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第七章 愛を囁くかわりに 2


「落ち着いたか?」
 寝台に女を横たえさせて、ラルトはその傍らに腰を下ろしていた。ゆっくりと頭を撫で、指に髪を絡ませて、梳き下ろす。
 女は頷いた。
「悪かったな。しばらく顔を見せなくて」
 ティアレは首をゆっくり横に振った。
「あー……」
「あ?」
 何かを言いたげに声をあげるが、上手く言葉とならないらしい。彼女はもどかしげに喉に手をあて、数度咳払いした後、ゆっくりと、一つ一つ声を確かめながらラルトに問うてきた。
「後の、処理を、なさっていたのですよね?」
 ラルトは頷きながら、肩をすくめた。
「そればかりじゃないがな」
 手を引っ込め寝台に両手をついて、重心をずらす。座り心地を確認して、ラルトは再びティアレに向き直った。
 泣き止んだばかりのティアレは目の周りを真っ赤に腫らしていた。肌が白いために余計に目立つ。何に対して泣いていたのか、思い当たりすぎて見当がつかない。
 沈黙が支配し、蝋燭の芯の焦げる音が、時折空気を震わせていた。何を言うべきか、言葉が一つも浮かばない。正面を向いて吐息すると、指が手に絡んだ。
「……ティアレ?」
 まるで祈るように取られた手に、首を傾げる。手に取ったラルトの手の甲を額に当てながら、ティアレが呻いた。
「私のせいで」
 掠れた声で、紡がれる言葉はか細い。静寂に、かき消されてしまいそうなほど。
「私のせいで、あの方、お亡くなりになったのですね」
「デュバートのことか?」
「……ラルト様を、案じていただけでしょうに」
 手に絡んだ指は震えていた。身体は温かいのに手だけ血の気がない。
「ティアレ」
 ラルトは包み込むようにその手を握りこんで、女の赤銅色の髪を見下ろした。
「あんたのせいじゃない。どちらにしろ、多分あいつはいつかこの国を出て行っていたのかもしれない。最後の最後まで、他のやつらに遠慮していたようなやつだったからな」
「……お辛いでしょう?」
「まぁ、痛くないといえば嘘になるが」
 従来生真面目な男だった。黙々と任に従事する男であったし、忠誠を誓う男だった。
 この国を、第二の祖国となったこの国を、魔女の手から守るためだと彼は宣うた。
 それを疑うつもりはないが、それでも物事を急きすぎたのは、おそらく私怨からだ。
「それでも最終的にこんな形での俺との決別を望んだのは奴だ」
 そう、ラルトは割り切った。
 これ以上、呪いに引きずられないためにも。
「申し訳、ございません……」
 手から血の気が失せるほど、ラルトの手を強く握り締めて彼女は呻いた。その有様に、かえって困惑してしまう。
「なんであんたが謝るんだ」
 ラルトは問うた。
「あんたはデュバートに殺されかかったんだ」
 憤りこそすれ、何を謝る必要がある。
「あの方だけでは、ありません」
 女は静かに首を振った。
「他に、死んでしまわれた方や怪我を負われた方が、いらっしゃったのでしょう?」
 それは問いというよりも、確認だった。
 ラルトは思わず下唇をかみ締め、渋面になった。
 ティアレは、悔いているのだ。己の魔力の暴走を。
 そして悟っているのだろう。
 自らの魔力の暴走が、引き起こしただろう、物事の結果を。
「俺が殺した奴と、デュバート以外には……誰も」
 そう[うそぶ]きながらも、ラルトは思わず視線をそらした。
 ティアレは何も言わない。沈黙で以って、ラルトを糾弾してくる。
 ラルトは、嘆息しながら低く呻いた。
「あまり自分を責めるな」
 そうはいえども、ティアレは自分自身を責めるだろう。祈りのように、ティアレの汗ばんだ額に触れている己の手の甲に、ラルトは視線を落とした。
 身につまされて、何もいえなくなる。ティアレに責任を求めるつもりではないが、それでも彼女が原因の一端を担ったことは確かだからだ。
 デュバートとハルマ・トルマの残党が、余計な真似を仕出かさなければ何も起きなかった。
 そしてティアレがこの国に留まりさえしなければ、デュバートはその余計な真似すらしなかった。
 ティアレの起こした魔力の暴走が、街の一部を破壊したことも確かだ。
 つまりは、そういうことなのだ。
「メイゼンブルは……」
「ん?」
 ティアレの唇が、小さく震えた。あまりにも小さな声量だった。耳を寄せると、面を上げた彼女はゆっくりとラルトのほうに向き直って言葉を紡ぎ始めた。
