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第八章 雨の檻 3


「まだ治らんのかね?」
 大臣の一人が苛立ちあらわに問うて来る。ジンはぽりぽりと頭を掻きながら、曖昧に微笑んだ。
「いっやぁごめんねぇ。許してやってよ。働き尽くめでさぁ。人間誰しも疲れはでるんだよね」
「こちらも働いているのだがね」
「忙しいのは皆同じだろうに」
「若人が情けない。体調管理がなってないからこのようなことに……」
 嫌味は、わざとジンに聞かせるために囁かれたものだ。声を潜めようという遠慮の欠片もない。ジンはこめかみを引き攣らせながら、席に着いた大臣たちを見渡した。
 二日目にして嫌味を一身に引き受ける心労は、頂点に達しようとしている。まったくもって何故に自分がこのような目に、とは、思ってはならないのだろう。
 それだけのことを、“約束”を貫き通すためとはいえど、自分はしたのだ。きっと彼はこのことを、自分への懲罰とでも思っているに違いない。
 その上、今、国を傾かせるわけにもいかないのだ。自分が“病欠”になっている彼の分を引き受けなかった場合、確実に春待ち祭りの開催が不可能になる。それは国民への深い失望を呼ぶし、招待している来賓たちにも申し訳がたたない。
「さぁさっさと始めんかね? 一体何をぼっとして、私たちを眺めているのだね?」
 この、無能な業突張りめが――。
 喉元まででかかった言葉をぐっと堪え、机の上の書類をばん、と叩いて、ジンは微笑んだ。
「では、順次進行状況の報告を」


 目覚めるとそこは娼館で、女主人が行き倒れていたティアレを拾ったとのことだった。ティアレが金になると踏んだのだろう。ティアレが目を覚ましたとき、既に身は洗い清められ、美しい衣を着せ掛けられたあとだった。半玉[はんぎょく]と呼ばれる童女たちが、ティアレの身の回りの世話を担っていた。高級な娼館だった。
「あんたが一体どんな人間だったのかはしらないが」
 目覚めた後、引き合わされた主人は、煙管[きせる]で煙草をふかしながら言った。年齢をそれなりに刻んではいるが、美しい女だった。おそらく若いころは、引く手数多、稼ぎ頭の芸妓だったのだろう。艶やかな黒髪を豪奢に結い上げ、まるで王者のように君臨している。
「あたしに拾われた女は皆同じだ。きちんと働いてもらう」
 慣れぬ衣装を捌き、ティアレは決然とそこに立ちはしたが、これからどうすべきかで、内心はすっかり消沈していた。娼館の警備は高級であればあるほど厳しい。それは娼婦に勝手を働く輩を追い返すためでもあるし、娼婦たちの足抜けを防止するためでもあった。
 一体何日気を失っていたのだろう。半玉の娘たちは皆、口が堅く、ティアレが何時運び込まれたかを口にすることはなかった。彼女らは黙って、ティアレのような年嵩の娼婦達の世話をする。彼女らに髪を梳かれながら、ティアレは唇を噛み締めた。
 あの後、雨が視界を阻んでティアレを上手く男から逃がした。走って走って、やがて気を失った。
 ティアレを逃がした、村の女はどうなったのだろう。暗い予想がティアレの胸中を占めた。十中八九、彼女は――。
(私は一体、何をしているのだろう)
 もしかしたら、あの村の住人全員が腹いせに殺されていることもありうる。もしそうだとしたら、結局逃げおおせていない自分は彼女らを見殺しにしたことになる。
 一体何を捨て置いて、一体何を選び取るのか。一体何から逃げ出し、何に立ち向かうのか。
 人は常にその選択を突きつけられている。ティアレがとった選択は、果たして正しかったのだろうか。
「お口が傷つきまする」
 半玉の娘が、ティアレを窘めた。知らぬうちに、唇を噛みすぎていたらしい。舌先に、鉄の味が広がった。
『お逃げ』
 命を懸けてティアレを逃がした女の姿が瞼の裏にある。緊張からだろう。まだざわざわと肌の下でうごめく魔力を押さえつけつつ、ティアレは嘆息した。
(今更、何を)
 今まで、数え切れぬ人を殺してきた。それはティアレの意志に反してはいたが、確かにティアレは人を殺してきたのだ。数々の所有者がティアレに着せ掛ける美しい着物の裾が作る道は、人の命と呪詛の声で作られていた。
 意志を持たず、ただ売られ買われるだけの身として生きることを、ティアレは選択してきたのだ。滅びの魔女としての運命に立ち向かわず、ただそれを許容してきたものの報いとして、星の数ほどの人の命を奪ってきた。
 だから、別の選択をすることで、身近な誰かが死んだとしても、それを嘆き、そして立ち止まることはティアレに許されていないのだ。
 ティアレは選択してしまったのだから。
 たとえ滅びの魔女としてであっても、呪われた裏切りの皇帝の傍に侍ることを。
 その選択の末に、自分がかの皇帝に、殺されることがあろうとも。
 ティアレは着物の[つま]を取り、立ち上がった。怪訝そうに見上げてくる半玉を、ティアレは哀れみの目で見下ろした。稚い童女を、このような形で利用することは、とても忍びなかった。
「申し訳ありません」
 ティアレは童女に向かって頭を垂れた。突然のことに狼狽する童女は、一体何が起きたのか判らなかっただろう。
 童女を長く抱えあげていることは、細腕で力のないティアレには難しい。
 しかしそれを、他の誰にも悟られてはならなかった。
 ティアレは抱えた童女の首元に、簪の切っ先を突きつけながら、部屋を出た。


