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第六章 造反 2


 最初に見て回ったのは、居住区だった。
 居住区は黒と丹を基調とした平屋の建物で構成されている。住居のどれもが高床式で、これは夏場風通しをよくするためだった。奥の離宮のような、「楼閣」と呼ばれる二階建ての建造物が居住区で見られることは極稀だ。それらは港周辺の、高度の低い場所に密集し、それ以外では滅多に見られない。
 どの軒の下にも、飾り紐と鈴が吊るされている。奥の離宮にもあるように、一種の魔よけだった。
 そういったこまごまとした説明を、ティアレは熱心に耳を傾けて聴いていた。
 街を港のほうに向かって下っていく。時折階段を下りて、下の区画に降りる。山の裾野に広がるようにして建造された都は、段々畑のようだった。水路の水が冬の晴れた青空を写し取って静かにゆたっている。時々水守たちによって導きいれられる小舟が綺麗な轍を描いて水面を揺らした。
 子供たちがラルトとティアレの横を走ってすり抜けていく。井戸端で女たちが世間話に精を出している。その様子をみて、ラルトは安堵した。久方ぶりにみる街の様子に、荒廃の兆しが見られなかったからだった。
 小舟に乗り換って、居住区から商業区へ。今度はティアレも平気なようだった。小舟の縁から少し身を乗り出して、物珍しそうに街を見ている。時折手を伸ばして水に差し入れている。飛沫が上がる。冷たいだろうに、と思いながらも、乏しい彼女の表情の中に喜色を見つければ、何も言うことはなかった。
「ラルト様、あれは何なのですか?」
「あれ?」
「あの、山手のほうの」
 肩甲骨の辺りを縁に預けて横になっていたラルトは、身体を起こしてティアレの傍らに並んだ。彼女が指差す方向を、目を細めて見遣る。
「あぁ、祭壇のことか?」
「祭壇?」
「あの宮城の上のほうに見える、赫い奴だろう?」
 宮城のやや斜め上に、遠目でも鮮やかに際立つ赫い点。
 ティアレは頷いた。
「魔女の処刑場だ」
「え」
 ラルトの回答に、ティアレは顔を強張らせた。そのあまりの露骨さに一瞬顔をしかめかけ、ラルトはこの女が傾国姫という源氏名のほかに、滅びの魔女という二つ名を持っていることを思い出した。
「ティアレのことじゃない。この国に呪いをかけた魔女のことだ」
「裏切りの呪い、を?」
「そうだ。誰がかけたか、言わなかったか?」
 呪いのことについては滔々と語った記憶があるが、魔女については言わなかっただろうか。彼女が覚えていないだけかもしれないが。
 首を傾げるティアレを見つめ、まあいい、とラルトは言葉を続けた。
「魔女は処刑される折に、この国の建国者、ヴェルハルト・パダム・リクルイト、彼と彼の血族、そして彼の治める国に呪いをかけたそうだ。魔女に呪いをかけられた詳しい経緯はわからない。何せ神話時代の話だしな。その神話時代、魔女が処刑された跡に建てられた祭壇があれだ。無論、この国で最古の建物だ。実際はどういったものなのかは誰も知らない。大抵盛大な催し物の際はあの祭壇を用いることになっている」
 距離があるため、ここから見ると文字通り点にしか見えないが、実際は大人数を治めることの出来る円形の祭壇だ。朱塗りの鳥居と石畳。濃い緑に納められたその場所は、神々しく威厳漂う。
「ラルト様。つかぬことを伺いますが、宮城も昔からあの場所に?」
「場所は動いていないはずだが、どうした?」
 祭壇は、文句なしに古い。砕け風化しないことが不思議なほどに。それはひとえに施されている特殊な魔術のおかげだった。この国建国当時施された魔術は、大地に刻まれていて、それごと場所を移動させるのはどれほど魔術に精通していても不可能といってよかった。
「奇妙な話だと思いまして」
 ティアレが祭壇の方向を見据えるように目を細めて呟いた。
