さすがに宮廷内部まで連れて上がるわけにはいかない。
「何故連れてきたんだ?」
 ラルトは玉座の脇息に頬杖をついて、呆れの眼差しをデュバートに投げた。外套を着込んだ人物はともかく、階段を挟んで跪く男が誰であるのかは当然判別がついていた。シンバ・セト。今回デュバートの指揮によって無事併合を遂げた、城塞都市――別名<傭兵都市>ハルマ・トルマの元領主である。
「領主の処分はお前に一任していたが、連れて来いとは一言も言っていないはずだが? デュバート。夜中に衛兵と女官を叩き起こし、謁見の間を内々に使用するほど、何か有益なことでもあるのか?」
「仰る通りでございますれば。皇帝陛下」
 シンバ・セトの傍らで片膝をつき頭を垂れる男は、ラルトの言を肯定した。聞こう、と言葉の先を促せば、頭を垂れたまま、続けてくる。その顔色は、うかがえない。
「お恐れながら皇帝陛下の御身に、お言葉と贈り物を献上したいと」
「納めるべき土地も人も失い捕虜となった身でなにを献上できるというのか。教えて欲しいな? シンバ・セト」
 ラルトはせせら笑い、手を軽く振った。セトの、猿轡を外すための指示だった。内心は、かなりげんなりとしていた。執務室に篭り、夜明けまでに片付けてしまいたいことが山積みになっている。それらの数を胸中で指折り数えつつ、皇というものは面倒なものだとため息をつかざるを得なかった。
「お恐れながら皇帝陛下。お顔を拝見すること叶い、真に光栄の極みにございます」
 拘束から解放された男の口は、蛭のような粘着質な声を紡ぎだす。その脂肪にまみれ醜く歪んだ姿かたちといい、目にするだけでも毒だといえよう。
 ラルトは顔をしかめつつ命令した。
「前置きはいい。要件だけを述べろ」
「はは、なかなかせっかちな方でいらっしゃる」
 あるのかないのかわからない喉を逸らしながらハルマ・トルマの元領主は笑い声を立てた。威厳の欠片すら纏わぬその姿は、いっそ哀れだった。蛙の鳴き声にも似たその笑いに、一体この男は状況が把握できているのかどうか、男の知能を疑いたくなる。よほどの阿呆か、大物か。この男の場合、間違いなく前者であろうが。
「魔女のかけらを、ご存知でございますね」
 にやりと笑った男は勝ち誇るようにそういった。皇帝の意を表すために、軽く眉尻を上げる。
 男の口から零れた予想外の名前に、多少驚かざるを得なかったのは確かだった。聞きたくもない、名前であった。魔女の、かけら。
「古来より吟遊詩人が歌う魔導具。その秘めたる魔力や、国を滅ぼし海を空に変え、所有者を世界の覇者たらしめる七色水晶」
 セトがいう通り。
 魔女のかけらはかなり有名な、そして荒唐無稽な、魔導具だ。その存在を追い求めたものは数知れず、そして手に入れたものは、誰一人としていない。そしてそれは自分の父も、祖父も例外ではない。彼らは共通の目的のためにそれをかつて追い求め、引き換えに国の全てを犠牲にした。
 魔女のかけら。
 それはあまりにも、この国の人間にとって苦い記憶を引きずり出す――。
「此度私は、陛下に魔女のかけらを献上したく思い、謁見を願い出ました次第でございます」
「……何?」
 ラルトは眉をひそめ、身を起こした。この男は今なんと言ったか。魔女のかけらを、献上する?
 魔女のかけらは伝説だ。人々に夢を与える幻以外の何ものでもない。けれどもこの国では長い間、単なる御伽噺では済まされなかった。幻でありながら、幻以上の重さでこの国を侵食し、ある意味とどめ[・・・]を差したのが、魔女のかけらという魔導具なのである。
「正気であるのか」
「この目が嘘を申しているように見えますでしょうか」
 前言撤回。
 この男は阿呆であるが、大物の阿呆である。真性の馬鹿か。さもなければこの状況で堂々と法螺を吹くことなどできはしまい。
 デュバートが、ふとラルトと視線を合わせ立ち上がった。彼はセトの後方に回ると、あの外套を着込んだ人物を引き起こし、デュバートの横に引きずりだした。その顔が、嫌悪めいたものに歪んでいる。彼の表情に首をかしげて目を凝らしたラルトは、セトの自慢げな声を聞いた。
「ご覧ください陛下。こちらが、魔女のかけら――私の所有する最後の品、“傾国姫”でございます」
 外套が。
 ぱさりと音をたてて地に落ちた。
 薄汚れた布地の中から現れたのは、女だった。眠い目をこすっていたに違いない兵士たちすら、はっと吐息を飲まずにはいられない、文字通り目の覚めるような美貌を携えた女であった。
 否。
 目の覚めるような、などという陳腐な言い回しで形容してはならない。その女の美しさは、言葉では形容しきれない、まさしく神の領域のそれだった。
