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第六章 造反 4


 がきっ
 鋼と鋼が擦れ、金属の軋む音が辺りを満たす。居住区画であるというのに人は一人も見当たらない。浮浪者すら、どこかに身を隠したようだ。雨戸も全てが隙間なく閉じられ、自分たち以外は動くものは何一つない。
 時が止まった空間に、放り出されてしまったような錯覚を覚える。
(あと一人)
 あと一人だ、とラルトは思いながら仕留められずにいた。殺さずに済ませようとするためだ。質問が二、三あって、どうしても最後の一人は殺すわけにはいかなかった。口が聞ける程度に、とどめておかなくてはならない。
 殺した人間の数は数えていた。急所を一撃で突いているのだ。幽霊でない限り自分の邪魔をしないはずだった。そして殺した人間の数は、目の前で大振りの長剣を振るってくる男を合わせれば、ちょうど同じ舟に乗り合わせていた人数と合致する。
 場所は、井戸の傍。一人は血だまりの中に沈み込み微動だにせず、もう一人は井戸の中だ。落としてしまったのは失敗だった。これで、明日からこの周辺の住人はあの井戸が使用できない。井戸の洗浄を手配しなければ、と思いかけ、ラルトは苦笑した。
 殺し合いを演じているのに、意識があちこちに飛ぶ。政治のことや、過去のこと、ジンとやらかした乱闘、そして、ティアレ。
 置いてくるのではなかった。彼女は、ちゃんと助けを呼べているだろうか。足、痛めていないだろうか。ただでさえ疲労しているというのにあれだけ走り回った。疲労骨折することもありうる。
 そんなことばかりが、脳裏を過ぎる。
 それよりもまず、目の前のことだ。
 柄を握る両手の感覚を詰めて、手首を返す。斜め下から、両腿だけを切り裂いて、みぞおちに蹴りを入れた。男の身体はそれなりの体躯だったが、吹っ飛びこそしなかったものの、身体の均衡を崩して背中から転倒する。同時に激しく咳き込んでもいた。横隔膜を狙ったつもりだった。上手く蹴りが入っているならば、どれだけ鍛えていても数十砂は呼吸ができない。
 男の両手を剣で貫く。咆哮が、響いた。
「がぁぁあああぁあぁっ!!」
 からん、と長剣が石畳に落下し渇いた音をたてた。ラルトは男の腹を足で踏みつけ、剣を首筋すれすれの場所に突き立てた。肩で呼吸を繰り返し、唾を飲んで、ラルトは嗤った。
「俺は男を組み敷く趣味はないが」
 ぎり、と足に力を入れる。剣を杖代わりに凭れ掛かって、はき捨てるように続ける。
「だけどあんたに訊きたいことがあった。……何故、ティーを狙った?」
「何故、だと?」
 まるで老人のようなしゃがれた声で、男は低く喉を震わせ、かかかと嗤った。不快であったが今この場で殺しても何もならない。ラルトは、待った。今すぐその首を縊り殺してやりたい衝動に駆られながら。
「わからん、わからん、のか? 愚かな。あれは――魔女だ。殺しておかな、ければ、国に、災いがもた、らされるぞ」
「ふざけてるのか?!」
「誰がこの期に、及んで、ふざけよう――。質問は、終わりかね? 裏切りの、皇」
「……俺が誰だかは知っていたんだな」
 男は微笑んだようだ。手を貫いた痛みからだろう呼吸が荒い。
「――それと、あんたらを手引きした人間は?」
 ラルトはちらりと男の腕に刻まれた紋章を見遣った。肌に直接掘り込まれた章は、見覚えがある。ハルマ・トルマのものだ。嫌な予感に顔をしかめると、それを見てか、男は一層笑みを皺深く顔に刻み込んだ。
「何が可笑しい?」
「我らが、誰だか、は、知りえた、のだろう? まぁ、あの阿呆さ、加減には閉口、していたが、けれど我らは、他にいくところが、なかった、のでね。死ぬまで、付き合ってみるの、も、一興かと、思った」
 彼の魔女殺しに参加できるというのならなおさらね、と低く男は呻く。ラルトは、何者かの手引きによって地下牢から姿を消した男のことを思い出した。
「シンバ・セト」
「あの魔女を、生かしたいのなら、戻ったほうが、いいのではないか?」
「……どういう意味だ?」
「お前もまた、呪われた、皇帝だろう……っ」
 ひゅ、と背後から振り上げられるものがあった。足だ。尋常ではない筋力で以って振り上げられた膝が、ラルトの背中をめがけてくる。男の身体がそりあがり、ラルトは足場を失って体勢を崩した。
「こっ……のっ!!」
