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第七章 愛を囁くかわりに 5


 夜。
 水を求めて廊下を歩いていたティアレは、ひやりとした気配を感じて肌を粟立てた。
 招力石によって足元を確認するだけの明るさは確保されているとはいえど、廊下は薄暗い。よく目を凝らしてその先をみやると、裸足の足が見えた。
 女の足。
 ぞく、とティアレは戦慄に身を強張らせた。脳裏に一瞬過ぎったのは、森の奥と塔で見かけた女だった。亡霊。結局あれは誰であったのだろうと時折思い返す。白い肌に黒髪の、病んだ笑みを浮かべた女。
 どこかで見かけたような気がしてならないのに、靄が記憶をぼかしてしまう。
 暗がりの足は、ゆっくりとこちらへと近づいてくる。
 反射的に後ずさろうとするが、床に影が縫いとめられてしまったかのように身体が動かない。指一本さえ、動かすことが難しい。ティアレは、不快感に眉根を寄せた。脂汗が、背中を伝い落ちていくのが判った。
(ラルト様……)
 無意識に、皇帝の名を呼んだ。夜半にこの離宮に足を踏み入れることのない皇帝よりも、どこかで控えているであろう女官の名を呼ぶべきだった。どちらにしろ、その叫びは届くことがない。声は、空気を震わすことなく、ただ喉に張り付いた。
 暗がりから、人影がゆっくりと輪郭を顕にする。
 幽鬼。
 亡霊。
 そう思った。
 そう思わざるを得ないほど、目の前に現れた人物は、冷ややかな、そしてどこか欝とした顔をしていた。


 招かれた場所は、ティアレに貸し与えられている書庫に隣接する倉庫。その一角にある部屋だった。奥の離宮とは造りの全く異なった石造りの壁。あの、森の奥の塔に造りは似ている。湿気を含んだ空気に満たされた小部屋に、ジンはティアレを通した。
 彼が燭台の蝋燭に火を入れると、橙の明りが暗闇を追い払い、部屋の様子が浮き彫りになった。小さな空間。まるで隠れ処のようなひっそりとした場所だが、煩雑で、生活感が溢れていた。書物が書棚から溢れ、床に平積みにされている。書き物机とその上に置かれた筆記具、水差し。備え付けの寝台の上で、寝具が丸め置かれていた。
 ジンはティアレに椅子を進め、彼自身は寝台に腰を下ろした。
「ごめんね寒くて。ここ招力石ないから」
「……いえ」
 ぎこちなく首を横に振りながら、ティアレは肩掛けの端を胸元まで引き寄せた。空気はそれほど冷えていないのに、どこか薄ら寒い。それは、この宰相の位に就く男が纏う、独特の空気のせいなのか、それとも建物の造りの為であるのかはよく判らない。
 深夜、奥の離宮の廊下に立っていたジンに、やんわりと茶に誘われた。付いてくるつもりはなかった。なかったはずであるのに、どうしてか自分はここにいる。今胸中は、逃げ出したい気持ちで満たされていた。
 表情が強張っていることが、判ってしまったのだろう。ジンは苦笑した。その笑顔は、明るかった。
「そんなに緊張しないでいいよティーちゃん。俺襲わないし。ただお話聞いてもらって、ちょっとばっかしお願い聞いてもらおうとか思ってるだけなんだぁ。下手に手ぇだして、ラルトにぶん殴られるの困るもん俺。喧嘩には一度も勝てたためしないしさ」
「……はぁ」
 ティアレが今抱く緊張は、襲う襲われる云々といった危機感からのそれではなかった。曖昧な生返事をしたティアレの目の前では、ジンが手際よく茶の用意を始めている。水を温めるための招力石。茶器。薫り高い茶葉と、陶器の器。
 程なくして、椀に湯気が立ち込めた。何もいえないでいるティアレに、ジンは、人懐こい笑みを浮かべて椀を差し出してくる。ありがたく茶を受け取り、冷えた身体を温める。毒が入っていることに対する危惧は、脳裏を過ぎらないでもなかったが、無視した。
