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第七章 愛を囁くかわりに 4


 執務室に戻ると、自分の変わりに執務机の椅子に腰掛けているジンがいた。椅子に身体全体を、くったりと預けている。様子は怠惰だが、右手にはきっちりくしゃくしゃになった紙の束が握られ、机の上に投げ出された両足の腿の部分には開かれた分厚い辞典。ラルトは腕を組んで、半眼でジンを見つめた。
「ジン。その席に座るのは、俺は全く構わないが、足を机の上に投げ出すのはやめろ。墨壺ひっくり返ったらどうするつもりなんだ?」
「だってぇ。眠いしぃ眠いしぃ、眠いしぃ?」
「理由になってないぞ」
 ジンは足を一瞬宙に浮かせて、それを地に着ける反動で立ち上がった。滑り落ちそうになった辞典を器用に宙で受け止めて、にぱ、と笑う。
「やっと帰ってきたよ。これで俺も休憩時間ですな」
「悪いな。遅れたか?」
「うんにゃ。休憩をきっちり取るようになったことは、とっても良いことだと思いますよ? 陛下」
 猫のようにうんと伸びをして、ジンは笑う。指を一つ一つ折りながら、彼は休憩中にするべき事項を確認し始めた。
「さぁてとまず一風呂あびて。んで仮眠とって。お腹すいたからお菓子もたべよ」
「俺にお前の休憩の予定を話す前に、さっさと行ってきたらどうだ? でないと時間なくなるぞ。次会議だし」
「うっ」
 ラルトは机に歩み寄ると、椅子の傍からジンを引き剥がした。腰をすとんと下ろし、積み上げられた書類の束を前に、参考文献を何冊か選んで引き抜く。ジンが足で押しやったらしい墨壺と筆記具を引き寄せて、気合にぱちんと頬を叩いた。来年の税率についての承認があと少しばかり残っている。判例が記録された本と睨めっこをしつつ、承認書類への追記および署名を再開した。
 ふとラルトは、右手から視線を感じて手を止めた。
 机の右側に、ジンがそのまま佇んでいる。
 沈黙したままの幼馴染の顔を仰ぎ見て、ラルトは笑った。
「早くいけよ。あとで休憩追加しろとかいっても、俺はできないからな」
「ラルト」
「……ん?」
 書類に署名しつつ呼びかけに応じる。ややおいて、静かにジンが尋ねてきた。
「どうするの?」
 何を、とラルトは訊き返さなかった。ジンが何を尋ねようとしているのか、わかりきっている。長い付き合いだ。それぐらいは目を見ればわかった。
 この間の件だ。
 ラルトは静かに幼馴染の目を見つめ返し、笑った。だがその笑みはジンの神経を逆撫でしたらしい。
「ラルト、俺はね」
 彼は抑揚を限りなく抑えた声音で述べ始めた。
「お前とこの国を守らなきゃならないんよ。お前の行く末を守らなきゃならんの。不安要素は出来る限り取り除いておきたい。それが俺の役目で、それが俺の、やり通すと決めたことだ。お前が、この裏切りの帝国で、『誰も裏切らない皇帝』を目指そうとしたのと同じように」
 厳格な声音だった。彼の口元に浮かぶのは、薄い微笑みだ。
「お前を、この国を、三人の思い出の残るこの地を守り通す。それが俺の役目なんだよ。……それが俺の、約束なんだよ。……折角、上手い具合に回り始めた、矢先なんだ」
 親友の亜麻色の双眸は暗くなり始めた部屋の中で、燃えるような輝きを増していた。
「この時期に、わざわざ大臣たちと新しい確執を作って、三年前を再現する必要がどこにある!」
 それは糾弾だった。
 おそらくジンは、自分が一体傾国姫をどのように扱うのか、予想が付いているのだろう。
 ラルトは嗤った。
「……俺が変われたのは、彼女のお陰だぞ」
 ラルトの呟きに、ジンは肩をすくめて肯定を示した。
「そだね。それも事実だね」
 だがすぐさま、だけど、と彼は付け加える。
「デュバートが死んだのも、事実だ」