「何事だいこれは!?」
 私の娼館が、騒々しい。
 世話役の男を引き連れて廊下に出ると、娼婦達の世話を手配している宦夫[かんふ]の男が歩み寄ってきた。
「これは大姐[ターチェ]。申し訳ございません。すぐに落ち着かせますので……」
「何事だい、と訊いているのよ、私は」
「は、それが……」
 宦夫の話によれば、新入りの娘が半玉一人を人質にとり、逃げ出そうとしているところだという。人質となっている半玉と仲のよい半玉たちが、その様子をみて半狂乱になっているとのことだった。
「あの娘か」
 大姐は先日拾った娘を思い返した。赤銅色の髪に不思議な色の双眸を持つ、総毛立つほどの美貌を兼ね備えた女である。一体どんな事情があるのかは知らないが、雨の中行き倒れていた。娼館につれてこられたと知ってもさほど騒ぎ立てすることもなかったので、元々は足抜けをした娼婦なのかもしれない。
 毅然として大姐と対峙する娘に、周囲が感嘆の吐息を漏らしたことを、大姐は知っている。落ち着きを払ったかの娘と対峙した大姐自身――認めたくはないことだが――どちらが主人であったのか、一瞬忘れてしまうほどの気高さと神々しさだった。
「一体何をしていたの? あなた達は。娘と半玉は今どうなっている?」
「出口に向かっているところでして……」
「愚か者!」
 大姐は手にしていた扇で宦夫を殴りつけた。その衝撃で、身体の均衡を崩した宦夫が壁に身体を打ちつける。へたり込む彼に、大姐は轟然と言い放った。
「細腕の女に、簪一本でしてやられおって! お前達は一体何をしているのか!? 半玉一人殺せばよいわ! 娘を取り押さえよ!」