「この国の最初の皇帝は、自らに呪いをかけた魔女の傍らに自分の寝所を設けたのですか?」
「……そういわれれば、そうだな」
 考えてみたこともなかったが、確かにそうだった。祭壇と宮城は、小さな林を挟んでいるとはいえども隣接し、その位置は非常に近い。本殿の構造は約五百年前に様変わりしてはいるものの、位置はほとんど移動していないはずで。何故わざわざ自分に呪いをかけた女の墓の傍に、寝所、つまり宮廷を設けたのかと、ラルトは今更ながらに疑問を覚えた。
 墓の傍に家を建てる者がいるとすればそれは、墓守だけだ。
「ラルト様はどのようにして『呪い』をお知りになったのですか?」
「伝承だ」
 ラルトは即答し、ティアレに向き直った。
「俺たちに呪いの存在を決定的に知らしめたのは代々呪いに苦しむ一族と、もっと端的に言えば父上の姿なわけだが。その前に、俺たちは幼少の頃に神話の一説を暗誦させられる。呪いの一説。死ぬ間際、魔女が残した呪いの言葉」
 一族は裏切りを繰り返し、また繰り返し裏切られる。時に親に、時に子に、時に兄弟に、時に恋人に、時に友人に。煉獄に近い赫い連鎖。王は国を呪い、民は国を呪い、けれど国は朽ち果てることも許されず、永遠に存在し続ける。長い長い歴史の中で、兄弟は互いを裏切り憎みあい、親子もまたそれに同じくする。后は王を裏切り、不貞に走る。
 
 永遠の、帝国

「その後、自分でも古典を紐解いて調べた」
「そんなに古い魔女なのですか?」
 ティアレが驚きの声をあげるのも無理はない。
 魔女は歴史の狭間に時折姿を現す。だが明確に世界に在った[・・・]と確認されている存在は、数少ない。たとえば、[あか]の魔女シンシア・レノン。魔の公国メイゼンブル、通称聖女の公国の建国者。
 だが彼の存在ですら神話の時代から数千の時を経ているという。
 それ以前の魔女の呪い。
 裏切りの呪い。
「もとは神の眷属であったという話だ。……<魔女のかけら>。あれな、この魔女の魔力と魂の結晶だといわれている。だから名前を、<魔女のかけら>、と」
 だからこそ父王は、余計にあの魔道具に執着したのだ。大本を同じとするのなら、呪いも解けるのではないか、と。
「……どうした?」
 ラルトは思わず眉をしかめてその細い肩を支えた。ティアレが、今にも船の縁から滑り落ちてしまいそうなほど蒼白になっている。その背中をさすって、静かに問うた。
「また船酔い?」
「……は……申し訳」
「いいしゃべるな」
 商業区にはもう入っている。突堤はすぐだ。ラルトは体勢を変えて、女を胸に抱いた。ゆっくりと背中をさすってやりながら、船が船着場に入るのをじっと待った。


「平気です」
 どこかで休むか、と問うてくるラルトに、ティアレは静かに首を横に振った。
「無理する必要ないぞ」
「無理ではありません。大丈夫です。ご迷惑おかけして、申し訳ございません」
 場所は商店街の入り口だ。自分たちと同じように水路から商業区に入ってきた人々が集い、賑わっている。
 入り口で通行の邪魔をしているわけにもいかない。困惑顔のラルトが頭を掻いて、ティアレの手を引き、露商の並ぶ通りに入った。歩調は緩やかだが、やはり足元はもたついていた。思うように動かない足に臍をかみ、ティアレは胸中で呻いた。
(……あの、祭壇)
 遠目からみても判る赤い祭壇。見つめ、ラルトの話を聞いているうちに粟立つものを感じた。おそらくあそこで処刑された魔女というのは、自分たちと同じ魔女[・・・・・・・・・]だ。随分と古い魔女だろう。神話の時代というラルトの言葉を信じるならば、始まりの魔女[ルーシア]の時代と近い。
「……れ……ティアレ」
「え?」
 ラルトからの呼びかけの声に、ティアレは慌てて面を上げた。いつの間にか立ち止まったラルトが、呆れの眼差しを寄越している。先ほどから幾度も声をかけていてくれたのだろう。
「申し訳ございません」
「いや、いいんだが……何か気になることでも?」