 毒づきながら半歩下がって重心を移動させる。石畳に触れていた切っ先をそのまま反動で跳ね上げる。腹筋の要領で身体を起こしていた男が、腰を屈めて溜めを作り、長剣を拾い上に振りぬいた。ラルトも跳ね上げていた剣を、振り下ろす。
 一瞬だけ、ラルトの剣が男の剣をすり抜けるほうが、早かった。
 男の長剣はラルトの衣服と胸の表皮を薄く裂いていく一方で、ラルトの剣は完全に男の身体に食い込んでいた。確かな手ごたえ。骨と肉を断つ鈍い音と、手首に掛かる負荷に顔をしかめながら、ラルトは一気に振りぬいた。
 がぎっ………
 石畳に、剣の切っ先が当たる。男が背中から叩きつけられる音が、遅れて響く。
「……っは……はっ……は………」
 ラルトは肩というよりも身体全体で呼吸しながら、剣の柄に体重を預けた。苦しい。そんな一言では言い表せないほどの疲労感が身体を襲う。あれほど動いたのに出血のせいで身体は冷え、凍えそうだった。額から流れ落ちる汗が視界を汚す。骨髄から鈍痛が響いて、睡魔が誘惑をしてくる。泥のように眠れたら、そんな欲求が、湧いて消える。
(くそ)
 男の示唆したことはわかった。裏切りの国の、裏切りの皇帝。セトの逃亡には、共謀者がいる。つまるところ、裏切り者だ。
 いったい誰だ。
 誰が。
 いつの間にか視界が動き、ラルトは意志とは無関係に走り出していた。路地を入り、広場に抜け、水路伝いに堤防を駆けぬける。
 誰が裏切り者かはしらないが、とりあえずティアレを殺そうとしていることだけは確かだった。
 貴族区域を目前にして、ラルトは呻いた。
「ティアレ……!」


(落ちる……)
 剣が目前の宙を一閃した次の瞬間、ティアレの身体は落下していた。
 だだだだだんっ……
 耳元で物凄く派手な音が響き、それが自分の身体が階段を滑り落ちた音だということは、後から認識した。肺と心臓に、殴りつけられたかのような衝撃が走る。まるで空気の塊を呑んだかのように喉がつまり、呼吸困難を起こした。それに一瞬遅れてティアレの身体を支配したのは痛みだ。雷に打たれたかのような激痛が指の先端までくまなく走る。叫ぶことも出来ない。しゃくりあげたような悲鳴を上げて、ティアレは落下した踊り場に、力なく身体を横たえるしかできなかった。
 生きているのが不思議なほどだ。打ち所が悪ければ、確実に死んでいたに違いない。
「こんな」
 かつん、という靴音と共に、声が混じる。
「こんな女一人のために、我が国は滅んだのか。……情けなしは我らが王。悔しきは、己の非力」
「……あ、な、たは」
「だから、この国は滅びさせるわけには、いかないのだよ。傾国姫――滅びの、魔女」
 髪を勢いよく引き上げられた。そのために痛みが一瞬脳髄をかけたが、すぐに薄れる。全身をくまなく満たす激痛は、神経を次第に鈍化させていった。
「あ、う」
 呻き、薄く瞼を持ち上げながら、ティアレは頭の奥で“囁き”を聞いた。まるで歌のような囁きは、痛みに取って代わって全身を満たす。ティアレはきつく、下唇を噛んだ。
(だめ)
 駄目だ。駄目。こんなところで、呼び込んでは、駄目。
 ここで今魔力を呼び込めば、確実に何かが起きる。爆発か、それとも天災か。何にせよ、どれほど小さなものでもこの国に不安な要素をもたらしてしまう。
 ラルトに、迷惑がかかる。
 それだけは、在ってはならない。
 ティアレはゆっくりと振り上げられる銀色を見つめた。月に吸い込まれるように天へと伸びる一条の銀。暴走しかかる魔力をなんとか押さえつけて、瞼を閉じる。
 いっそ、この魔力を道連れに、死んでしまえたら。
 そうしたら。
『ティー……』
 あの別れ際に自分を呼んだ、甘い甘い声が脳裏に蘇る。
ティアレは再び瞼を上げて、歯を食いしばった。
(私は、死ねない)
 拳を握る。じんわりと滲み出て、瞳を、睫を、ぬらしていく熱。
 涙。
(死んだら、あの人怒る)
 今ここで死んだら、危険を顧みず走り出していった人に申し訳がない。あの人は、自分を生かすために走っていったのだ。彼の意思を放棄して、死を選択したりなどしたらそれこそ彼に対する侮辱だ。
 せめて同じ死でも、最後まで生きようとしていたのだというぐらい、目を見開いて、全てを見据えて。
 ぐわ、と吐き気がする。体内を循環する魔力に意識をゆすられる。
 やはり、とティアレは口を引き結んだ。生きたいとは思えない。今すぐここで死んでしまいたい。彼に迷惑をかけるぐらいなら、彼に滅びをもたらすぐらいなら。