 廊下に飛び込んできた細身の男が一人、慌てて警護の男に耳打ちをした。男の表情が笑みに縁取られたところをみると、半玉を見殺しにするか、自分を殺すか、あるいはその両方かの許可を得たのだろう。
 ティアレは男が襲いかかってくる前に、半玉に囁いた。
「お逃げなさい」
 驚きの表情で半玉がティアレを顧みる。ティアレは半ば落とすように半玉を解放した。彼女をそっと地に置く余力が、ティアレの腕にはもう残されていなかった。
 解放された半玉に皆が気を取られている隙に、ティアレは一か八かで扉を防ぐ男に体当たりをかけた。はたして、ティアレは賭けに勝った。男はよろけてティアレに道を開け、その隙間を掻い潜りながら、ティアレはただ、走った。
 運動神経がお世辞にもよろしいといえないティアレに出来ることは、ただ走ることだ。走り、逃げて逃げて逃げて。
 外の扉の前には幾人もの兵士達が待ち構えていたが、彼らは皆飛び出してきたティアレに呆気にとられているようだった。まさか本当に扉を守る屈強な兵の手をすり抜けて、娼婦が転がり出てくるとは思っていなかったのだろう。
 ティアレは美しい衣を兵士の顔に投げつけた。ふわりと広がった衣は男の構える剣に絡まり、そして彼の視界を奪う。その隙をついて、ティアレは逃げた。
「足抜けだ――!!!!!」
 ぴぃ――と、娼館の警笛が鳴る。ティアレは見知らぬ街をただ駆け抜けた。
 ここは水の帝国の、どの辺りに位置するのだろう。それとも、水の帝国ではないのだろうか。
 雨はティアレが農村から逃げ出した時と変わらず降り続いている。むしろ、勢いを増しているかのように思えた。白い雨が視界とティアレの体温を奪う。
 ここはどこだろう。いつまで走らなければならないのだろう。裸足でないことと、着せられている衣が、北の大陸の娼館のような薄物でないことは幸いだった。重い衣服はティアレから体力を奪ってはいたが、それでもいくらか暖を保つ。
 衣服の裾が石畳の狭間に取られ、水しぶきを上げながら路上に倒れこんだティアレの背後で、金属の触れる音がした。
「見つけたぞ――!!!!」
 娼館の兵だ。あぁ、捕まる。走らなければ。しかし力を込めた足には激痛が走った。[つまづ]いた際に、痛めたのだろう。
 ここまで来て。
 ぱしゃっ……
 悔しさに臍をかむティアレの前でも、飛沫が跳ねた。目の前に、靴が見える。
 それが兵士のものではないということを確認し、ティアレは縋る思いで、その靴の主を見上げた。
 そして、驚愕する。
 あぁ。
 かのまぼろばの土地で、眠らるる主神よ。
 貴方に私は初めて感謝する。
 靴はティアレの脇をすり抜けて、兵士のほうへと駆け抜けていった。
 程なくして、兵士達の悲鳴が聞こえる。雨の冷たさを感じながら、ティアレは意識を手放した。


「待て!!」
 剣を構えながら声をかけてくる男達は、見て笑えるほどに腰が引けていた。殺すつもりは毛頭なかったし、路肩で崩れているものたちも皆単に気絶しているだけだった。
 ラルトは彼らの静止を聞かず、石畳の上で気を失っている女を抱えあげた。
「大姐!」
 馬の[いなな]きと車の音が響いた。女を抱えたまま振り返ると、馬車から婦人が一人、兵の手を借りて降りてくるところだった。
「その娘は私が拾った」
「娼館の大姐か」
「返していただこうか」
 ラルトは眉をひそめた。ジンのことだから国外に出奔するまでの手はずを整えていたのだろうとは思うが、何故かこの女がティアレを引き受けていたらしい。この街にある高級娼館の大姐だということは察しがついた。婦人は威厳に溢れ、着物の褄を取って対峙したまま、ラルトを観察していた。
「必要ならそれ相応の金は払おう。けれどこの女は俺がもらっていく」
 手持ちの金などたかがしれてはいるが――そう胸中で、ラルトはこっそりと付け加える。
 だが婦人は、それ以上ラルトに対して何かを要求することはなかった。何か、驚愕しているような節すらあった。固唾を呑んだまま目を見開いた婦人は、顔色を変え、やがて紅で染められた傘の下、静かに腰を折った。
 婦人は厳粛な声音で言った。
「御心のままに」


