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第七章 愛を囁くかわりに 6


『何故私にそれを話したのですか?』
『君に今のこの国の状態が、どれほどの犠牲を払って作られたものだか判ってほしかったからだよ』
『貴方はどうして私が魔女だと信じるのですか?』
『この国が呪われている。それと同じようにそのことは厳然たる事実だからだよ』
『貴方は私に、この国から離れて欲しいのですね』
『物分りのいい姫君でとても助かるよ』
『これ以上失うわけにはいかないから?』
『これ以上、失わせるわけにはいかないから』
『私が魔女だから?』
『君がラルトにとって意味を持ってしまったから』
『……』
『もしくは、君がこの国にとって意味を持ってしまったから』
『……私はこの国を滅ぼすことなく、守ることができますか?』
『もちろん』


君が、それを望むのなら――。


まるで、呪詛のように唱えられる言葉
誰も彼もが、それに捕らえられている
鍵が開いていることに気付けない
囚人のように


 奥の離宮へと続く渡殿[わたどの]の上で、ラルトは一度立ち止まり空を見上げた。
「雨になるな……」
 ここ数日晴れの日が続いていたというのに、今日は朝から暗い灰色の雲が空の端を覆っている。
 日暮れ近くになって、ラルトは風に運ばれてきた雨の臭いを嗅ぎ取った。山の彼方で光るものがある。そして薄く見える白い帳。あれは雨の幕だ。徐々にこちらへと迫ってくるに違いない。夜あたり、降り出すだろう。
 肌寒い風に一度身を震わせて、ラルトは離宮へと急いだ。ティアレ様の体調が、あまりよろしくないようなのです、とシノが今朝方報告してきた。先日顔を合わせたときはそんな様子はつゆともみられなかったのだが、彼女のことだ。寒空の下何か手伝いをして、体調を崩したということも十分ありうる。
 離宮の中は閑散として、女官は出払っているようだった。本殿では春待ち祭りの準備で大わらわであるから、恐らくそちらに詰めているのだろう。静まり返った廊下に自分の靴音のみが響く。歩きなれた道を行き、奥まった部屋の入り口までよどみもなく進む。透かし彫りが美しい木製の扉を軽く叩いて、ラルトは尋ねた。
「ティアレ?」
「はい」
 控えめな声が響き、ラルトは扉を開けた。屏風は畳まれていて、その部屋の主人は春の緑の夜着を身に付け、撫子色の薄物を羽織って、寝台の上で何か書きつけていた。
「……ラルト様」
「体調を崩したと、シノから聞いた。様子を見に来たんだ」
 部屋の中に足を踏み入れながらラルトは話しかけた。シノの報告はあながち間違いではなく、近づけば近づくほどその透き通るような女の白さが明確になる。青白い、という形容がまさにしっくりくる、病的な白さだった。
 だが、それと相反するように、摩訶不思議な色の双眸には、強い意志が宿っていた。決然とした何かが、そこにある。
「お仕事は宜しいのですか?」
 書きつけていた冊子を閉じ、脇に置いてティアレが尋ねてくる。寝台側の椅子を引きながら、あぁ、とラルトは頷いた。
「熱は?」
「ありませんが、少しけだるい程度です。シノも、この程度のこと、報告しなくともよいのに」
「それだけ心配されているということだろう。好かれたものだな」
 ラルトの述解に、ティアレは複雑そうな色を瞳に浮かべた。おそらく、シノに好意を抱かれることに、戸惑い、そしておびえているのだと思った。彼女は常に、呪いを引きずっている。
 ラルトの決断――ティアレにまだ告げてはいないが――は、彼女を苦しめることになるのだろうか。
「シノも困ったものですね」
 ティアレは手元の冊子に視線を落としながら、そうこぼした。
「誰が主人なのか、取り違えているのではないでしょうか。ラルト様のご政務を邪魔するようであってはなりませんでしょうに」
「シノは昔から俺に対して遠慮がない。ティアレの体調について報告するようにと言いつけているのは俺だ。命には背いていないさ」
 それにしても、確かにティアレの言う通り、シノの肩入れの仕方は、何か鬼気迫るものがあるが。
 ラルトは胸中でひっそりと呟いた。シノが主人を取り違えている。ティアレがそう零すのも無理はない。それほどまでに、シノは彼女を慕っていたし、そして他の奥の離宮に仕える女官達も皆同じくだった。ティアレはあっさりと、女官達の心を掌握した。レイヤーナもまた、誰からも愛される娘だったが、ティアレのそれとは少し異質だ。何の後ろ盾もなく、最下層の出で、そして付け加えれば異人のティアレをこうまで女官達は盲目的に慕う。
 ラルトはティアレのその、抗いがたい魅力に賭けていた。準備さえ整えれば、必ず表舞台に立てると。奥の離宮の女官だけではなく、その下に連なるものたち全てを、掌握すると。
 その美しく気高い眼差しで、ラルト自身を魅了したように。


