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第七章 愛を囁くかわりに 3


 この国の時は凍りついている。
 遠い遠い昔から。
 この国の時は凍りついている。
 血塗られた歴史を重ねながら。
 この国の時は凍りついている。
 在るべき二人が揃うその時まで。
 この国の時は凍りついていた。
 貴方はそれを知っていた?


「シノ様。陛下とティアレ様ってどうなっているのですか?」
「は?」
 奥の離宮での役職が認められている女官はシノを除き四人。その誰もが要職に就き、口が堅い。余計な詮索はしないことが暗黙の鉄則である。しかし頭をもたげる好奇心を押さえきれないらしい。
「さぁ」
 困った女官たちだ。そう思いつつシノは曖昧に応じた。
(私のほうが、訊きたいぐらいですのに)
 廊下から、部屋の様子を一瞥する。あくまで、一瞬。ティアレもラルトも気配には敏感で、部屋の前で女官が集まっていることを知れば不審がるに違いない。
 他の女官たちの背中を笑顔と腕力で強引に押して、暗に散会を命じ、シノはその場を後にした。
 不満の声を上げつつも、女官たちはしぶしぶと各々の持ち場へと散っていった。年越しが近い以上は、彼女らも仕事が山積みのはずだ。それを放置して出歯亀しにきていたのでは、女官失格。もっともそれを、茶器を運びながら実行に移していた自分が、非難できることではないが。
 台車をゆっくり押しながら、シノは先ほどみた光景を思い出した。
 時折使われる居間の揺り椅子に二人腰掛け向かい合っていた。雰囲気は友人が気軽に語らうときのそれだが、しかし時折、恋人同士とも取れなくない非常に近しい空気が二人の周囲を満たす。距離も以前よりも近しい。手を伸ばせば、触れられる距離。
 あの、シノが席を外している間に二人だけで語り合った夜に、何か変化が生まれたのは確かだった。まるでそこに相手がいることが当たり前のような、気安い雰囲気が生まれつつある。ジンとラルトの間柄のものとは違う。かといって、かつてラルトとレイヤーナが二人きりでいたころとも異なっている。
 己の半身に向かい合っているかのような、そんな空気だ。切り離され、遠くあった半身を取り戻した。あの二人にそのような表現を使うのは奇妙なことだと、シノ自身思うが、そういった表現がしっくりときた。相手がいることの安堵感。安らぎの場所。そういった空気がそこにあるのだ。
 忙しい仕事の合間を縫って、変わらず皇帝は離宮を訪れる。しかし毎日というわけではないのも以前と同じだった。訪れる時間はたいてい仕事が一段落するらしい夕刻に限られていて、しかも僅かな間だ。一刻あるかないか。その僅かな時間に、二人は近況を確認しあい、討論や議論を交わし、菓子を口にして茶を飲む。
 恋人同士になったという確固たる様子は見られない。だが、単なる友人と表現するには、漂う空気は甘やかで、流れる時間は穏やかだった。
 ティアレがこの国に来て、二ヶ月が経とうとしている。たった二ヶ月。だというのに、既に何年も彼女との付き合いを続けているような気がするから不思議だった。それほどまでにあっさりと、彼女は自分を含めた奥の離宮の女官の心を掴み、生活に入り込んだ。
 今は穏やかだが、問題は置き去りのままだ。
(このまま中途半端に留め置いておくわけにも、いかないでしょうに)
 ティアレを留め置く。それはおそらく、皇帝の胸中では確定していることなのだろう。しかし、事態はそう簡単ではない。正妃も妾すら持たぬ、古い国の皇帝。その隣の位に娘を献上して近い結びつきを謀ろうとする輩がいるのは、どの国でも同じことだった。しかも古い国であればあるほど、因習を重んじる。他国からの姫君の輿入れは頻繁にあれども、全く後ろ盾のない娼婦の女が正妃の位に突然居座るなど、あってはならぬことだった。
 ティアレはその辺りの姫君など足元に及ばぬほど、美しく、堅実で、賢明だ。そしてラルト自身、彼女の色香に惑わされたわけではない。それでも、周囲はそのようには見ないのだ。
 ティアレの身の振りを、早急に決めるべきときが来ているのは確かだ。無論、ラルトはそれを承知であろうが。
 このままでは、第二、第三のデュバート候がでるとも限らない。
 それはおそらく呪いではない。
 しかし呪いとして人々の心に刻まれる。
 重ねて、裏切りという言葉を刻まれてきたこの国では。
(傷跡を抉るような事態に陥らなければ、よいのですけれども)
 お節介だとは思っていても、思わず主人たちの未来を案じて溜息をつかざるを得ない今日この頃だった。


