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第八章 雨の檻 1


この優しい人に滅びを与えることが
運命[さだめ]だというのなら
私は呪おう
私の命そのものを


 遠くから、雷鳴が聞こえる。
 嵐が、近づいている。
 年末が近づけば近づくほど、雨は降ったり止んだりを繰り返していた。細い雨ばかりだが、時に霙や雪も混じった。
 近づいてくる雷鳴を聞いて、確信する。
 嵐が、来る。
 春を前に、全てをなぎ払わんとする、冬の嵐が。
 ティアレが書き置き一つ残して消えたと、蒼白な面持ちでシノが報告して来たのは、そんな日の早朝だった。
 勝手なことばかりして、誠に申し訳ございません。書き置きは、そのような文面で始まっていた。
 ――生まれて初めて、自分で、ほかならぬ自分の意志で、行く末を決めたのです。真剣に私の行く末を案じて下さったラルト様には、感謝してもしつくせるものでは……。
 そこまで読んで、ラルトは書き置きを折りたたんだ。それを引き出しにしまいこんで、ラルトはつみ上がっている書類を引き抜いた。筆記具を出し、その柄で、墨壷を開ける。
「……陛下」
 沈黙に耐えかねたように声をあげたのは、その書き置きを携えてきたシノだった。
「陛下は、平気なのでございますか!?まだ体もきちんと治癒しておりませんでしょうに!」
 シノの声は悲痛だった。それはかつて愛する男も、唯一と定めていた女主人も失った女が新しく見つけた喜びを、奪い取られてしまったものの悲痛さだった。
 この女は、本当にティアレを好いていたのだなと、ラルトに実感させる叫びだった。
「衣服も髪結いの品も、何も持たずに館をお出あそばしているのです!」
 ラルトは黙々と筆を動かし続けた。湿気を含んだ空気に満たされた執務室には、シノの叫びと、ラルトの触れる紙の乾いた音だけが響いている。
「陛下!」
「平気なはずがないだろうっ!!!!!!」
 ばん、と。
 立ち上がりざま、机に叩きつけた手のひらが、じんと痺れた。衝撃を受けて、机の上に積まれた書物がばさばさと滑り落ちていく。
 暗い、憤りを。
 おそらく自分は浮かべているのだろう。
 鏡は無かったが、シノの恐れ戦いた表情をみれば、その程度は安易に知れる。ラルトは深呼吸を繰り返し、感情を押さえつけるように努力しながら、シノに命じた。
「拾え」
 シノは無言でそれらを拾い、大まかにまとめてから、机の上に元在ったように並べ置いた。記憶力の良い女だ。だからこそ、彼女は若くして女官長の地位に登りつめたのだろうが。
 ラルトは嘆息しながら、椅子に再び腰掛けた。乱暴に腰を降ろしたためか、椅子の脚がきしみをあげる。
「申し訳ございませんでした。陛下の心中を察するるにいたらず」
 シノが、頭を垂れる。ラルトは、首を横に振った。
「いい。お前が憤るのも、もっともなことだ」
「陛下は、予想なさっていたのですか?」
 シノにあれだけ叫ばせるほど、報告に対して表情は動かなかったと自覚はある。
ラルトは頷いた。
「ありうるとは、思っていた」
 ラルトの脳裏に閃くのは、あの凄絶なまでに美しい、女の微笑だ。
 何かを訴えかけるような、胸苦しくさせる、微笑。
 あれから、仕事に忙殺されて彼女を見舞うことができなかった。いつもそうだ。何か予感はあるのに、思い知らされるのは全て終わったあとなのだ。
 ラルトは机の上に頬杖をつき、外を見た。窓の外、いつの間にか雨が降り始めている。
「そうか」
 ラルトは独りごちた。
「何も持たなかったのか」
 あれらを持ち出して売れば、身を立てる資金にはなるというのに。
 何も、持ち出さなかったのか。
「この雨は、ひどくなりそうですわ」
 シノがラルトに習って、外を見つめながら言った。
「そうだな」
 ラルトは同意した。氷雨になるだろう。
 女一人が出奔するには、良い日よりとはいえない。