 魔女としての運命をここで全うするのなら、死んだほうがきっとましなのに。
 なのに。
 もう一度あの甘い声で、名前を呼んでほしかった。呼ばれた名前をこの耳で聞きたかった。
 この想いの矛盾に、心が引き裂かれそうだ。
「がっ……」
 ふと頭上で、呻きが漏れた。
 からん……
 ティアレは目の前に落ちてきた二本の剣を驚愕の目でもって見つめた。二本。一本は今まさに自分めがけて振り下ろされんとしていた男の剣だ。そして、もう一本は。
「デュバート貴様……いったい何をしている!!!」
 ラルトの声が、聞こえた。


 投擲[とうてき]した剣は、見事にデュバートの手を切り裂き、そして彼の剣と絡まって地に落下した。からら、と落下の衝撃から小刻みに鳴動して、やがて剣は沈黙する。ラルトは、足を踏み鳴らすような形でデュバートと、床の上に身体を横たえ動かない女の下へと歩み寄った。
「陛下……」
 デュバートは渋面でラルトを迎えた。少し青ざめて見えるのは、恐らく月光のせいだけではない。
「陛下、何故です。何故この女を」
「俺が訊いているんだデュバート! 貴様一体、何をしている!!!」
 裏切り者に対する悲哀、衝撃、憎悪、それ以上に、憤怒が胸をさっと黒く染めた。腸が煮えくり返るような怒りを下腹に感じる。
 何だ。一体、何だというのだこれは――!
「答えろ!!」
 デュバートは、薄く微笑んだ。
「魔女に、死んでいただくのです陛下。わかりませんか。この魔女は、必ず、災いをもたらす。例えこの国が滅びぬ国であるとしても、大きな災いが貴方に降りかかる。お忘れになったわけではないでしょう。三年前の内部分裂を。あれと似たような悲劇を、引き起こすおつもりですか陛下」
「貴様に心配などしてほしくはない!」
 剣とティアレを挟んでデュバートと対峙する。身体のそこかしこの裂傷よりも、この怒りから齎される痛みのほうが激しい。頭痛が酷い。胸の奥に胃液の臭いを感じながら、ラルトはただ、激昂していた。
「らると、さま」
 ティアレが薄く瞼を開いて、ラルトを見上げてくる。生きていることに泣きたくなる。状況から察するに、恐らく階段から落ちたのだ。階段の隅に、ティアレの衣服の一部らしき布が引っかかって揺れていた。
 デュバートの目を怒りでもって見据え、ラルトは低く問うた。
「ティアレは無力な一人の女だ。それがどうしてこの国を滅ぼす」
「貴方はこの女の恐ろしさをご存じないのです陛下。この、傾国姫と呼ばれる滅びの魔女の」
「なら貴様は知っているとでもいうのか!」
「知っています」
 デュバートが即答する。ラルトは意外な答えに、一瞬声を詰まらせた。怪訝さに眉間を寄せて、問い返す。
「……何?」
 デュバートは微笑んだ。少し、哀しそうに。
「私は知っているのです陛下。私の祖国は魔力に制御された、常春の大国だった。この水の帝国に次ぐ歴史と、何よりも他国の追随を許さぬ魔力制御の技術によって、栄えた国。だがある日、その魔女が城に連れてこられた。我らが主人はそのころ丁度、呪いの研究に没頭していた。魔女の存在は、魔力についても、呪いについても、格好の研究材料だった……」
「貴様、たしか」
 デュバートは異人だ。ラルトが即位する寸前に、他国から漂流してきたところを、父王がデュバート親子を取り立てた。
 出身は。
「だが我らが王は愚かにも、女の身体に価値を見出してしまったのです。娼婦に溺れた我らが王。我ら親子は滅びる寸前に国を出奔した。今でも思い出します。魔力をかき回され、紫の雷光が天と地を結ぶかのように幾本も並びたつ。美しかった赤の国が、灰色に転じていく様を……」
ラルトは苦々しく、かみ合わせた歯の間から声を絞り出した。
「そうかお前」
 メイゼンブル。
 魔の公国メイゼンブル。<傾国姫>を所有して、滅びた国ではもっとも有名な、かつての西の大国。
 デュバートは、その生き残りだったと、ラルトは臍をかんだ。


(メイゼンブルの、生き残り)
 ティアレは耳を塞ぎたかった。今まで滅ぼした国の生き残りが、ティアレを追撃してきたことは幾度もある。だが、何もこんなところで会うなんて。
 恐らく彼は最初、ティアレが傾国姫であることに気が付いていなかったのだ。シンバ・セトはティアレのことを<魔女のかけら>で突き通した。そうでなければ彼がラルトの下に、自分を連れて行くはずがない。その場で、殺していたはずだ。セトがティアレのことを傾国姫として明らかにしたとき、彼の青ざめようを今更ながら思い出す。
