第八章 雨の檻 4
「どうしてここにいらっしゃるのですか?」
「気がついたのか」
雨音に混じって頭上でティアレの声が響く。思ったよりも、彼女が気絶から回復するのは早かった。彼女の意識が戻った分、いくらか負担が軽くなる。肩と腕だけで気絶した彼女の体重を支えるのは、いくら彼女が軽いとはいえど、かなりの苦行だったのだ。
「お前を探しにきたに決まっているだろう」
「私を、探しに……どうして……?」
「さぁ、俺にもさっぱりだ」
この衝動の理由を、誰かに説明してほしいぐらいだった。
「真面目に私、訊いているのです――!」
「俺だって真面目に答えているんだが」
ばしゃん、と水が足元ではねる。水溜りに足を踏み入れてしまったらしい。文字通り頭からつま先までずぶ濡れになった身としては、もはや不快感も何も覚えないが。まったく、彼女といるとどうしてこれほどに水に濡れる機会が多いのだろう。氷雨に濡れた街を歩きながら、ラルトは思った。
宿を取らなければ、と思った。あの娼館の大姐は幸いなのかどうかはわからないが、ラルトの身分を知っていたらしい。彼女は馬車で近場の宿まで送ることを提案してきたが、ラルトはやんわりとそれを辞退した。身分が知れているのなら、大騒ぎになっても困る。大姐は宿の場所だけを教えて、部下を引き連れ、あのままラルト達のもとを去った。
「お仕事は、どうなされたのですか?」
「ジンに任せてきた。何も言わずお前の国外脱出を図ったツケだ。あいつのことだから、上手くやるだろう。問題はないさ」
あぁ見えても、ジンは非常に有能だ。もし、ラルトが死んでいたのなら、血筋も相まって、彼が皇帝だっただろう。もっともそれを、ジンが望むとは到底思えないが――……。
「ラルト様――」
「いうな」
ティアレが言わんとしていることを、ラルトは重々理解していた。彼女には土地勘がないので理解していないとは思うが、宮廷からここまで、馬車で五日は掛かる場所だ。ラルトは目立つ容姿の女の話を聞き出しながら、ほぼ徹夜で馬を走らせた。一度国境近くまで行き、条件に適う女がこの街の娼婦として新しく入ったという噂を聞いて、引き返してきた。もう二度としたくはない。
その間の政務を、全てラルトは放り投げてきたのだ。
こんなこと、生まれて初めてだぞ、と胸中で嘆息した。
ラルトの外套を頭から被ったティアレは、ラルトの頭に腕を回し、縋りつくようにしている。柔らかな頬を伝うものは、雨だろうかそれとも。
ティアレが、ささやくような音量で尋ねてくる。
「怒っていらっしゃいますか? ……黙って、出てしまったことに対して」
「俺? ……そうだな、怒っているのかもしれない」
ティアレが固唾を呑む。ラルトはそれを気配で感じながら、言葉を続けた。
「ティアレに対してだけじゃない。全部だ。俺を含めた、全部だ。予感はあったのに、結局知らないところでお前に選択を迫った。きちんとした話も、向き合ってしていなかった。まったく、俺は馬鹿だったよ。無論、お前にも怒っている。ジンが何を言ったかはしらないが、全て真に受けたことも、俺に何の相談もせず出て行ったこともだ!」
ぎり、と歯を噛み締めながら、自分の顔がティアレに見られる角度にないことに、ラルトは安堵していた。確認することはできないが、今自分は心底苛立たしい表情を浮かべていることだろう。
たとえ表情は確認できずとも、ラルトの怒声はティアレを
肌を刺すような冷たい雨が、自分と彼女を叩いて滑り落ちていく。
吐く息が白い。雪の日よりも厳寒な空気。日が落ちていることにより、その寒さは一層増す。街灯に明りがともっているが、田舎の町のためかそれほどの光量も数もなかった。水溜りの上に落ちた明りが橙色に揺らめいている。頬を紅潮させて、女を腕に腰掛けるようにさせて歩いている自分たちの影が、黒光りする石畳の上を移動していた。
震える女の身体を抱きしめなおす。宿はもうすぐだった。沈黙した彼女に、囁くようにラルトは言った。
「……シノが、寂しがっていた」
「シノが?」
「ここ数日、機嫌悪くて大変だったよ。戻ればきっと喜ぶ」
ティアレが息を呑む。しばしの沈黙の後、彼女は言った。
「愚かだと、思うのです」
「愚か?」
「一度は、この国を去ろうと思ったのです。この国の人々に――貴方に、滅びを招く。とても恐ろしかった。貴方は優しかったから。ジン様は、私が貴方にとって意味を持ったと仰りました。貴方に、この国を裏切らせる。そんな存在になることが、恐ろしかった。傷つくのは他でもない、ラルト様、貴方です」
たとえどうにもならぬことでも、ラルトはティアレを責めず、己を責めるだろう。ティアレは思った。孤独な皇。呪われた
「それでも、私は思ってしまったのです……たとえこの世界を滅ぼしても、貴方を呪いの渦中に置き去りにするなどと、私にはできないと」
この国の誰もが呪いに囚われている。シノもジンも、過去を引きずって生きている。それでも、彼らはいざとなればこの国から逃げ出すことができる。
ラルトにはそれが許されない。
玉座に腰を下ろしてしまったが為に。
逃げられない呪いに苛まれている、世界で、たった二人の。