 ほろ苦い、けれどどこか甘い緑茶を味わっていると、ジンが彼自身の分を椀に注ぎながら話を切り出してきた。
「……今日は続きを話そうとおもってね」
「続き?」
「この間の、お話の続き」
 この間。
 ジンと最後に言葉を交わしたのは、もう随分前、この部屋のある建物の別の部屋だった。倉庫として使われている広い空間で、彼と出会いそして。
「……レイヤーナ様、の?」
 ラルトのかつての正妃だったというレイヤーナの存在を、ジンの口から聞かされた。
「ラルトからは何か聞いた?」
「……内部分裂に巻き込まれて、お亡くなりになられたと」
「詳細は聞いた?」
「いいえ」
 そう、とそっけなく返事をし、宰相は椀を口に運ぶ。優雅な所作。見れば見るほど、そのあり方はラルトのそれに似通っている。
 だが、表情の造りはまるで異なった。ジンのように冷ややかな笑い方を、ラルトはしない。
「内部分裂は、前皇帝、つまりラルトの父親を擁立しようとする一派と、ラルトを後見する派閥の抗争だよ。端的に言えばね」
 ジンはそう切り出した。
 ラルトの父親。
 この短期間に様々な話をしたが、ラルトの家族の話はほとんど聞かなかった。ジンが、と、幼馴染の宰相の話はよく耳にしたが、それ以外の家族の話を、全く耳にしなかった。
「ラルト様の、ご家族は……」
「聞いたかもしれないけど、俺もラルトも妾腹の出。兄弟は腐るほどにいたけど、国が荒れている間に権力闘争で皆、殺しあった。生き残ったのは前皇帝と、前宰相、そして俺たち二人。孤児だよ、俺たち。君と同じ」
 どこかふっきった明るさすら漂わせて、ジンが言う。孤児。大国の君主と宰相に、なんて似つかわしくない言葉なのだろう。
 ジンは椀を握りながら、言葉を続けた。
「殺し合い、裏切りあい、奪い合い。国が荒廃してどうしようもなくなって、俺たちはラルトの親父さんから、この国を、玉座を奪い取った。七年前の話だよ」
 ティアレはその時始めてラルトが玉座に登った折の、ことの顛末を知った。
 簒奪者。恵まれてその位に就いたと思っていた男は、その自ら汚名を被って、玉座を奪い取っていたのだと。
「……お父上はどうなされたのですか?」
 その位を実の息子の手によって追われたものはどうなったのか。
「信頼の置ける重鎮に預けられた」
 ジンが、その質問を待っていたといわんばかりに口の端を曲げた。
「その時親父さんを殺せば全ては簡単だった。けれど、ラルトにはそれができなかった」
「今も生きていらっしゃるのですか?」
「いや。もう死んだよ。内部分裂の最中、病でね」
「内部分裂……」
 ラルトやシノの口から時折漏れるその言葉が気に掛かっていなかったわけではない。
その言葉には、傷跡がある。
 引き攣れた、傷跡のような痛みを含んで耳に響く。
 ことん、という渇いた音を立てて、椀が脇に置かれる。ジンは組んだ手の甲に顎を乗せて、目を細めた。その目は確かにティアレを捕らえてはいたが、追憶に思いを馳せる、焦点の合わぬものだった。こちらの背後に、過去を透かし見ているのだろう。
「ラルトが玉座に腰を下ろして四年後の話だ。ラルトにつく現皇帝派と、先帝派に分かれて内部分裂が起きた。結局それは病による先帝の崩御が決定打となって終結した。これが、三年前の事件だ。政権交代ではよくある話なんだけど、それだけで終わらないのが裏切りの帝国が裏切りの帝国たる所以だよね」
 ジンが、静かに瞼を閉じる。
 その瞼の裏に、過去を描き出すように。
