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第八章 雨の檻 2


 宮城を出て七日が過ぎた。
 冷たい雨は降ったり止んだりを繰り返している。今日も朝から雨が止まず、急遽とった宿に閉じ込められた。宿、といっても国境近くの農村の民家を間借りしただけだ。高床式の、木造の家。古く、ところどころ朽ちて、雨の染みがついているが、奥の離宮に少し似ていた。途中通り過ぎた農家全てが似たような形をとっていたから、おそらくこの建築様式が水の帝国にとって伝統的なものなのだろう。
「ねぇあんた」
 縁側でぼんやりと窓の外を眺めていると、背後から声が掛かった。ゆるく巻いた黒髪を頭で結った女は、この民家を貸した女だった。麻の上下を身につけて、黒い[たすき]をかけている。両手に少しばかり縁のかけた陶器の湯のみを持っていて、彼女は胡坐[あぐら]をかきながらそのうち一方をティアレのほうに突き出してくる。一体何がしたいのかと、女と湯のみを交互に見つめていると、怒声が叩きつけられた。
「さっさと受けとりな。あたしの腕が痺れるでしょうが」
「す、すみません」
 慌てて湯飲みを受け取り、胸に抱くと、控えめな甘さが香った。雨の匂いを押し分けて香ってくるそれは、懐かしい思い出を胸のうちに到来させる。自分でも驚くほどに狼狽して、ティアレは女を見つめた。
「これ」
「花梨湯。顔色悪いし。飲めば少しは温まるよ」
「かりんゆ」
 飲み物の名前を反芻して、ティアレはほこほこと湯気を立てるそれを見つめた。透明な湯の中に、金色の皮が一枚落ちている。
「なぁに飲まないの?」
「え? いえ……頂きます。ありがとうございます……」
 湯のみの縁に唇を当てて、ティアレは少し冷めるのを待った。ラルトには熱いものは苦手ではないとは言ったが、やはり熱過ぎるものは飲めない。
「被り物取れば?」
 じっとしていると、傍らに胡坐をかいたままの女が、嘆息交じりに言ってきた。
「え?」
「家ん中まで外套を頭からすっぽり被ってんのは失礼だよ。家の中ぐらいぬげば?」
「……はい、すみません」
 謝罪しながら、ティアレは外套を脱ぐことを躊躇った。国境近いこの村では、かつてハルマ・トルマに囚われていた娼婦の話を聞き及んでいるかもしれないとの危惧だった。外套の裾を握り締めながら躊躇っていると、すっくと立ち上がった女が、鬼のような形相でティアレの外套を剥ぎ取りに掛かってきた。
「脱げっていってるでしょうがぁあぁ!!!!」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
 落としそうになった湯のみを慌てて支えながら、ティアレは悲鳴を上げた。がたん、という音がして、奥の部屋から案内人の男が剣を持って顔を覗かせる。その男をぎろりと睨みつけた女は、しっしと犬を追い払うかのように手を振ってみせた。ティアレに別段変わった様子がないとわかると、男は舌打ちをして奥へと引っ込んでいく。
 冷や汗をかきながら、男の様子を見守っていたティアレの顔に、ばふっと何かがかけられた。
「その髪だろう気になってるの。それでまとめておきな」
 手の中にあったのは紫に染められた布だった。女が食事の支度をしているとき、髪をまとめていた三角巾。
「ありがとうございます」
 傍に花梨湯が入ったままの湯飲みをそっと置いて、ティアレは髪を纏めに掛かった。隣では再び胡坐をかいた女が、ティアレから剥ぎ取った外套を丸めている。
「堂々としてるほうが逆に人目を引かないよ。ここは国境が近い。異人はそれなりにいるからね」
 花梨湯を口に運びながら、女が背後にちらりと視線を投げる。
