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第七章 愛を囁くかわりに 1


 男が立っていた。
 黒曜石色の髪を、風にゆだねた男。裸足の足で大地を踏みしめ、水を豊かに湛えた土地を丘から見下ろしている。
 鳥が丘を滑空し、それにあわせて風に千切れた草が空へと舞い上がる。波のように緑がうねって煌々しい。
 男が空を見上げた。ゆっくりと。白い雲たなびく空を、仰ぎ見た。
 ただそれだけの動作だ。
 だが、泣いているように思えた。
 誰だかはわからない。ただ、どこかで見たような気がしてならない。
 男がゆっくりと振り向く。
 葡萄酒色の双眸がこちらを捉え、薄い唇が何かを呟いていた。


 知らないと断言できる。
 けれども懐かしい記憶。
 男が呟いた言葉は。
 慟哭にも似た。
 愛しくて喉をかきむしりたくなるような。
 哀しい名前だと。


 目覚めると、目の前に亜麻色の双眸があった。
「うわ! びっくりした!」
 ぱちりと目があって、幼馴染が飛びのく。起き掛けに霞む目を擦っていると、幼馴染の呆れた声が耳に届いた。
「もー起きてるんならさぁ、驚かさないでよ」
「いや……寝てた? ……お前手水に行ったんじゃなかったのか?」
「帰ってきたんですよ」
 ジンはため息をつき、書物の狭間から座布団を引きずり出して腰を下ろした。ばふ、という音とともに舞い上がる、埃。
「洗濯しろよそれ」
「しつれーな。二日おきに洗濯してるのに埃だらけになっちゃうんだよ。年末だしそろそろ本気で掃除しようここ」
「年明けまで無理だな。仕事山積みだし」
 欠伸をかみ殺しながらラルトは周囲を見渡した。相変わらず書物が山を築いている執務室。重要な書類が散乱しているため、気安く女官を中に入れて掃除させることもできない。どこに何があるのか、ジンと自分なら頭に入っているのだが、文官をこの中に入れるとすると、もう少し整理整頓を心がけなければならない。
「でさー」
 薮入りの休みは返上か、と嘆息したラルトの耳にジンの声が届いた。
「デュバートの後釜、どうすんの?」
「……とりあえず保留だな。新しく官も選定しなきゃならないなぁ」
 転寝する寸前まで、目を通していた書類をぱらぱらと繰る。人事の書類は見るだけで頭が痛くなる。書類一枚で人生が決まってしまうのは不遇だとおもうが、それでもラルト自身が全ての人間に会うというのは物理的に不可能に近かった。
「ラルト」
「いうなよ」
 ジンが何を言いたいのか判っている。
「いうな」
 自分は今、古参の、忠誠を誓っていた部下を一人失ったのだ。
 デュバートの判断が早急だった。それだけだ。けれどもきっかけはラルトのわがままだった。
 貫いたわがまま一つ。
 ラルトの注意にも係わらず、ジンは止まらなかった。
「……表向きはハルマ・トルマ残党兵の仕業ってことにしたけども、あんな死に方してるし、あの階段の壊れ方で疑問を持つ奴だって、いる。絶対に」
「……ジン」
「あそこを中心にして、居住区のほうも少し被害が出てる。強風だかなんだか知らないけど屋根が引き剥がされた。飛んでった屋根は、海に浮かんでいるのを発見された。お前が殺した奴とデュバート以外、死傷者ほぼ皆無ってのが、救いだけどさ。だけどあんなの、物凄い力が加わんないと起こんないことだよ。木っ端微塵のあの階段だってそうじゃんね」
「ジン」
「ラルト、こんなこと言いたくはないよ。でもそろそろ本気で考える時期だ。デュバートの意見、ある意味俺は正しいと思う。お前、宙ぶらりんだろ。ちゃんと根回ししとくか、もしくは外へやるか。三年前みたいなこと、俺はごめ」
「判ってる!」
 思わず声を荒げ、ラルトは舌打ちした。息を吐くと同時に、肩が落ちる。唇から零れる、自分に対する言い訳のような、呟き。
「……判ってるんだ……」
 判っている。
 傾国姫。滅びの魔女。その字は伊達ではなく、確かに彼女の魔力は周囲を毒する。
 ややあって、とんとん、と書類をそろえる音がした。面をあげると、ジンが立ち上がるところだった。
「ティーちゃんの熱は下がったの?」
「さぁ」
 ラルトは知らない、と首を横に振った。
 魔力の暴走を引き起こし、デュバートを殺したティアレは、そのまま熱をだして倒れてしまった。疲労だろう。走ったことすら、人生に数えるほどという娼婦の女が、ずぶ濡れになってあれだけ町を駆けずり回ったのだ。
「様子を、見に行かなきゃな」
 知らず漏れた独り言は、ため息とともに煩雑な部屋に溶けて消えた。