 年は二十代半ばほど――おそらく、ラルトと年はそう変わらない。凛とした澄んだ空気を纏いながら、面のような無感動な表情を端整な顔に貼り付けている。緩く巻かれた長い髪は、卸したばかりの銅の鍋に夕焼けを溶かしこんだかのような赤銅色であり、それが、触れれば折れてしまいそうなほど華奢な首に絡み付いていた。肌は陶磁器のようで、頬は薔薇色に上気し、口元は紅を引いているのか薄く色づいている。
 裸衣[らい]の向こうに透けて見える身体の輪郭もまた、神の作為を感じさせた。四肢は細く、けれども胴体は肉感的で。水色の薄布に包まれた身体は、酷く淫猥だった。男としての劣情を掻き立てられる。むしろ一糸纏わぬ姿であったほうが、清純であったであろう。
 女のその淫猥さとは裏腹に、女の眼差しは、驚くほどに曇りがなかった。透徹しているといってよいほどに澄み渡ったその眼差しは、山奥から湧き出た水の清冽さを思わせる。
 惹きつけられずにはいられない。
 その瞳は、七色に移ろっていた。
(魔の色)
 ラルトは胸中で呻いた。自分は先天的な才能の欠如により見ることができないが、魔術を行使する才を持つものは、世界を循環する銀の粒子を見ることができるという。女の瞳はまさしく、魔力の証である銀を双眸に宿していた。一見すると磨きぬかれた銀の双眸は、入り込む光の加減で色を変える。ある時は青に、ある時は碧に、ある時は紫に。その様子は、何時だったか読んだ文献に記されていた、魔女のかけらの特徴と合致していた。魔力を秘めた、色移ろう七色水晶。女の眼球は、まさしくそれそのものだった。
「この目をご覧ください陛下。七色に移ろう銀の瞳。これこそまさしく魔女のかけらにございます」
 セトがどこか誇らしげに、そして藁をも掴む必死さの滲む声を張り上げる。
 ラルトは、椅子に腰を落とした。
 羽毛の詰まった敷物が、なよやかに体重を受け止めた。ラルトはじっとりと汗ばんだ手で顔を覆い、忍び笑いを漏らした。
 その、歯と歯の間をすり抜けて零れた笑いは、やがて声量を上げ、がらんどうの謁見の間に響き渡る。高い天井に反響した哄笑は、その場にいた全てのものの表情を凍てつかせていた。
 顔色を変えなかったのは、ただ一人。傾国姫と呼ばれた、魔女のかけらと同じ色合いの瞳をもつ女のみだった。
「陛下?」
 デュバートが当惑の声を漏らす。ラルトは軽く彼に手を振って、身を起こした。
引き寄せられる。美しい七色の瞳。その清んだ眼差し。
「お前は」
 見つめ返してくる女は、氷の彫像のようであった。普通の女ならば、そのような姿でこの場に立つことも恥じるであろう。だが女の顔に羞恥の色はうかがえず、呼吸によって上下する肩と、時折思い出したように瞬く瞼を除けば、指一本動く気配はない。
 ラルトはよく目を凝らして、女の手足を拘束する鎖を注視した。その強固な鎖は、こちらの軍のものではなかった。晒された素足の指先は赤黒く、けれどもそれは客引きの為に色を塗っているというわけでもないようだ。鎖が触れている周囲の肌は薄紫に変色し、その色は白い肌に浮き上がって見える。そうとうな、痛みを伴うだろう、数々の痣。
 女は、泣き言一つ漏らさず、ただ、ラルトを見つめ返してくる。
「お前は、本当に魔女のかけらか?」
 馬鹿げた質問だとは思う。けれども、尋ねずにはいられなかった。
「無論でございます。瞳が人の内在魔力を象徴することはご承知のことと思います。その中でも銀の色は精霊と神しか持てぬ最高級の色で。この眼球の水晶体こそ、お父上が長年捜し求めていた本当の……」
「黙らせろ」
 一言、ラルトはデュバートに命令を下した。彼は軍人らしい素早い動きでセトを床に押さえつけ、猿轡をかませる。ふぐ、という間のぬけた声が小さく響いた。
「貴様には質問はしていない」
 ラルトは席を離れ、階段を下りながら吐き捨てた。かつん、という靴音。それに反応して、わずかばかり動く女の虹彩。視線が、ラルトの動きを追っている。
 女の目の前に、立つ。
 女は小柄でもなく長身でもなく。ラルトよりも丁度頭ひとつ分、低い。血独特の鉄臭い臭いに混じり、香だろうか、どことなく甘い匂いがした。
「お前に質問している」
 女は、ぱちぱちと瞼を瞬かせると、ゆっくりと唇を動かした。
「わたく、し」
 ラルトは、にこりと微笑んだ。女は、耳に心地よい声をしている。歌か何かを嗜んでいるのかもしれない。娼婦によくあることだった。
「いい声だ。名前は?」
 女は小さく逡巡を見せた後、一言、源氏名を答えた。傾国姫、と。
「そうじゃない。それは通り名だろう?」
「……ほろびの、まじょ」
 抑揚のない単調な声音。ラルトは首を横に振った。
「そうじゃない。本当の名前だ。それとも、名がないのか」