「あんな物騒な人間引き連れてこそこそしてりゃ、余計に悪目立ちするよ。どうせここは貧しくひなびた村だ。誰も留まらない。こんな雨がなけりゃね」
「……はぁ」
 生返事をしながら、ティアレは手元に戻した湯飲みに視線を落とした。やりとりの間に、大分冷めたのか、揺らめく湯気の量は少なくなっていた。
「何かから逃げ出してきたんだろあんた」
 それは問いではなく確認だ。どう答えるべきか、ティアレは逡巡した。逃げてきた。確かに、その通りなのかもしれない。
 自分は、逃げてきたのだ。
 運命から。
「はい」
「なのに、逃げてきたことを後悔しているような顔をしている」
 後悔。
「していません」
「でもとても大切な何かを置き去りにしたような顔をしているよ」
「そうでしょうか」
「一つお話をしてあげよう」
 女はそういって、己の花梨湯を酒をあおるように飲み干していた。ことん、と湯のみを床板に置いて、彼女は続ける。
「昔、一組の男女がいた。奴隷だった。そいつらは」
「奴隷」
「そう。ひどい皇帝が国を治めていて、明日の食い扶持の為に親に売られた奴らだった。さて、そいつら二人は、他の奴隷と違う部分があった」
「違う部分、ですか?」
「そう。何だとおもう?」
 さあ、とティアレは首を傾げた。ティアレ自身奴隷のように扱われたことなど数え切れぬほどあるが、誰かとその経験を共有することはなかった。一体何が奴隷にとって特異で、またそうではないかは判らない。
 女は笑った。
「正気を保っていたのさ。想像できないかもしれないけど、奴隷っつう身分は人様の尊厳もくそもありゃしない。大抵は犬と一緒さ。鞭で打たれるのが恐ろしくて、言葉も忘れて命令に従う。だけど、そいつらは正気を保っていた。阿呆なことに、人間の誇りとやらを持ったままだったのさ。問題はここからだ。女のほうに、逃げることのできる機会が訪れた。女はどうしたと思う?」
「逃げましたか?」
 機会があったのなら、逃げるだろう。現に、ティアレもまた逃げている[・・・・・・・・・・・・]
女は頷いた。
「女は逃げた。逃げて、逃げて、やがて農家の老夫婦に拾われた。とても貧しい生活だったけれど、それでも人としての扱いを受ける生活」
やがてティアレは、女が一体誰の話をしているのか見当がついた。だが口を挟むことはしなかった。女は、一体何を語りたいのだろう。
「切望していた生活を営みながら、女は逃げたことを後悔し続けた」
「どうしてですか?」
 奴隷として扱われることを苦痛として意識していたのなら、どうして逃げたことを後悔し続けたのか。勝手に死ぬこともできず、ただ消費されるものとして扱われることは、正気を保っていたのなら最大の屈辱だ。
 女は嗤った。
「置き去りにしてきたからさ」
「置き去りに」
「男を置き去りにしてきた。唯一あの呪われた生の中で[・・・・・・・・・・・・]理解しあえる人間だったのに[・・・・・・・・・・・・・]
 呪われた生の中で。
 理解しあえる人間だったのに。
 置き去りにしてきた。
 唯一。
 理解しあえる。
 女の声は静謐で、感情は一切篭っていなかった。淡々と、物語を語る。それだけに終始していた。
 だが最後の言葉は、なぜかティアレの胸を抉った。
 動揺を隠しながら、ティアレは女に尋ねた。
「どうしてそのお話を私に?」
「逃げてきたのに、なぁんか後ろ髪引かれるっていう、そんな顔をしているから」
 ふふ、と笑って、女は指でこつこつと床板を叩いた。
「私もよくここに座ってたね。ここからは、国境ではなく逃げだした場所が見える」
 女が指差すその向こう、雨に閉ざされたままの場所が見える。雨に白く煙る向こうは、都だ。
 ティアレは手元の花梨湯を見下ろした。すっかり冷めてしまったそれは、懐かしい思い出をティアレの元に去来させる。