「春待ち祭りですか?」
「あぁ」
 本殿までの短い道のりを歩きながら会話する。休憩を終え執務室に戻る際に、最近ティアレは橋の傍まで見送りに来るようになっていた。ラルトが頼んだわけでもないし、ティアレが申し出たわけでもない。会話の時間が足りなくて、自然とそういうこと運びになったのだ。
「年末一番の行事で、国を挙げて行われる祭事だ。次の年の豊穣を願って行われる」
「豊饒」
 ティアレは目を瞬かせた。
「豊饒の祭りを、国で行うのですか?」
「おかしいか?」
「そういうものは、村の単位で行われるものだと思っておりましたので」
「なるほどな」
 ティアレはその出自をさかのぼれば農民だという。豊作を願う祭りはどの地域、どの国でもよくみられるものだが、国単位で盛大に祝うものは確かに少ないかもしれない。
「けどこの国は農業国家だからな」
「そうなのですか?」
「なんだ、知らなかったのか?」
 さも意外そうなティアレの反応に、ラルトは呻いた。
「水の帝国において、農業は国の基盤だ。国の中で最も盛んなものは稲作。そのほかにも、土が肥沃だから色々なものを作っている」
 高地では酪農も行っている。そもそも東の大陸は河の影響もあって肥沃な土地が多い。世界の食糧庫、などと呼ばれることすらある。
「不思議ですね」
 ティアレが足元に視線を落としながら感慨深げに呟く。長い睫毛が目元に影を作る。表情は、笑顔をかたどることはないが、それでも随分と柔らかくなった。
「国によって、本当に一つ一つ、風習が違うのですね」
「……そうだな」
 自分は、あまり国を出たことがない。せいぜいこの国周りだけだ。国によって文化が異なることを知識として知ってはいるが、自ら体感したことはほとんどない。
 いつか、見てみたい世界がある。
 それまでに、国はきちんと立ち直っているだろうか。
「時間が空いたら――」
 躊躇いながら、ラルトは口にした。
「一緒に街を回ろう」
 ティアレが、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「はい」
 互いに、約束とも呼べぬ約束だと知っている。共に回れるだけの時間を取れるとは、ラルトは到底思えない。ティアレは聡い婦人だ。物言わずとも、理解しているだろう。
「ティアレ」
 呼ばれたことに対してだろう、ティアレはラルトの傍らに並んで、首を傾げた。
「はい」
「俺な、もう一度、この国の成り立ちや呪いについて、調べなおそうと思っている」
 ティアレが一瞬息を呑んで立ち止まる。一歩前で立ち止まったラルトは、ティアレに向き直りながら腰に手を当てて苦笑した。
「問題が起こったときには初心に帰れというのが、万事に対する鉄則だ。きちんと呪いの始まり方について知っておくのも悪くないと思ったんだ。何せ俺たち皆呪いについて学ぶし、親世代の愚行を見ているから、全部知った気でいたんだが、そもそもなんで魔女に呪いを掛けられることになったんだろうな、と思って。一番古い文献なら、なんか書いてあるだろうとか思ったんだが……」
 そう思わせたのは共に城下視察に出たときの、ティアレの一言だった。魔女が処刑されたという祭壇の傍に建てられた王宮。墓守みたいだ、と思ったのを覚えている。
 どうも引っかかったのだ。もしかしたらその引っかかる部分に、呪いを解く糸口が見つけられるのではないかと思った。もっとも、見つけられたところで代価と支柱を壊すものが見つからなければどうしようもないのだが。
「……どうして、突然?」
「突然、何?」
「その様なことをお思いになられたのですか?」
 木枯らしになびく髪を片手で押さえつけながら、彼女が尋ねてくる。
 今更、と思ったのだろう。ラルトは一歩ティアレのほうに歩み寄ると、風上に立った。影が差したのか怪訝そうに首を傾げて彼女が見上げてくる。
「なんでだろうな」
 風で絡まった赤銅色の彼女の髪に触れる。縺れた部分を指で梳いてやりながら、ラルトは独白のように呟いた。
「……やはり、ラルト様も怖いのですか?」
「呪いが?」
 こくり、と彼女は頷く。ラルトは薄く笑った。ほぐし終わった髪を撫で付けてやりながら、空を仰ぐ。
「怖いよ」
 夕刻ということもあって、ほんのりと橙を空の端に覗かせた美しい冬の空。それは、どこか痛い記憶に通じている。
 この空の一端に、黒髪が流れて、銀世界に、赤い花が散って。
「怖いさ」
 あぁ。
 この胸の痛みに名前をつけるというのなら。
 恐怖というのだろう。
「裏切りは、失うことだからな。俺が相手を裏切るにしても、相手が、俺を裏切るにしても」
「ラルト様」
「そんな顔するなよ」
 ティアレは相変わらず無表情だが、それでも瞳に宿る僅かな揺れは感じ取れる。ぽんぽんと彼女の頭を軽く叩いて、一歩引いた。
「ここまででいい。風邪引く前に戻れよ」
 踵を返しかけたラルトの服の裾が、くんっと引かれる。危うく体勢を崩しそうになりながら何とか踏みとどまると、唇元を引き結んだ、上目遣いにラルトを睨め付けていた。要するに、子ども扱いするなということだろう。
 彼女は頬と鼻の頭を紅潮させて、じっとその澄んだ眼差しを投げてくる。
「ティー」
 たじろぎながら誤魔化すように笑う。自分はどうしてもこの目に弱い。彼女ははぁ、と溜息をつくと、手を服から離して一礼した。
「あまり根詰めないようにしてくださいませ。ラルト様、すぐにお仕事に没頭なされるのですから。きちんとお休みにならなければなりません」
「……判ってる」
「あと、本は私のほうで探しておきますので。古い文献は、あの書庫にあるのでしたね?」
 ラルトがティアレに閲覧を許した、あの書庫だ。ラルトは頷いた。
「見つけられるかどうかは判りませんが」
「頼むな。ありがとう」
 ティアレは小さく頷いた。はにかんだように、頬を染めたまま。
 なんだか、心が温かくなる。
 穏やかなやり取りだ。こんなやり取りが何時までも続けばいいと思う。
 酷く難しいことだと、知っていたけれども。
「じゃあ」
「はい」
 背を向ける。ティアレはただ頭を下げる。
 振り切るように前を向いて、ラルトは橋の欄干に手をかけた。


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