 あぁ。
 きれいな眼差しだ。
 ティアレは思った。皇帝の双眸は美しい。彼の魅力はその整った容貌ではない。真っ直ぐに相手を射ぬき、魅了する、暗い炎の宿った眼差しこそが、彼の最大の魅力なのだ。彼の美貌、そして雰囲気は、この眼差しの副産物に過ぎない。この眼差しに、人々は希望と救済を求め集うだろう。そして彼に手を引かれて立ち上がるだろう。
 胸が苦しい。
 ティアレは思った。
 ラルトがこのように、仕事の合間を縫って訪れるということ。それだけでも胸が苦しいのだ。彼の瞳に自分が映りこむということ。それだけでも胸が苦しいのだ。
 苦しいのだ。
 街を歩いた時、ラルトの手がとても熱かった。人の肌に触れたことは数あれど、触れている人を熱いと思ったことはかつて無かった。熱くて、優しくて、苦しかった。時が止まればと思った。
 自分の他に、このように手に触れる姫君が他にいないという事実にも安堵した。この男が、かつて愛した女について知るたびに、どうしようもない何かが胸を締め付ける。こんな感情を、ティアレは知らない。
 目が存在を追う。不在のさなかに存在を思う。彼の優しさに、心温かくなる。
 そして同時に、苦しいのだ――……。
 ラルトはティアレにこの場所にいるように強要したことはない。ティアレはこの場所を滅ぼすことを恐れた。今も恐れている。自分の身を案じる優しい女官達。そして、政務の間を縫って様子を見に来る多忙な皇帝。
 初めて歩いて見て回った都の街並みは、古く、そして美しかった。そこには人の営みがあった。そして今まで滅ぼしてきた国や町も、いくら君主が娼婦に現を抜かすほどに熟れ、腐り落ちる寸前だったとはいえ、皆それぞれの営みがあったのだろう。デュバート侯が言っていたではないか。美しい常春の公国。それを滅ぼしたのは、他でもない滅びの魔女であると。
 それと同じように、ラルトに手を引かれて歩いた美しい街を、滅ぼす。彼が必死になって守ろうとしている国を、滅ぼす。
 彼を、滅ぼす。
 とても、恐ろしい。
 恐ろしいのに。
 自分はまだここにいる。
 こうして、奥の離宮に匿われ、簡素な、しかししつらえの良いものを召して、皇帝と向かい合っている。
 この場所にいることを、強要されたわけでもない。鎖に繋がれているわけでもない。
 他でもない、己の意志で。
 自分は他でもない彼の傍にいることを選んでいる。
 それが、苦しい。
 とても苦しい。
「ラルトさま?」
「ん?」
 ラルトの微笑は優しかった。穏やかだった。そしてティアレの胸中も、またとなく穏やかだった。側に居るだけで満たされていく何かがあった。
 あぁ――ティアレは胸中で独白する。
 知っていたのだ。こんな風に、彼が自分にとって、決して滅ぼしたくない相手になるのだと。
 だからこそ、自分は初めて彼に出逢ったその時に、慣れぬ忠告までしたのだ。滅びを招くが、それでもよいのかと。
『君が』
 ジンが言った。
『ラルトにとって、意味を持ってしまったから』
 どのような意味か、ティアレは訊かなかった。どんな形であれ、意味を持つ。それは恐ろしいことのように思えたからだった。
「少し、疲れました。もう眠ります」
 ティアレは、冊子を寝台の傍らにある棚の上に置きながら言った。夜半に冷え冷えとした場所にいたせいで、体調を崩したことは不覚だった。体力を蓄えなければならない。
「ラルト様も、どうかご政務にお戻りになられませ」
「……あぁ」
 ラルトは頷いて、椅子から立ち上がった。ぴんと伸びた、皇帝の背中。その背中にすがりつきたい衝動を必死に押し殺して、ティアレは言った。


「ありがとうございます」


 女の声に、ラルトは振り返った。彼女はまだ、寝台の上で身を起こしている。ラルトを見送ってから横になるつもりなのだろう。
 その女の表情を一瞥し、そしてラルトは息を飲んだ。
 女の口元には笑みが湛えられていた。肌は病んだ身のせいか色を失い、軽くまとめられた赤い髪は痩せた肩に落ちている。そんな風に彼女が病んでいることを、忘れさせるほどに、彼女の目は輝き、決然とした意志と、そして温かな、見ているほうを胸苦しくさせる何かに溢れていた。
 壮絶な程に、美しく、開いた、花のように。
 女は笑っていた。
 それが、ラルトが初めて見た、ティアレ・フォシアナの微笑だった。


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