「内部分裂の最中、とある暗殺事件が起きた。開かれた小さな茶会。その席で毒が盛られた。助かったのは昔から毒で身体を慣らしていた俺と、ラルトと、そして運よく仕事でその席をはずしていた、デュバートとあと二人だけだった。大臣だとか、俺やラルトの副官だとか、みんなやられた。俺もラルトも一年後遺症で悩まされた。生き残った後の二人は、今も治療を続けているって話だよ。二人とも、今はもうこの国にはいないけれど。この事件があってまもなくして、先帝派の主格が捕らえられてラルトの親父さんも病で没した。だけど新しい大臣がみんな死んじゃったもんだから、一度追い出した古い思想に凝り固まった議会の爺、呼び戻さなければならなくってさ。これが、ラルトと狸爺たち[・・・・]の現在まで続く不和の理由」
 再び、ジンが目を見開く。爛々と輝くその双眸に尋常でないものを感じて、ティアレは思わず喉を鳴らした。
「レイヤーナだった」
「……え?」
 一瞬、ジンが何を意味しているの判りかね、ティアレは首を傾げた。
 宰相は嗤った。その笑みは艶やかだったが、酷く殺伐とした印象をティアレに与えた。
「暗殺事件の犯人。俺たちに、毒を盛った張本人だ。それが、レイヤーナ。皇帝、ラルト・スヴェイン・リクルイトの公式の正妃だった」
「……ぇ……え?」
 ティアレは瞬きを繰り返した。
「……毒を? レイヤーナ様が? 正妃なのに? ……お、幼馴染なのに?」
 ティアレの驚愕の呻きに、ジンが頷き肯定を示した。
 幼馴染、というものが一体どのような絆であるのか、ティアレには判らない。
 だがラルトが時折漏らす言葉の響と、懐かしそうに細められた目からは、その絆の貴重さが滲み出ていた。全幅の信頼。優しい思い出。
 それを担う女が、毒を?
 ティアレは、混乱した思考の片隅で、以前ラルトが漏らした言葉を思い返した。
『罪人』
 あぁそうだ。
 彼は言っていたではないか。
 罪人と。
 彼の重い口。シノの悲しい笑い。それらの意味が、示唆していたこと。
「内部分裂が起こる少し前だ。レイヤーナは病気になった」
 ジンは哀しそうに微笑んだ。左胸を指でとんとんと叩いて彼は言う。
「心の、病気だ。彼女は大臣家の娘で、天真爛漫で、快活で、それこそ皆に望まれる理想の正妃だった。だけど、駄目だったね。彼女は、正妃には向いていなかった。彼女は、誰にも愛されて育ち、愛を独占できる存在だと自覚している、良くも悪くも貴族の姫君だった」
 ティアレはそのような姫君を数多く見てきている。ジンの意図するところは直ぐに理解出来た。
 天真爛漫で、伸びやかで、そして美しい。
 平和な時代ならそんな姫君でも構わない。愛らしく、それこそ小鳥のように笑う姫君こそが皇帝の后にふさわしい。
 しかし、戦乱の世では。
 荒れた治世の後では。
 無知とは罪だ、とティアレは思う。
 過去にも、よく、思った。ティアレが一体どういう目的で買われてきたのか理解していなかった、以前の所有者の娘達。父上が一体何をしたのだと、のうのうと糾弾する姫君たち。
 彼女らは天真爛漫で、美しく、そして、無知だ。
「ヤーナはラルトの即位とほぼ同時に立后したんだ。だけどあの頃、俺たちはヤーナに構っている暇がなかった。手探りの政治に一杯一杯だった」
「レイヤーナ様に、会いに、いかなかったのですか? ラルト様は」
「行ってたよ当然」
 ティアレの言葉に、彼は即答する。
「時間を作って会いに行っていたよ。それこそ今ティーちゃんに会いにいくみたいにね。だけど、ヤーナにとってはそれだけでは足りなかったんだ。ラルトが即位して、四年目に差し掛かった春、俺たちはそのことにようやく気付いた。……そして気付いたときには、もう手遅れだった」
「……どうなされたのですか? レイヤーナ様は」
 ラルトは、レイヤーナのことについては全く触れない。ラルトは、思い出を頻繁に語りはしたが、必ず三人で、と一括りにして、レイヤーナの名前を出してはいなかった。
 罪人という言葉の意味を[おもんばか]って、ティアレはそれについて深く追求したことはなかったが。