 幾ら語ったところで平行線だ。
 ラルトは思った。デュバートは、三年前にもこちら側についた家臣だった。偶然、視察に出ていて、“あの席”から外れていたのだ。この三年間、よく仕えてくれていた。ラルトもジンも、信頼していた。
 デュバートの死は、どうとでも取れる。私怨だったのか、それとも本当にこの国を案じるものだったのか。おそらくそのどちらでもあって、どちらでもないのだ。彼の死について、討議することには飽きていた。呪いとして結びつけるも、結び付けないも、受け取る側次第だ。
 ラルトは溜息をついて机の引き出しを開けた。王印や朱肉といったこまごまとしたものが入っただけの、殆ど空の引き出し。その中に一枚だけ入れられていた書類をジンに手渡す。ジンは眉をひそめながらそれに目を落とし、驚愕の呻きを上げた。
「……お前」
「近々お前に渡そうと思っていたし、頼もうとも思っていた。別に、俺だって考えていなかったわけじゃないさ。ジン」
「……本気で」
「さぁどうなんだろう。とりあえず、覚悟だけは決めていた。お前の言う通りだったな。結局はずるずる引き止めることになっている。俺のほうは、もうその覚悟を決めている」
 ジンの手元にある書類は、奥の離宮の権利書だった。そもそも奥の離宮は五百年前、仮面王が個人の非常に私的な空間として建てたものだ。その使用の用途は歴代の皇帝によって様々だが、たいていは皇帝が一人で過ごす空間として使用されている。裏切りの帝国に於ける、休息の場。女官は最大でも十指に足る分しか置かれず、人が入るには皇帝の承認が必ずいる。そんな場所だ。王と宰相以外は、一体誰が奥の離宮に仕えているのか、それすら知らない。奥の離宮という存在すら、ほとんど幻めいている。秘匿の中の秘匿とされる空間。だからこそ、ティアレがあの場所に居ても誰もその気配を察知することができないのだ。
 その権利書は、奥の離宮と呼ばれるその場所で、皇帝以外に主人として振舞うことができる人物に、与えられるものだった。皇帝の私的な空間に於いて、権力を与えられる。その意味は、どうひっくり返しても一つしかない。
 そこに、一人の女の名前が書かれている。
「信頼できる家臣は、また探せばいいし作ればいい。難しいことじゃない。……経歴なんてものは偽造できる。大臣たちに認めさせるには根回しも必要だが、彼女ならできるさ。時間をかければ」
 ジンは再びその権利書に舐めるような視線を這わせ、溜息をついてラルトにそれを返してくる。
 一歩、ジンが俯いて後ろに身体を引く。
 ラルトは思わず立ち上がった。
「ジン」
「俺言ったよね。……まぁ誰だって構わないんだ。お前がどんな女囲おうが、どんな女抱こうが、ね。貴族だろうが平民だろうが。彼女作ったっていったって、ふんあっそ、がんばれよーって言える自信あるけどさ。俺、お前を見てて、時々怖くなるんだ。お前、彼女連れてどっかいくんじゃないかとかさ。この国捨てて、どこかへ行くんじゃないかとかさ。全てを放り出せそうな目で、彼女のこと語るの気が付いてる? ラルト。それがどれだけ危ういか判ってんの?」
「彼女のかつての所有者のような、美姫に溺れて国を滅ぼすような皇帝になる気は毛頭ないし、俺はならない」
「……知ってる。俺が言っているのはそのことについてじゃない。……お前がそんなやつじゃないこと、俺は知ってる。政治と私事、きっちり分けるやつだよお前は。政治に私事は持ち込まないし、私事に政治は持ち込まない。だからこそレイヤーナは病んだんだ。……俺が訊きたいのはそれじゃない。俺が問いたいのは……、わかっているのか? ここは『裏切りの帝国』なんだってことだよ」
「……ジ、ン」