「生きるといううえで逃げという単語はないのだ、と今はもう居ない老夫婦は言った。けれど私は思うよ。どんな選択肢を選んでも、選ばなかったものから逃げ出したということには変わりはないんじゃないかと。逃げ出したくないものを選んでいくしかないのに、私は逃げ出したくないものから逃げてしまったんだ」
「おかぁちゃん……」
 背後から、目を擦りながら顔を出したのは、女の息子だった。
「なんだい厠かい?」
 女の問いに、うん、と小さな子供は頷いた。しかたないね、と女は立ち上がり、子供を抱え挙げ、もう一度だけティアレのほうを振り返った。
「もう何年も経って、子供も出来て、記憶は随分と薄れたけれど、それでも時々どうしようもないぐらい苦しくなるよ。幸せであればあるほど」
 女は目を細め、哀れむようにティアレを見つめた。
「あんたは、何から逃げ出して、何を置き去りにしてきたんだい?」


 翌日、雨は上がり、再び国境に向けて出発することになった。誰もまだ起きぬ早朝に。急ぎましょうと、案内人の男は言う。早くこの役目から解放されたいのだろう。この氷雨の中、国を横断させられるのは億劫だ。
 ティアレは、馬車の幌に手をかけながら、立ち止まっていた。このままいけば、一日待たずにハルマ・トルマだ。数日以内に、国を出ることになるだろう。
 背後には、雨の檻。
 早く逃げなければ、ティアレ自身もまた檻の中に閉じ込められる。
 早く、逃げなければ。
 ――何から、逃げるというのだ?
「お嬢さん、いきますぜ。早く幌の中にお入りください」
 ティアレは男の声を聞きながら、当惑していた。足が、動かない。幌の端を握る手が震えている。あぁ、どうして動くことができないのだろう。思い通りにならない身体に、ティアレは表情を凍てつかせながら、唇を戦慄かせていた。
「……けない」
「はい?」
「私は、いけない……」
 ティアレは呟きながら、愕然としていた。何を呟いているのか、自分でも理解していた。最後、逃げる手はずを整えてくれたのはジンの好意だろう。
「私、戻らなくては」
 その好意を踏みにじり、そして自分は、滅びの呪いを携えて、あの古い都へ舞い戻る。
 ジンは怒るだろう。
 シノは呆れるだろう。
 そしてラルトは、どうするのだろう。
 呪われた国の、呪われた皇帝。古い呪いに苛まれ、それでも果敢に立ち向かわんとしていた皇帝。
 ティアレの孤独と悲哀に、いち早く気付き、手を、握ってくれた人。
 自らの立場の危うさを理解しながら、それでも同じ呪われたものに、手を伸ばさずにはいられなかった皇帝。
 あんなに温かい人を。
 あんなに優しい人を。
 あんなに、哀しそうに笑う人を。
 私は置き去りにする。
 呪いの渦中に。
 おそらく万の民がティアレの選択をよしとしないだろう。自らを滅ぼす可能性の魔女を、何ゆえ喜んで迎え入れるだろうか。滅びの魔女。この世界を漂泊し、訪れる国の歴史一つ一つに、終止符を刻んだ呪われた娼婦。
 この国全ての民に疎まれようと、それでもティアレはたった今選んでしまった。
 殺される、その一瞬まで、あの皇帝の傍にいることを。
 そしてその手を、握り続けることを。
 あの密やかに自嘲の笑みを浮かべる皇帝が、孤独に凍えてしまわぬように。
 この感情を何と呼ぶのか。
 この、どうしようもないほど、傍にいたいと願う感情を。
 手を温めたいと痛切に願う感情を。
「私、戻らなくては……!」
 そう叫んで、刹那、ティアレは男の血走った目に戦慄していた。考えるよりも先に、身体が先に動いていた。背後に飛んだティアレの眼前を、白い刃が縦に一閃していく。
後ずさり、外套の端を握り締めながら、ティアレは案内人の男を見つめた。