『滅びの魔女に、……でしょう』
「だからこそ、今度こそ私は国を失うわけにはいかないのです。陛下」
「……ハルマ・トルマの残党を引っ張り出したのも、シンバ・セトを逃がしたのもお前かデュバート」
「……えぇ」
(あぁ、私は)
 ラルトとデュバートの会話を聞きながら、ティアレは泣いた。泣くべきではないとは思いながらも涙が止まらなかった。自分の存在が、デュバートの謀反を招いたのだろうか。デュバートも彼を想っているというのに。ハルマ・トルマや謁見の間で垣間見た忠誠心は、嘘のものではないのに。
 今も、デュバートはただ、ラルトの身を案じているだけ。
 だけれど結果としてこれは。
「裏切り者は、お前か……」
 ラルトの、弱弱しい呟きが聞こえた。少し涙ぐんでいた。そう、裏切り者。裏切りだ。幾らラルトを思っていても、これは明確な裏切りだった。
「なんとでもおっしゃってくださればいい。ですが、貴方も悪い。陛下、あなたが嘘を仰ったから……」
「仕方ないだろうが。騒ぎを必要最小限で食い止めなければならないんだよ。彼女の存在は表舞台に引きずり出すには準備が足りなさすぎる……」
「貴方がこの女を庇わなければ」
「彼女は傾国姫ではない。滅びの魔女でもない。ただ人々の妬み嫉みに晒され、重たい運命を背負わされた一人の人間だ」
「それはただの詭弁です陛下」
「詭弁でいい。だが彼女の呪いなど恐るるにたりんさデュバート候。俺をなんだと思っている。神話の時代から呪われ続けた帝国の、皇帝だぞ。この裏切りの帝国の、裏切りの皇帝、裏切りの皇だ!!」
 ラルトの声が木霊する。デュバートが、苦さを含んだ声音で静かに言い放つ。
「ならば私を殺せばよろしいでしょう」
「そうだな。それもいい……だがお前には聞きたいことがまだあるんだデュバート」
「私には、もう答えるべきことは何もございません陛下」
 再び、髪を引き上げられる。もう痛みも感じない。どこから何処までが痛みなのか知れない。ラルトが、自分の名前を呼んでいた。霞む視界の向こうで、男が怒髪天の勢いで、けれども青く燃え盛る炎のような静かさで怒っている。
 これだけ、彼を苦しめて。
 更に苦しめる、自分の存在が疎ましい。
『ほろぼしなさい』
 誰かが、囁いている。いつものあの囁きだ。歌うような声音で誰かが優しく囁いている。
 身体を循環する魔力が、再び膨張する。どくん、と心臓が打ち鳴った。
『お前は魔女なのだから』
 甘い、誘惑が体の内部を侵食していく。潮が浜に寄せる、速さで。
『滅ぼしなさい。全てを預けて、貴方は役割を果たせばいい』
 お前は。
『お休み私の可愛いティアレ』
(る、しあ)
 始まりの魔女。
 駄目だ、と再び意識を覚醒させるが遅かった。身体の奥から何かが引きずり出されるような感覚がある。耳鳴りは一気にその音程の高さを増し、ぐわん、と見つめている世界の色彩が変わった。月明かりに照らされた夜から、一気に昼のものへと、変化する。
 流動している銀の流れが飛び込んでくる。それはティアレから引きずり出された何かを受けて、容易く掻き乱された。砂嵐のような渦が、一人の人体に集中する。
「だ、め」
 ひゅごっつ……
 突風が吹き、膨れ上がった魔力の塊が大地を抉った。ばたばたばたと、何かが月に吸い込まれるように飛んでいく。崩れた階段の一部が轟音を上げて傍に叩きつけられた。細かい破片が、ぱちぱちと頬に当たる。
 ティアレは再び地面にたたき付けられた。顔面を強かに打って、頭がくらくらする。ただでさえ疲労していた身体は、魔力の暴走によって致命傷を与えられた。指一本、動かすことができない。
 風が木々を揺らし、水路の水は波打って、その様相は嵐の海だった。遠雷が、聞こえる。否、何かが崩れる音だ。魔力の嵐はティアレを中心にあるべき均衡に干渉して、醜悪な爪痕を残していった。
 ようやく静まり返った頃、ふと、ぽたぽたと頭上から降ってくる水滴があった。雨か、と思いながら眼球だけを動かす。だが頬や指に絡みついた水滴は生暖かく、そして、月の明りを受けてなお赤黒い。
 血。
 男が、崩れ落ちてくる。
 身体にのしかかってくる、完全に事切れた男の体重と、絡みつく血の生暖かさに、ティアレは声にならない悲鳴を上げていた。


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