 女は、躊躇した。それは、本当の名前を聞かれるというなれぬことに対しての狼狽であるとすぐに理解できた。
 娼婦<傾国姫>、またの名を、<滅びの魔女>。
 国から国を漂泊する有名な娼婦だ。世界に一つしかない美しい愛玩人形。けれども、主となったものには滅びがもたらされるという。退屈に飽いた王たちが、興味本位で手に入れて、命を落としていった例は数知れない。
 世界で一番有名で、世界で一番呪われた、娼婦。
 噂を耳に入れたとき、会いたいと思ったことがある。それほど、切迫したものではなかったにしても、願ったことは確かだ。が、このような形で叶うとは思ってもいなかった。
 女は、再びラルトを見据えた。真っ直ぐに。
「ティアレ……ティアレ・フォシアナと、申します」
 その、静かであるが媚びの響を含まない口調。怯むことなく、ラルトを射抜く、叡智を湛えた瞳。
「もう一度問うぞティアレ・フォシアナ」
 知れず笑みを零しながら、ラルトは女に問うた。
「お前は、魔女のかけらなのか。かの有名な、魔道具であるのか?」
 女は、瞼を伏せた。沈黙する。広間に、口を塞がれた男の呻きだけが響いている。わずらわしいな、とラルトがデュバートの腕から必死に抜け出そうとしているハルマ・トルマの元領主を一瞥したところで、ティアレが再び目を見開いた。形よい唇から、抑揚を抑えた声が滑り出る。
「私は、魔女のかけらではございません」
女はしっかと断言する。
「私は、かけらではございません」
「デュバート」
「はっ」
「衛兵を連れてその男を最下牢へ。この期に及んで罪なき女を献上して許しを請うなど、愚弄も甚だしい」
 視界の端でシンバ・セトが目を見開き、抗議とも取れる呻きをあげる。デュバートは逡巡していたが、ラルトの一瞥を受けると深く頭を垂れた。控えている衛兵たちを呼び寄せ、セトを引きずりながら彼らと共に謁見の間を退室していく。
「女官長を呼べ。続きの間に控えさせろ。今宵のことは口外するな。後のものは皆下がれ」
 数少ない衛兵たちは、命令に従ってデュバートの後に続く。事の秘匿は、言明するまでもないだろう。この場に居合わせたのは信用の置けるものばかりだった。
 広い謁見の間に、自分と女だけが残されたことを確認すると、ラルトは肩の力を抜いた。屈みこんで女の足元の外套を拾い上げる。それを女の肩に掛けて、踵を返した。階段に向き直ったラルトは、後ろを顧みながら女に声をかける。
「こっちだ」
 だが、女は微動だにしない。
 首を傾げかけて、はっとなった。女の足首には、いまだ痛々しい鎖が重苦しく絡みついていた。
「悪い。怪我をしているんだったな」
 歩み寄り背中と膝に触れる。その瞬間女の身体がそうと判らぬほど小さく震えたが、逃げる気配はみられなかった。
 ラルトは肩をすくめ、背中と膝裏を支えて女を抱き上げた。女は驚きにか瞠目し、それだけだった。酷く、軽い身体だ。鎖の重さを、付与したとしても。
 白い肌にはうっすらと傷の痕。浮いた鎖骨。鎖に繋がれた手足は鬱血している。一体、どんな扱いを受けてきたのか、想像するだけでも痛々しい。
「……ほろびを」
 女の唇が割れた。のぞきみえたのは、血のように赤い舌だった。
「滅びを、もたらしますが、それでも、よろしいのですか?」
「あん?」
「私は貴方に、滅びをもたらしますが、それでもよろしいのですか?」
傾国姫と謳われる娼婦は、ラルトの腕の中で面を上げ、ラルトを見据えてそういった。警告だった。
 血塗られた娼婦。傾国姫。滅びの魔女。それら二つ名の由来を思い返す。
 所有者に破滅をもたらす、魔女。壊滅、崩壊、陥落の文字が彼女の経歴にはいくつも躍る。その名を初めて耳にしたのは、父皇がまだ存命の頃であるから、十年は前だった。
「私は呪われた女でございます。それでもよろしいと仰るのであるならば、どうぞご自由に。ただ、私は貴方に忠告いたしました」
 人形のような面差しで淡々とそう紡ぐ女に、ラルトは苦笑を浮かべざるを得なかった。
「変な女だな、あんた」
 階段を上りきり、玉座の背後に回る。幾重にも重ねおろされた帳を手で押し上げながら、その向こうへと潜り抜けるため身を傾けた。
「だが忠告には及ばないさ」
 女が怪訝そうに首をかしげる。ラルトは嗤った。
「俺も呪われているのさティアレ・フォシアナ。血塗られた、永劫なる、孤独と繁栄を約束した呪いに縛られるこの国の、ちっぽけな駒がこの俺だから」
 帳をくぐりながら、呟く。
「俺の名はラルト。ラルト・スヴェイン・リクルイト。ようこそ我らが、水の帝国へ。<裏切りの帝国>と、呼び習わされる国へ」


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