「この雨の中、何処にいらっしゃるのでしょう」
 シノの言葉に、ラルトは瞑目した。
「どこなんだろうな」


 ばたばたばた
 外套の裾が強い風にあおられ翻る。
 振り返りながら、ティアレは丘の向こうを見つめた。天嶮と呼ばれる山のふもとは、雨で白く霞んでいる。それはまるで、裏切りの呪いに囚われる人々を閉じ込める、檻のようだった。
「いきますぜ」
 案内人の男が馬を引きながら、立ち止まったままのティアレに声をかけた。
「時期にここも嵐に巻き込まれる。早く町にはいらにゃなんねぇ」
 ティアレは頷いた。男に手を借りて馬車に乗り込む。幌の中に入って程なくして、がたがたと馬車は走り出した。


 書庫の中は埃っぽく、薄暗い。ますます激しさを増す雨の音が、反響して響いている。窓を叩く風の音に驚くように時折ランタンの明かりが大きく揺れ、影の形を変えた。
「ないな……」
 古い文献を紐解きながら、ラルトは独りごちた。腰掛ける脚立の脚元には、読み終えた巻物や書物が散らばっている。そのほとんどが、想像を絶するほど古いものだ。そのどれにも腐敗や虫食いを防ぐための術がかけられていて、乱暴に扱ってもよいというわけではなかったが、ラルトはそれらを読み終えると遠慮なしにばさばさと足元に落としていった。
 懐から紙を取り出す。それはティアレが置いていった書置きだ。追伸の部分に、一言書いてある。
『お約束していたものは、あの書庫から見つけることはできませんでした』
 約束のもの――魔女の呪いについての文献だ。あれから、この書庫の中を一通り探していてくれたらしいが、何せ量が量だ。ひとまずラルトは、その類の文献があるとされる棚から調べ始めたのだが。
 ない。
 文献が、ない。
 そんな馬鹿な、とラルトは思った。昔、この辺りで文献を調べたことがある。その時は、確かにこの棚に整然と並べられていた。だというのに、ごっそりその手の文献が抜き取られている。わざわざ関係のない書物を詰め込んで、抜き取ったことを誤魔化す手の込みようだ。
(ティアレが?)
 一瞬その可能性を考えたが、どのようにその書物を処分したかが問題だった。この場所に入るときも出るときも、彼女には女官が付き添っている。あれほど大量の文献を数日のうちに持ち出せば、確実に女官の目に留まるだろう。誤魔化すために使われた書物と場所が入れ替わっていないことをある程度確認した時点で、ラルトはティアレを犯人から除外した。
 この書庫に入るには許可が必要だ。大臣たちはまず立ち入りを許されない。
 となれば犯人は限られている。文献が、ラルト即位以前に持ち出されていなければの話だが。
 ぱたん、と膝の上に乗せていた書物を閉じ、ラルトは嘆息しながら立ち上がった。


 ばったりと廊下で鉢合わせ。ラルトは執務室へと戻る途中だった。ジンが顔を覗かせたのはその執務室の方向から。眠たそうな目を擦る幼馴染を見やり、ラルトは笑った。
「お前仮眠してたのか? 寝癖酷いぞ」
「んー。だってなかなか纏まんなくって。徹夜だったんよ昨日。そしたら今日会議に出席する文官共、食あたりだって。何食いにいったんだか。俺気が抜けちゃって」
「次行く前に顔洗って寝癖直して来い。ったく。……また馬鹿にされるぞ」
 ジンはまるで道化のように、派手な衣装を着続ける。あえて大臣たちからの顰蹙[ひんしゅく]を買うべくしているかのように。実際、そうなのかもしれない。
 若い皇帝と若い宰相。関係は緩和の兆しを見せてはいても、二人揃って、疎まれていることには変わりない。ジンは道化を演じている。いつもいつも。ラルトに一身に注がれる非難の目を一時でも逸らすために。
 非難を相手にするつもりもない。それが嫉妬からくるものであるということは、ジンも判っているはずだ。ジンが宰相になったのは、家柄もあるがそれ以上に政治家として有能であるからだ。若き才能を疎むのは、どの階級、どの仕事場においても同じである。