「メイゼンブルは……本当に大きな国で。あのような大きな国は、初めてでした」
 魔の公国メイゼンブル。
 水の帝国ブルークリッカァと、歴史の長さは肩を並べるとまではいかずとも追随するものがあった。古い古い、世界屈指の、魔術の国。
「彼の国の王、メイゼンブル公のことはよく覚えています。呪いの研究に熱心だった」
「全部覚えているのか? 所有者のこと」
 ティアレは頭を振って否定し、口元に僅かな苦笑を刻んだ。
「覚えている数は、十本の指にも満たないでしょう……印象の、強い方だけ」
 裏を返せば、それ以上の数の君主が、女を玩具として弄んだ。
 一体幾人の男たちが、権力と金に飽かせてこの華奢な女を陵辱したのだろう。
「あれほどに大きく、美しく、高度な魔術を有する国が、私如きで滅びるのかどうか、私は半信半疑でした。……それでも、滅びてしまった」
 赤い花が年中咲き乱れる、美しい国だと。
 そう聞いた。
 母方がメイゼンブル出身のジンは、その伝手もあり一時期あの国に留学していたことがある。その時に聞かされた。この国にはない高度な魔術。それによって常春に保たれ、花咲き乱れる美しい魔の国。
 ジンが身振り手振り、国の様子をレイヤーナと自分相手に語った日のことを、ラルトは昨日のことのように思い出せる。
 三人揃っていたころの、哀しい思い出の、一端。
「ラルト様」
 何か、強い意志を秘めた呼びかけに、ラルトは物思いから引き戻された。
「そろそろ私は、この場所を離れるべきなのではないかと、そう思うのです」
「……ティアレ?」
 何を言い出すのかと、目を見張るラルトに、ティアレはとつとつと語り始めた。
「囁きが聞こえたのです。ラルト様」
「囁き?」
 意味がわからず首を傾げる。ティアレはふぃ、と視線を御簾の降りた窓に向けて、言葉を続けた。
「魔力が、特にあのような形で暴走する折に、『囁き』が聞こえるのです。……魔女の、囁きです」
 ふと、ティアレの双眸がラルトを射止める。薄い銀の膜が張った瞳は、今は紫に見えた。
 まるで、硝子球のような、虚ろな瞳だった。
「私ではないほかの誰か、『魔女』が、私の中に棲んでいるのです。いえ、私の身体を循環する、魔力の粒子一つ一つに。あれがあるから、私は呪われているのだと確信できる。それが、囁いて、止まらないのです」
「……何を囁いているんだ?」
「滅ぼせと」
 ラルトの問いに、ティアレは即答する。
「滅ぼすことが、私の役割なのだと。滅ぼせと。繰り返し繰り返し。……この間も、止めようとしたのです、ラルト様。止めようとした。けれど、どうしても膨張して、止まらなかった。自分の意思と反して、まるでその囁きに従うように、魔力が膨れ上がり、大地が抉られて……」
 虚ろなその瞳から、水滴がほろほろ零れ落ちてくる。渇き始めていた頬が、再び濡れる。いつもは殆ど動くことのない顔がくしゃくしゃになり、彼女は繋いでいない手で顔を覆った。
「貴方の大事な国を傷つけてしまった。大事な人を、殺してしまった……!!」
 今までない号泣ぶりに、ラルトの動きは凍りついた。
 何を言うべきか、何をしてやるべきか。言葉が喉元まで浮かんでは、泡のように消えていく。
 感情を、上手く表せずにいた娼婦が、寝台に突っ伏して号泣していた。
「よくしていただいているのに! こんなに優しくしていただいているのに!」
 布に爪を立て、涙をこぼしながら、掠れた声で女は叫ぶ。
「ラルト様。私はこれ以上何を滅ぼすのでしょう? 憎むべき人も、やさしかった人も、私に係わったもの全てを滅ぼすことが私の役割だというのでしょうか!?」
「ティアレ」
 ラルトはティアレの手首をとり、強引に面を上げさせた。だが女はか細い力で抵抗し、なおも寝台に顔を伏せようとする。
「こんな命、いらない」
「ティアレ」
「いらないのに……」
「……ティー」
「いらないのに。もう、聞きたくないのに。呪詛も嫉妬も恨みも! いらないと思うのに。それでもラルト様」
 面を上げた女の双眸には、どうすることも出来ない何かの葛藤が垣間見えた。
「生きていたいと思うのです……」
 願望だった。
 女が誰に強制されることなく口にした、初めての、ごくごく単純な願望だった。
 だからせめてと、女はいう。
 せめて、この場から離れるべきだと。
 ラルトは泣きじゃくる女を静かに抱いた。背中に腕を差し入れ、上半身を抱き起こす。