「彼女が現れて混乱しない奴なんていない。裏切る輩がいるかもしれない。家臣は裏切らなくとも、家臣の思惑に振り回されて、彼女がお前を裏切るかもしれない。逆に、彼女がお前を裏切るかもしれない。どちらにしろ、傷つくのは他でもないお前だ!」
 だんっ、と足を踏み鳴らして、ジンが叫ぶ。
 その振動が伝わったのか、床に積み上げられた書籍がいくつか滑り落ちた。ばさばさという落下音。舞い上がる埃。その中に佇む幼馴染を、ラルトは目を細めて見つめた。
「裏切りへの囁きは何時誰の耳に囁かれるか、判らないんだよ、ラルト」
「それでも俺には彼女が必要なんだよ、ジン」
 ジンの、動きが止まる。呼吸すら。
 ややおいて、ジンがため息混じりにとんでもない問いを投げかけてきた。
「……レイヤーナとティーちゃん、どっちを愛してる?」
「……おま、お前なぁ」
 その意外さに、思わず顔が熱くなる。真剣に言われると妙に照れくさい。
「どっちよ」
 だが真剣そのものの幼馴染の問いにラルトは気を取り直して厳かに応じた。
「……判らない」
「判らない?」
 眉をひそめる幼馴染に、ラルトは頷いた。口元に浮かぶのは、苦笑だった。
「実際、愛しているのかどうかと問われると、わからないんだ、ジン。レイヤーナは、愛していた。そういえる。だがそれと同じ感情をティアレに当てはめることはできないような気がする」
 レイヤーナは確かに愛していた。常にその存在が愛しかった。幸せにしたいと願っていた。
「じゃぁ、なんなんだよ。ラルトの、ティアレちゃんに対する感情って」
「大事なんだ」
 畏怖にも似た色を宿した亜麻の目が、ひたりとラルトを見据えた。
「多分、そういうこと、なんだろうと思う。愛しているのかは判らない。ただ強く惹かれていることは判る。彼女の安寧を願うと同時に、たとえどんな苦労を強いても、手放したくない。この女は傍にあるべきだ。そんな、気がする」
 彼女の存在が、どんな混乱を招いても。
 手放してはいけないような気がする。
 幼馴染は、呆れた眼差しで、しかしどこか納得した面持ちで、柔らかく笑った。
「それは、愛しているっていうことなんだよラルト」
「……そうか?」
 愛というものは、もっと複雑なもののような気がする。
 もっと、もっと、重くて。哀しい、まるで夏の夕立のような匂いがするものを、愛と呼ぶのではないだろうか。
 この、子供の独占欲に似た感情を、愛を呼ぶのだろうか。
 幼馴染が、肩をすくめる。
「訊き返さないでよ。困っちゃうよ俺」
 ジンはそういって、表情を崩した。いつもの、ひょうきんな笑みが彼の口元に浮かぶ。
「じゃぁさ、ラルト。俺と、ティーちゃんとだったら?」
 思いも寄らぬ問いに、今度目を見張るのはラルトの番だった。
「……お前そんなん比べ物にならんだろうが」
「でもさ」
 なおも言い募るジンに、ラルトは口元を引き結ぶ。そうは問われても、ジンに対するものとティアレに対するものとでは、感情の持ち方が全く違う。ジンは大事な存在だ。紛れもなく。
 失うことなど、考えたくもない。たった一人の肉親。たった一人の家族。たった一人の親友。たった一人の。
「そんなこと、決められるか」
 物心付く前から、空気を、時間を全て共有して、二人三脚で国を支えてきた幼馴染なのだから。
 魂を共有してきた双子といってもいい。
「……俺、風呂いくわ」
 そういってジンが踵を返す。尋問は終わったらしい。
「なぁジン」
 戸口へと進む幼馴染を、ラルトは引き止めた。ぴたりととまった背中は、沈黙でラルトの質問を待ち受ける。
「呪いを俺は恐れたくはないよ。恐れていたら、前へ進まない。全て凍てついたままだ。そう、思わないか?」
 空間を遮断する、扉の音が、彼の答えだった。


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