 ジンはそれを笑顔で受け流すが、傍から見ていて気分が悪い。できれば友人が蔑まれる様を目にしたくはないというのが、ラルトの本音だった。
「俺は平気。ラルトはこれから執務室?」
「あぁ。渡月橋の改修の件の書類が来てるはずだしな」
「ちょっとは休憩しなよ」
「休憩から戻ってきたばかりだよ」
 ラルトの主張に、ジンが眉をひそめる。休憩から帰ってきたようにはみえないのだろう。書庫に篭っていたせいか、埃だらけで酷いなりだ。
 執務室もどうせ埃だらけだ。会議の前には女官達が口うるさく湯を浴びるようにいうだろうし、それを思えば二度手間になる。
「ま、いいけど」
 ジンもそれをわかっているのか、軽く肩をすくめたに留まった。
「あぁジン」
 手を振りながら去りかける彼を呼び止めて、ラルトは向き直った。
「何?」
「お前、この国の呪いについての文献持ってるか?」
 先ほどまで探していた文献について、ラルトは尋ねてみた。即位以前に持ち出されていないとすれば、心当たりはジンぐらいだ。
「あぁうん」
 ジンはあっさり頷いた。
「俺持ってるよ」
「やっぱりお前か」
 げんなりとしながら、ラルトは呻いた。書庫を漁って潰れてしまった休憩時間を返してほしい。
「何? 必要なの?」
「ちょっと読み直してみたくて」
「ふぅん。じゃぁまた今度持ってくるよ」
「あぁ頼む」
 どこに持ち込んでいるのかは知らないが、持って来るというのならいいだろう。了解、と笑う幼馴染に、ラルトは納得して踵を返した。
「ねぇラルト」
「ん?」
 足を止めて首を傾げたラルトの目に映ったのは、表情を殺して佇む幼馴染の姿だった。
「どうした?」
 暗い色が彼の瞳の中にある。躊躇を見せながら、ジンは尋ねてきた。
「……離宮に足、運んで、面白い?」
 シノから聞いたのかもしれない。相変わらず時折あの場所にラルトが足を運んでいるということを。
 ラルトは自嘲の笑みを浮かべながら応じた。
「そのままだと、思って」
「何が?」
「部屋。全部、置きっぱなしなんだ」
「置きっぱなし?」
「あぁ」
 シノが報告した通り、そのままの部屋。服も、装飾品も、本も、何もかもが手付かずで置かれている。普通ならばありえない。
「馬鹿な女だと。衣装や装飾品はあいつにやったものなんだ。もって行けば、畑と家ぐらいならきっと買えるのに」
「そっか」
 ジンの顔に笑みが戻る。
「不思議なお姫様だったよね。ティーちゃん」
「あぁ」
 不思議な姫君。
 確かにその通りだった。美しく、気品に溢れ。
「ジン」
 そして、無知ではない。
「お前、手引きをしたな?」
 ジンは笑みを消さなかった。ふん、と頷いて、その口端をより一層吊り上げる。
「どうしてそう思うの?」
「無知ではないからだ」
「……無知?」
 そうだ、と頷いて、ラルトは続けた。
「彼女は無知じゃない。貧しさを知る最下層の民だ。何の後ろ盾もなく、外に出ることの難しさを知っている。そんな女が、たった一人で、何も持たず出て行くことができると思うが? お膳立て[・・・・]をする人間がいたと考えるほうが普通だろう」
 以前のように死ぬつもりで出て行ったというのなら、それも考えられなくはない。だが、あれほど生きていたいのだと嘆いた女だ。前々からラルトは彼女に、出て行きたいのなら用立ててやると言い置いている。本気で出ていくというのなら、彼女はおそらくラルトに最小限の用立てを頼むだろう。
 それもしなかった。何も持ち出すことなく、ひっそりと城を出た。森に入った形跡もない。
 手引きする人間がいたと考えたほうが、普通だ。
「確かに、とても物分りのいい姫君だった」
 ジンは薄く笑い、小さく頷いた。
「彼女は最後まで、この国を案じていた」
「いらないことをあれこれ吹き込んだのもお前だな?」
 書庫の隣の倉庫でジンに会ったらしい。一体何をやっているのかは知らないが、ティアレの話から推測するにジンは頻繁にあちらに足を運んでいるようだし、書庫に足を運ぶことの多かったティアレと会うことも少なくはなかっただろう。