 ティアレが身体を寄せしがみ付いた。幼い子供が、親に縋るように。
「そんな義務を、自らに課す必要がどこにある?」
「私はいつかこの国を滅ぼすでしょう」
「この国は滅びない」
「ならば何故私がここにいるのです?!」
「知るか! まだ見ぬ未来に脅えるより、今何ができるか考えろ! この国は滅びない。俺が滅ぼさない! 絶対にだ!」
 魔女の呪いによって永劫に守られ。
 永劫に呪われた。
 最古の帝国。
 ラルトは声を荒げながら、女の身体を抱く腕に力を入れた。
「……デュバートは確かに、よく出来た家臣だった。将軍として優秀だったし、三年前に生き残った数少ない家臣で、信用もしていた。そいつが裏切った。だが呪いじゃない。これは必然なんだ。俺が、部下の耳に十分に耳を傾けることができなかった。それによって引き起こされた、必然だ。呪いじゃない」
「それでも私はこのようにしてここにあること自体、相応しくない!」
 ティアレはかつてないほど声を荒げて主張する。熱でいためた喉で、声を出すことすら辛い喉で、血を吐くようにして。自嘲が彼女の瞳の奥に潜んでいた。
「数え切れないほどの男と寝床を共にして、彼らの国を滅ぼしても、いい気味だと、せせら笑っていたような女です。私の存在は、あの将軍に限らず、この国に波紋をもたらすでしょう。これは予言ではありません、確固たる、現実です」
「相応しいか相応しくないかは俺が決める!」
「貴方はこの国を滅ぼすおつもりですか!」
「そうじゃない! 全てをそっちの方向で決め付けるなといっているんだ!」
 思わず荒げた声は部屋に反響し、ティアレを圧倒したらしかった。びくりと身体を震わせる女を見下ろし、後悔の念に駆られる。相手は病人だったのだ。その病人相手に怒声を投げつけるとは。
 熱のせいか、憔悴の色の濃いティアレを見下ろし、ラルトはため息混じりに呻いた。
「いいか?」
 触れたままの手が熱かった。その手を握りなおしながら、ラルトは声を絞り出す。
「人間綺麗な心ばかりじゃない。どこの誰とも知らない女を、この宮廷にいれるのなら、波紋は、たとえあんたでなくても投げかけられると決まっているんだ」
 ティアレは面を上げて、ラルトの一言一句にじっと耳を傾けていた。瞳に涙の膜が薄く張り、蝋燭の暗い明かりを反射していた。美しい瞳だ、と思う。娼婦の女は、何よりも瞳が美しい。
「流れていくことが宿命だと思うなら、それでいい。それが本当に本心なら――」
 流転の運命[さだめ]を女が自ら選び取るのならそれもいいだろう。
 高潔な魂ほど、拘束できるものではない。
「愚かなことを」
 女が嘲りに失笑した。
「いたいに、決まっているではありませんか」
 その顔が、泣き歪む。
「いたいに、決まっているではありませんか――……」
 自分の傍にと、女は言わなかった。
 だが、十分だった。
 それは幾度も流転する、安定のない生に疲れたものの答えだった。拒絶され、踏みにじられ、否定され、そうして安定のない未来に常に身を投じてきた女の答えだった。
 そして、ラルトはその回答を知っていた。だからこその問いだった。女自ら回答させることによって、束縛するための。
「ならばここにいればいい」
 ティアレもまた、ラルトの答えを知っていたのだろう。少しばかり、哀しそうに目を細め、女は下唇を噛み締めた。
「どうして貴方様のような賢帝までも、身を滅ぼすと知りながら、私が傍にあることを許すのでしょうか」
「さぁ」
 ラルトは肩をすくめながら、答えを濁した。
 実際、何故自分は、この女が手の内から離れることを、こんなにも惜しくおもっているのか判らなかった。
 しかし、確かなことが一つあった。
「あんたが来てから、何かが変わってるんだ」
 変化。
 レイヤーナが死んだあの冬から、凍り付いてしまった何かが、彼女がきてから動き出した。
「向かっているのは、きっと滅びじゃない。だから――」
 衝動だった。胸を焦がす、けれども正体のわからない、衝動。
 それが告げていた。
 この女は、傍らにいるべきだと。
 傲慢な衝動がそう告げていた。
 ラルトは言葉の続きを飲み込んだ。
 喉の奥で潰された言葉は、まるで祈りというよりも懇願のように、思えたからだった。


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