「大分下がりましたけれども」
 そういってシノは溜息を落とした。彼女の手に握られている細い水銀の体温計は、まだかなり高い温度を示している。
「当分は安静にしていてくださいましね。何かお飲みになられたいものはございますか?」
 ティアレは首を横に振った。声帯を震わせようとしても、痛くて上手く発声できない。
 シノは枕元をてきぱきと整え直している。氷枕、水差し、手ぬぐい、入用のときのための呼び鈴等々。
 そのように世話を焼かれるというのはとてもくすぐったい。
「今日も玉子酒と粥をご用意いたしますし、薬はきちんとお飲みになってくださいね」
 ティアレは頷いた。これは、ここ三日間シノと顔を合わせるたび、言われていることだ。
「本当はお傍にいれたらと思うのですが、最近こちらの仕事が忙しくて。あまりお傍に侍ることができなくて申し訳ございません」
「そんなこと……気にする必要はありません」
 ティアレは言った。掠れた声はどうにかシノに届いたらしい。彼女は小さく微笑んで、ティアレのかけ布を引き上げた。
 シノには女官としての仕事があり、ティアレ一人にいつも構っていられないことは知っている。聞けば奥の離宮の女官たちは、皆かなりの部下を抱える上級の女官であるようだ。信頼を置ける女官と限定するのなら、彼女らの地位も相当のものだろう。考えればおのずとわかることだが、あまりにも自然と彼女らが傍にいてくれたので、今まで気付くことがなかったのだ。彼女ら自身の抱える仕事も、大変だろうに。
 ティアレは微笑もうとした。ぎこちなく動く頬が、きちんと微笑を象っているとは思えないけれど。
「では、お休みなさいませ」
「……おやすみなさい、シノ」
 再び搾り出した声は、やはり掠れていた。
 シノは微笑んだ。先ほどまでティアレが身につけていた夜着を腕に抱え、身体を拭うために用いた湯と手ぬぐいを台車に乗せて、退室していく。
 ぱさりと御簾が降り、部屋が静まり返ると、ティアレは再び泣きたい衝動に駆られた。


 気絶したティアレをシノに託し、密かに奥の離宮に運び入れさせて以来、ラルトはティアレに会っていなかった。たたみ掛けるようにして湧いた仕事がそれを許さなかったのだ。出席できなかった会議の埋め合わせに加えて、事件の事後処理がラルトを忙殺した。井戸の洗浄はもちろん、被害にあった民家および現場近辺の修復。もともと階段の門より水門の利用頻度のほうが高いために、こちらの修復は後回しでも構わなさそうであったが。
 シンバ・セトの情報についても、もう一度洗いなおさなければならなかった。大臣たちに伏せているとはいえども、彼が生きていることはハルマ・トルマの残党兵たちの発言により確定している。
 ようやく一時的に仕事から解放されたのは、三日目、もう夜も更けようかという頃合だった。
 奥の離宮にたどり着いたとき、二階建ての楼閣は僅かな明りを残して闇に没し、静まり返っていた。等間隔に並ぶ行灯に火が入れられていて、それ以外で明りが漏れている場所といえば、ティアレの部屋の隣部屋、女官の控え間ぐらいなものである。
「陛下?」
 足音を聞きつけたのか、シノが詰め所から顔を出す。ラルトは薄く笑って、片手を上げた。
「様子はどうだ?」
「大分下がりましたけれど、でもまだ高い熱ですわ。もともとそれほど体温の高くない方ですし。よくお休みになられております。陛下のお体は大丈夫でいらっしゃいますか?」
「あぁ。俺は、平気だ」
 そうは答えたものの、シノは納得しなかった。観察するようにこちらを上から下まで眺め、眉をひそめる。
「あまり無理なさらないでくださいませ。何かお持ちいたしましょうか? 今から厨房に湯を取りにいくところですの」
「いや……いい」
 ありがとう、と礼を述べると、女官長は微笑んだ。
「では、少々失礼いたします陛下」
「あぁ」
 彼女は優雅に一礼し、素早く踵を返して廊下の向こうに消えていく。要するに、気を遣ったのだろう。彼女はただ、足音に気付いて顔をだしただけのはずだ。
 苦笑してラルトは歩を進め、ティアレの部屋に足を踏み入れた。
 居間は長椅子と円卓を残して静まり返っている。月明かりによって照らされた床を、音を立てないように注意深く歩いて、寝室に忍び寄った。
 戸口に下ろされた御簾にそっと指を差し入れて、中を除き見る。御簾が下ろされ明り一つ燈っていない部屋の光源は、窓に吊るされた招力石のみだった。魔力の込められた宝玉は、暗闇で僅かに発光する。輪郭だけを確認することが出来る部屋の寝台で一人の女が目を閉じて仰臥していた。
 その寝息は安らかだ。思ったより容態は回復したらしい。ラルトは安堵に胸を撫で下ろして戸口に腕を組んで背を預けた。
 彼女の様子に安堵すると同時、疲労から来る倦怠感が身体を包んだ。離宮の一室を使って、仮眠を取ろう。そう決めて踵を返す。ここ三日、実はラルトはろくに横にすらなっていなかったことを思い出した。
「ラルト、さま?」
 掠れた声が部屋に響き、かた、という小さな物音がそれに続いた。振り返れば、寝台の天蓋の柱を支えにティアレが立っている。ラルトは申し訳なさに、苦笑いを浮かべた。
「悪い。起こした」
 慌てて踵を返す。別に、彼女を起こしてまで長居する気は毛頭なかったのだ。
「ゆっくり寝てろ。熱は下がりきってないんだろう?」
 じゃぁ、と別離の言葉を口に仕掛けたところで、服の裾が不意に引かれた。驚愕に飛び跳ねそうになりながらラルトは背後をかえりみる。すると、いつの間にか近づいていたティアレと真正面から視線がぶつかった。色移ろう双眸は今はしっとりと濡れて暗く、白目の部分が青白い。唇が何かを言いたげに震え、喉が小さく鳴っていた。先ほどの掠れた声を思い起こせば、上手く声が出ないのだろうということは推測できた。
 目元が僅かに腫れている。
 頬に、水跡。
「……泣いていたのか」
 女は黙って俯いた。
 その様子に、たまらなくなる。
 強い衝動が、ラルトを突き動かした。
 ラルトは服を掴んでいた細い手首を掴んで、引き寄せた。華奢な身体が腕の中にすっぽりと収まる。いつもなら冷えているはずの女の身体は、今は病のためにとても熱く、汗ばんでいた。
 背中をゆっくりと擦ってやった。細い腕が腰に回される。
 嗚咽が漏れてきたのは、ぞれからほどなくしてだった。


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