「もったいない、と思ったよ」
 壁にとん、と背を預けながら、ジンが言う。くつくつという、低い笑いが彼の喉から漏れていた。
「とてもとても、残酷なことだ。どうしてあのような姫君が、呪われた魔女なんだろうってね」
 だんっ
 雨に閉じ込められた廊下に反響する、壁に背中が叩きつけられる音。それに続いて、書類が腕からすべり落ちて足元に散らばった。ジンの抱えていた本もまた、重量感ある音を響かせて床に落ちる。
 薄く笑うジンを見上げ睨みすえて、ラルトは呻いた。
「呪われた皇帝を前にして、他でもないお前がそれをいうのか!?」
 ジンがやんわりと襟首掴むラルトの手を押しのけようとする。だがラルトは離さなかった。更にその手に力を込める。ぎり、と布が軋む音がした。
「ジン」
「言ったよねラルト。俺はこの国を守らなきゃならない。お前と、この国をね。そのために俺は宰相になったんだし、そのために俺は三年前出て行かなかった。お前と国を守り続けること。それが俺にできる、最後のことだからだ。……裏切りの呪いに蝕まれ続けるこの国。けれど俺たちの思い出が残る、俺たちが生まれ育ったこの国を、脅かす可能性があるのなら、俺はそれを排除するし、そのためになら嫌われ役でも、憎まれ役でも、それこそ道化でも、なんだってやるよ。だから、俺は彼女に忠告した。最終的に国を出て行くことを決めたのは、ティーちゃんだけどね」
 俺は“お願い”しただけだよ、とジンは人を食ったような笑みを浮かべて見せた。
「ティーちゃんはいい子だ。俺好きだよ。もし彼女が、単なる農民の出の娘というだけなら、俺は何も文句は言わない。そんなもの、いくらでも覆せるということを俺は知っているからだ」
 水の帝国は最古の国だけに勢力結婚が後を絶たないと同時、時折貧民の血流から大臣、皇帝、もしくは皇后に上り詰めた人間の前例も決して少なくはない。前皇帝の寵妃であるラルトの母親も元は流浪の民だ。
 根回しさえ間違わず、当人にその資質があるのなら、身分の差など、いくらでもひっくり返せる。
が。
「だけど“魔女”はやめておきなよラルト」
 ジンは言葉を続けた。
「デュバートみたいなやつ幾らでも出てくる。国内部からの裏切りもの、という意味じゃないよ。彼女が滅ぼした国の遺族たちが、謀略の網を張って逆恨みしてやってくるだろう。また国の内部でも、彼女の精神に揺さぶりをかける。彼女の魔力は暴走して、もしかしたら酷い災害を国に齎すかもしれない。それこそメイゼンブルのようにだ。滅びの魔女なんて曰くつきの女、囲って引き止めて、それでこの国にどんな利益がある? 現実を見ろラルト。お前は皇帝なんだ! 十数万の命と生活を見ていかなければならない、皇帝なんだよ! 国を脅かす可能性のある女、后として招き入れて、誰が納得する? 誰が認める? お前は親父さんたちのように民に失望され続ける、皇帝でありたいのか?!」
 だんっ、とラルトは再びジンの身体を壁に押し付けた。
「……それが、お前の本音か」
「悪いねラルト。そういうことだ。俺は、宰相だもの」
 今度は、ラルトはジンの求めに応じて手を離した。ジンはずるずると壁に背を這わせながら、その場に腰を下ろしていた。
 彼を見下ろしながら、下唇をかみ締める。
「そろそろ七日だよ。諦めなよ、ラルト」
 ジンが立てた膝に頬杖をついて、薄く嗤った。
 何かが、かちんと音を立てる。
「くそ……!」
 ラルトは舌打ちをして踵を返していた。ジンが慌てたように立ち上がって、叫んでくる。
「お、おい何処へ行くんだよラルト!!」
 拳を握り締めながら、足を速める。踵の音が高く響いた。
(何処へだって?)
 そんなこと。
 自分が知りたかった。


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