「ヤーナは酷い癇癪を起こすようになって、記憶も混同して俺とラルトを間違えるぐらいだった。ラルトが戻るたびに、どうして一緒にいてくれないんだって、手当たり次第手元のものを投げつけた。一度ラルトが額から血ぃだらだら流しながら執務室に戻ってきたときには、ホントびっくりした。裏切り者ってさんざん罵られたって、ラルトはそのとき笑ってたけど」
 ジンのその言葉に、ティアレは思わず絶句した。裏切り者と。その言葉の意味を、重さを、呪われた国のものなら知らぬはずはないであろうに。
「要するに、国の建て直しに忙殺されていたラルトに、ヤーナは怒りを全部ぶつけた。意味もなく泣いて、意味もなく怒って、変に陽気だったり欝だったりを繰り返して。それでもラルトはヤーナに根気よく付きあってた。そしてその年の秋、内部分裂が起きたんだ」
 ジンは、瞼を閉じて天井を仰いだ。
「擁立されたラルトの親父さん自身はもう帝位を望んでいなくて、一体誰が内部分裂を引き起こした主格なのか、しばらくの間はわからなかった。要するに部下の先走りってことなんだから。国家事業もなんとか上手くいき始めた矢先に起こった、宮廷内の対立。俺もラルトも処理に奔走して、とうとうヤーナに構うことが完全にできなくなった。ラルトは、ヤーナを一時的に実家に帰すことに決めた」
 言って、椀の中の冷めた緑茶を一気に呷る。
「けれどそれが間違いだった」
 空になった椀を見つめるジンの瞳は、暗い飴色をしていた。
「ヤーナの両親が、内部分裂を引き起こした、先帝派の主格だったんだから」
「……え?」
「よく考えればわかることだけどね」
 そういって笑い、ジンは腰を下ろしている寝台に仰向けに倒れこんだ。染みだらけの天井を見上げる亜麻の瞳は虚ろだ。自責か後悔か悲哀か。そのどれもか。人懐こい笑顔の消えた、整った顔には、冷たさと、ラルトと共通する、どうしようもない傷を負ったものの疲れが滲んでいた。
「ラルトが親父さんを預けた重鎮っていうのは、ヤーナの両親なんだ。付き合いの古い大臣で、おそらく宰相家に次いでその歴史は古く、代々皇家に忠誠を誓っていた家だった。けれども彼らを信頼していたっていうのは、やっぱりヤーナの両親だったからなんだろうなって俺は思う。だけど見事に裏切られた。どうして彼らがラルトを皇帝の位から引きずり降ろそうとしたのかも謎のまま。ただ確かなことは、ヤーナはラルトではなく両親の側についた。両親のほうが言葉巧みに、ラルトを玉座から引き摺り下ろせば、昔のように一緒にいられるとヤーナを説得したのか、ヤーナが自ら、己に無償の愛情を注いでくれる、両親を、彼女は選んだのかは、俺には判らない」
 そのどちらの理由にしろ。
 国を代々侵食する裏切りの呪いから必死になって抜け出そうとしている男を、しかも愛している男を、そのように簡単に裏切れてしまうものなのか。
 嫌悪感がつい面に出る。何とか取りつくろい、低くティアレはジンに問うた。
「……それで、毒を盛ったのですか?」
「秋の終わりのことだった」
 ジンは昔を懐かしむように微笑んだ。
 優しい微笑。
 けれども、哀しい微笑。
「ヤーナは両親の元から戻り、労いのための茶会を開いたんだよ。少し正気に戻ってるみたいだったことを、みんな喜んで、久方ぶりに顔を見せたヤーナの誘いに乗った。ヤーナは、何だかんだいってみんなの憧れみたいなところがあったからさ。まさかそのヤーナが毒を盛って、暗殺を謀るなんて、誰も思わなかったんだよ。そうして、失って俺たちは思い知らされた」
「……何をですか?」
「ここは、俺たちにとっても、『裏切りの帝国』であったのだと」


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