「傲慢と、お嗤いになられますか?」
いや、とラルトは首を横に振った。呪われた皇帝に呪われた后。この古き国にはおあつらえ向きではないか。
「幽閉していただいてもかまいません」
ティアレは言った。
「するかそんなこと」
溜息混じりにラルトは言った。ティアレは小さく身体を震わせ、二の腕をラルトの額に押し付けるようにして身体を寄せた。
「……申し訳ございません」
「謝るな」
「……それでも、私は貴方に滅びをもたらすかもしれない」
「それを承知で、俺はお前を傍に置くんだ」
水の帝国は呪われている。そこに呪われた女ひとり転がり込んできたところで、それが何だというのだ。ジンは酷く心配していたが、そんなことでは裏切りの皇帝の下で働くことなどできないと言ってやりたい。
自分が、全力で守る。それで、いいだろう。それで、終わりだ。
「……もし貴方に滅びが訪れたその時には、私を憎んでくださって、かまいません」
「ティアレ」
いい加減悲観的な彼女の言葉を聴くのにも飽きて、ラルトは彼女の言葉に被さるように名前を呼んだ。
「……もういい。もういいんだ。俺の心配はするな。どうせ玉座に登るために、そして国を再興するために、お前が想像も付かないほどの人間を
ティアレは静かに首を横に振り、嗚咽を漏らした。
「申し訳ございません」
「ティアレ」
「申し訳ございません。申し訳ございません」
よく謝る女だ。まるで己の言っていることが最上の罪であるかのように、ティアレは謝罪を繰り返していた。雨はとても冷たいのに、抱きしめる女はとても熱くて、そして寒さをラルトは感じなかった。あの、誰もいない奥の離宮で主人を失った部屋を眺めているときのほうがよほど寒かった。ティアレからの書置きをシノから受け取ったときも、指先が凍りのように感じた。喪失感に、凍えそうだった。
しゃくりあげながら、彼女は言った。
「たとえ貴方を滅ぼそうとも、お傍に、いたかったのです……」
たとえわが身を滅ぼそうとも。
この女を、傍に。
ラルトは笑った。
「知ってる」
「ラルト様」
抱える女の背を撫でてやりながら、ラルトは彼女の呼びかけに首を傾げた。
「ん?」
「……名前、呼んでください」
「……お前の?」
「はい」
名前を呼ぶことに、何の意味があるのかはしらないが、ティアレはしがみ付いてくるばかりでそれ以上は何も言わない。求めに応じて、ラルトは呼んだ。
「ティアレ」
「……もう一度」
「ティアレ」
「もう、一度」
「ティアレ」
呼ぶ名前が甘さを帯びる。離れていれば、もう呼ぶこともなかっただろう名前だ。名前は、と問うた自分に、彼女は源氏名で答えた。そうではない、と追求して、彼女が答えた名前がこの名前だった。透き通った鈴のような声で紡がれた名を、素直に綺麗だと思ったことを、覚えている。
「ラルト様」
「……何だ?」
「…………会いたかった……」
ラルトは頬を寄せてくる女の痩身を抱きしめた。
万感の思いを込めて、頷く。
「あぁ……」
瞬きのために閉じた瞼から、雫に混じって熱さが零れた。
(俺もだ)
「何故ですか!?」
見知らぬ男に気絶させられた男達は、大姐の決定に不満らしい。食って掛かる彼らを護衛たちに任せ、大姐は湯上りの身を長椅子に横たえた。香油を携えた半玉たちが、そそと周囲を取り巻く。
「……私も、誠に遺憾ながら、大姐の心中察しかねます」
煙管盆を携えてきた男は、護衛の一人だ。大姐と共に馬車におり、あの一部始終をみていた男である。
見知らぬ男に、反論することもなく、ただ腰を折って礼をとってみせた、大姐を見た男である。
「お前は知らんでよいことよ」
盆から煙管を取り、口にくわえ、半玉の一人が差し出した火を入れながら大姐は言った。
「大姐」
「見ておれ」
吐き出した紫煙は視界を歪ませる。止むことを知らぬように降り続ける雨のように。
「いずれ判る」
煙の向こうに、不服げに表情を歪ませる男がいる。大姐は笑った。脳裏に蘇るのは、遠い昔、まだ自分が
古い宮城の中で、一度だけ、見たことがある。
その頃はまだ少年だった。珍しい色合いの子供だと思った。黒曜石の髪に炎の色の瞳。呪われている末の皇子だといったのは、誰だったか。
やがて、彼は熾烈な王位争いの中で生き残り、大姐が生きる国を、今、皇帝として治めていると聞いた。
見えたのだ。
あの娘が。
まるで女帝のように、大姐に対峙してみせた毅然さでもって。
やがて国の母として並び立つその様を。
もう一度煙を吐き出しながら、大姐は繰り返した。
「いずれ、判る」
裏切りの帝国。
この国は、いつからその名を冠するようになったのか。
自分は知らなかったし。
その始まりが本当はいつなのか。
なぜこの世界に、この血塗られた国が形作られたのか。
その呪いの支柱は深い世界への憎悪であり。
その呪いの代価は、その憎悪に取り付かれた人々の人生と流された血であり。
己がこの氷雨の中に閉じ込められているその間さえ。
国の呪いは今日も血を吸っていることに
気が付くべきだった。
雨は世界を閉じ込めはしても、こびりついた想いと血を洗い流したりはしない。