序章 呪詛
何を間違ったのかと思った。
「裏切り者」
女は兵士に捕らえられ、自分と彼女の狭間には冷たく格子が降りていた。周囲を取り囲むのは同じく兵士。槍と剣を用いて道を阻んでいる。冷たい格子を握り締めて女を見つめる。黙って、見つめることしか、できなかった。
女は美しかった。彼女の同属からは疎まれ続けたその容貌は、タダヒトの視点からみれば幽玄であり、それは神と精霊の美しさだった。
凛とした気高さを秘め、どうしようもないほどの弱さと何者にも真似できぬ不屈さが、その細くたおやかな身体に宿っていることを知っていた。その、何者よりも美しい、誰よりも愛する女が、憎悪とすらよべるような鋭い眼差しでもってこちらを見据えていた。
「みんな貴方の為に死んだのよ。あんたにみんな託したのよ。ベンもマギーもカナンもディアセトもジーエールーも、あんたを愛してあんたに託した!」
そう。
彼女の言う通り、皆自分に託した。思い描いた泡沫の夢。けれども、その夢どころか、夢に不可欠な彼らすら皆、誰一人守ることができなかった。
自嘲の笑みが浮かんだ。格子を握り締める拳が、視界の端で小刻みに震えていた。
「呪いをあげるわ」
女が言った。
魔力が、潤いを失った女の唇から言霊に乗せて吐き出される。どんな呪いを彼女は授けるというのだろう。
彼女が。
「呪いをあげるわヴェルハルト」
自分に与えるだろう最後の贈り物を。
「永遠の呪いよ」
呪いを。
「あんたの子供、孫その子供、あんたの血族に子々孫々と、この呪いは受け継がれる」
祝福の洗礼を受ける心積もりで。
「さぁ心して聞きなさい」
耳にする。
「あんたはこれから国を創るわ。私たちが望んだ夢の通りに。水に抱かれた帝国よ」
女の白い指が自分を指し示す。その、血に汚れ黒ずんだ指先を、今すぐにでも掻き抱いて泣きたかった。
「そしてその国は、永遠に存在し、そして永遠に血塗られる」
泡沫の夢。
国が欲しかった。小さな国が。愛するものを抱いて静かに眠れる国が。何の侮蔑もなく、春のような穏やかさで永遠にある国を、夢見、望んだ。
「あんたの一族はその皇として、永久に君臨し続ける。けれど一族は裏切りを繰り返し、また繰り返し裏切られる。時に親に、時に子に、時に兄弟に恋人に、時に友人に。煉獄に近い赫い連鎖。皇は国を呪い、民は皇を呪い、けれども国は朽ち果てることは許されず、永遠に存在し続ける。積み重ねられる歴史の狭間で、兄弟は互いを欺き、親子もまた憎み争い、后は不貞で以って夫を裏切る。永遠の、貴方の帝国よヴェルハルト。私からの、最後の贈り物」
戦乱の世の中で、一人死に二人死に。夢を語った仲間たちは次々に墓標に名を刻んだ。神に支配された世界はまるでお遊びの盤上のようで、そこでもがく人々は、自分も含めて哀れな繰り人形のようだった。女は、この世界で自分に残された最後だった。
何を選び間違えたのだろう。
辛うじて残された大切なものを、失わないための、選択であったのに。
結果自分は彼女を裏切り、彼女は自分に呪詛の言葉を紡いで贈る。自分たちに優しくなかった世界にただ一つ存在する人の国は、自分と彼女の間に冷たい鉄の格子を打ち込んだ。
「さようならヴェルハルト」
魔女と呼ばれた女は嗤う。白い頬を伝った澄んだ雫が、彼女の足のつめ先に零れて砕けた。
「さようならヴェルハルト。私が愛した唯一の人。さようなら、私を愛してくれた、裏切り者」
女の姿が兵士によって遮られて見えなくなる。女の声が遠のいた。
汗ばんだ手のひらで顔を覆う。涙は血で、血は涙だった。喉が渇き、頭が痛んだ。
今すぐ、眠りに落ちることができるのなら。
眠りに落ちて、全てが夢であったのなら。
自分は今すぐにでも、彼女を抱きしめ、愛していると叫ぶのに。
全ては紛れもない現実で、自分は今、かつて憎んだはずの人の国から勲章を受ける一人の英雄であった。格子を、血がにじむほどの力を込めて揺する。兵士が止めに入り、自分を、格子から引き剥がした。
泣いた。
号泣し、咆哮し、また慟哭した。神を呪い、世界を呪い、人を呪い、そして、己を呪った。
乾いた唇は、弱々しく、女の名前を紡ぎだした。
「……ルーシア……」
東、水の祝福と血の呪いに抱かれた土地有り。
英雄の土地と、古きものは呼び習わす。
国、有り。
水の帝国と呼ばれるその国。
銘を。
裏切りの帝国という――……。
裏切りの帝国