 いつもなら皇帝が腰を下ろしている執政の席に、宰相が腰を下ろしている。
 彼は足を机の上に投げ出して、巻き煙草に火を入れていた。彼がこの部屋で、いやそもそも他人の前で喫煙することは滅多にない。シノは小さく嘆息すると、注意深く足元を見ながらその席に歩み寄った。
「灰が落ちると怒られませんか?」
「あぁ……うん平気。ちゃんと掃除するし。……シノちゃん何か用?」
「お疲れのご様子なので、お茶をお持ちいたしました」
「女官長がわざわざご苦労様。あーりーがーとー。そこ置いておいて」
 ジンの指示通り、シノは湯のみの乗った黒漆の盆を、宰相が本来使うべき机の上に置いた。平積みにされた書籍類を端に寄せて、空間を作る。ちなみに今ジンが席についている皇帝の執政席は、整頓されてはいるものの物が積み上げられすぎていて、盆を置く空間を作り出すことすら至難の業のようにみられた。
「……陛下がお休みなされていることを、大臣の方々に、どのように報告なさっているのですか?」
 気だるげに紫煙を吐き出す男に、シノは問うた。ある程度仕事を纏めて出て行ったところがラルトらしくもあるが、それでも唐突なことは確かだった。大臣たちの顰蹙[ひんしゅく]を買っていることは訊かずともわかる。
「んー? 病欠だっていってるよ。病気で仕事に出られませんって俺説明してる」
「……それだけですか?」
「他になんかあんの? それだけだよ」
「よくそんな嘘まかり通りましたね」
「ラルト、仕事すっぽかすの今まで皆無だったじゃん。病気ですっていったらぶちぶち言いながらも信じてくれたよ。まぁ強ち間違いでもないっしょ。病欠」
「……どういう意味ですか?」
「恋の病」
「……ぷっ」
 不在の主人には悪いと思うが、シノは思わず噴出してしまっていた。事実、ジンの言う通りだったのだ。今までなら考えられないようなラルトの行動の理由を説明付けするならばそれは病というより他なかった。
 そのまま笑いを堪えきれず、シノは口元に手を当てて引きつる腹部と格闘しなければならなかった。ジンはくすくす笑っている。だが次に紫煙を吐き出した彼は、まるで老衰した先代の皇帝のように、疲労を色濃く顔に浮かべた。
「……閣下?」
「……まぁ野暮なことをしちゃったといえばそれまでだよ。どうあっても、あの二人は惹かれあうように出来ているんだから。ティアレちゃんが離れればラルトは追っかけていくし、ラルトが離れればティアレちゃんが追っかけていくんだ。そうだよ。判ってるんだけど。判っているんだけどなぁ……」
「……お二人が惹かれあっているという点は私否定いたしませんが。……その、そのようになっているというのはどういう意味でしょうか?」
「運命の恋ってことでしょ。要するに」
 ジンの口からそのような乙女じみた言葉が出るとは思っていなかったシノは、危うく手に持っていた茶菓子の籠を取り落としそうになった。空中で受け止めそっと盆の上に置きなおす。神妙な顔を作りつつ、シノはジンに向き直った。彼は煙草をふかしながら、膝の上に乗せた本の項をゆっくりとめくっていた。
 題名を、ちらりと見遣る。
 それは、確かラルトが探していた文献ではなかっただろうか。
 薄く笑みを浮かべて、独白のように、ジンは言葉を紡ぎだした。
「ラルトとティーちゃんはねぇ。本人たちは全く気付いていないけど、出逢うべくして出逢ったんだよ。俺たちの帝国は、ただそのために準備された舞台装置に過ぎない。……そういうのってさ、なんだか、ちょっと哀しくない? 哀しくて、ムカつかない? 運命とかってね。ありえないと思っていたのに」
「運命とは、ただ逃げるための口実にすぎないと、私思っておりますが」
「うん。俺もそう思ってぇたんだぁよねぇ。二人を見るまではねー」
「……閣下?」
 がたん、と椅子が揺れる。その反動で、ジンが立ち上がる。
 彼は窓際に煙草を加えたまま歩いていった。外は雨。煙るような霧雨が、絶えず天地を濡らしている。
 ラルトは無事、この雨の中、ティアレを取り戻せただろうか。
「二人が出逢い惹かれあったのが運命なら」
 ジンは哀しそうに、ぽつりと雫のような呟きを落とした。
「彼らが出逢うそのために、レイヤーナは死んだのかな?」


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