「戻ろうとするのなら、殺せとのご命令だ」
 男はそう言った。
 足元がぬかるみ、上手く動けないことはお互いに同じだが、分が悪いことには変わりなかった。長い年月、文字通り閉じ込められ続けてきたティアレと、その道で生きてきている男とでは、単に逃げるにしてもティアレのほうが圧倒的に不利だ。
 けれど、逃げなければ。
 生き延びるほうが先だ。
『ほろぼ』
(だめ)
 ぐ、とティアレは肌を粟立たせるものを押さえつけた。まだ、まどろみの中にある村を壊滅させるわけにはいかない。
 肌を突き破らんとする魔力を押さえつけると同時、引き換えのように吐き気が込み上げてくる。雨上がりの湿った空気が衣服を重くしていた。
 剣を構えたまま男がじり、とにじり寄ってくる。息を潜めながら、ティアレはゆっくりと後ずさった。
 か、と。
 雷が鳴った。
 せっかく止んだというのに、また降り始めるのだろうか。止んでいたはずの風がティアレの頬を撫でる。嵐の前兆だった。
 再び、まばゆい閃光が一瞬だけ周囲を照らし、それに遅れて銅鑼を鳴らしたような音が耳朶を打った。
「ご覚悟を」
 男が剣を振り上げた。一瞬できめるつもりだ。長引けば、金属を持つ男を雷は追ってくる。
 逃げ出してきた報いか、とティアレは思った。
 今ここで死ぬ。
 選択をした、その矢先に。
「お逃げ!」
 どっ、と。
 男の身体に何かがぶつかった。男は均衡を崩してぬかるみの中に倒れこむ。泥が跳ねて、視界を一瞬遮った。
「あ……」
 泥の中でもがく男を押さえつけているのは、宿の女だった。眠っていたはずなのに、何時の間に起きだしてきたのだろう。
「何やってるんだ! 逃げるんだよっ……!!!!」
 呆然と立ちつくすティアレを、女が叱咤する。逃げるべきか、逃げざるべきか、選択しかねるティアレを、女はさらに急きたてた。
「早く……!!!!」


 ざぁぁぁぁぁぁぁぁ……
 氷雨が、降っている。
 飽くことなく、降り続けている。
 ようやく見つけだした集落は、宿を頼もうにも他人を拒むように堅く雨戸を閉めていた。馬を引きながら宿を貸してくれそうな家を探すべく、さして大きくもない集落を歩いていると、子供の泣き声が聞こえた。
 かあちゃん、かあちゃん。
 古い家の壁に寄りかかるようにして、女がいる。その女にすがって、子供が泣いていた。
 女の傍らに片膝をつくと、女がうっすらと目を開いた。脇腹に、剣による刺し傷。それはかなり深く、女は既に虫の息だった。いま呼吸をしていることが不思議なほどに。
「迎えにきたのか……」
 女は言った。紡がれた声はかすれ、肺が傷ついているのか、笛のような音が混じっていた。
「あぁ……ごめんよ。あんたを、置き去りにして、逃げてしまって。……そして、今は子供を置いて……あぁ……なんて、最悪な女なんだろう」
 女の言葉は、自分とは違う誰かに向かって紡がれているのは確かだった。
「大丈夫だ」
 女の手を握り、言ってやった。野党に襲われたのか、女がどうして刃を受けることになったのか、ラルトにはわからないが、こうして会ったのも何かの縁だろう。死水を取るぐらいのことはしてもかまわない。
「ごめんよ」
「大丈夫だ……何も恨んでいないさ」
 女は微笑んだ。母の死期を悟ったのか、母にすがり付いて子供が再び泣き出した。
「子供もいいようにする。大丈夫だ」
「あぁ……ありがとう……」
 女はもう見えていないだろう目を見開いて、子供を見た。彼の頭を撫でてやってから、女は言った。
「あのこは、きちんと、逃げられたのかな……」
 女はそれ以上何も言わず、何も見ず、何も聞かず、雨と同じ温度になった。


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