 眉間を指差しながらラルトが尋ねてくる。眉間に、皺を寄せていたということだろう。からかい混じりの彼の仕草にティアレは首を横に振った。
「人が、多い、と」
 ラルトは周囲を一瞥し、そうだな、と頷いた。
「多いな」
 再び、ラルトの手を借りて歩き出す。
 冬だというのに人通りは多い。皆寒そうに身を縮めて鼻の頭を赤くしてはいるが表情はそれほど暗いというわけでもなかった。
 ふと見上げた皇帝の面差しには、喜色のようなものが浮かんでいた。
「何か嬉しいことでも?」
「そりゃぁな」
 怪訝におもって首を傾げたティアレに、ラルトが肩をすくめる。
「この国がどういう状況だったか、シノから聞いたんだっけ?」
「とても荒れていた、ということですか」
 誰もが食べるものに困り、誰もが生きることを憂う。生まれてきたことを嘆く。そのような時代だったと。
 ただ、今ティアレが見るこの国の状況は、言われたほど悲惨ではなかった。繁栄している、とまではいわぬものの、それなりに活気付いているように思える。もっとも、ティアレ自身、生まれ育った寒村を除けば娼館と、軟禁される部屋が世界の全てだったのだから、真に繁栄を享受している場所というものがどのようなものなのか皆目見当もつかないが。
「あのころ」
 ラルトが言った。
「こういった人が集まるべき場所ですら、閑散としていたからな。浮浪者が茣蓙を引いて路肩に寝そべっていた。腹が奇異に膨らんだ子供が泣いていた。放置された死体のせいか、腐臭すら漂っていた。それがこのように息を吹き返した。そりゃぁ嬉しくもなるさ」
 そういって笑う皇帝の眼差しは遠い。
 おそらく、過去を眺めているのだろう。
 国が荒廃していくことは、杯の中の水を零すことに似て、荒廃した国を立て直すことは零した水を杯の中に戻すことに通ずる。荒れた国は決して元に戻ることはなく、腐敗しきった国を再生させることは容易ではない。
 この通りを行き交う人々の姿を見る限り、確かに報われたものもあるのだろう。
 ラルトに手を引かれ、ティアレは露商を順々に見て回った。彼曰く、物品の値段と質を見るためであり、ここに市民の生活水準が現れるのだという。ラルトの零す安堵の吐息を見れば、結果は悪いものではなかったらしかった。
「うん……野菜が高いな。小麦はそうでもないか」
 彼は立ち止まっては値札を見遣り、口の中でぼそぼそと言葉を漏らした。藁で編まれた籠の中に並べられる野菜と、麻袋の中に詰められた米と麦。
「去年と変わらず……おいこっちの米だけやけに高くないか?」
 藁で籠を編んでいた露商の男は、面を上げて微笑んだ。
「それはカジャ地方のもんだからだよ。毎年のことだ。わかりますでしょう? まぁデルマ併合されたらしいから、来年からはマシになるかもしれませんがね」
「あぁそうか。じゃぁこっちの野菜が高いのも」
「そっちはドーティオーテ産。品質わるかないが数少ないし」
「数が少ない? 今年ドーティオーテ豊作じゃなかったか?」
「知りませんよんなこと。あぁでもランマ・ヤンマはよかったらしいですよ。果物屋覗いてみたらどうです? 蜜柑豊作らしくて、甘味が強くていいのができたって、知り合いの卸売りが言っていましたけどね」
 露商の男と聞き慣れない名前について会話を繰り広げるラルトの裾を、ティアレは強く引いた。会話を中断されたラルトは怪訝そうに、ティアレを見下ろしてくる。
「どうした?」
「あの、土地の名前、ですか?」
「あぁ」
 ティアレの質問に、ラルトは大きく頷いた。彼はそのまま身振りを加えて、彼の先ほどの会話に出てきた単語について解説を始める。
「カジャはデルマの隣なんだ。傭兵が流れて田畑を荒らすから、毎年そんなに出来がよくない。ドーティオーテは最東の地区。ランマ・ヤンマは湾を挟んでカジャと向かい合っている……東の突端に位置する地区だ。カジャは判るよな? デルマ地方の隣」
 デルマ地方は、ハルマ・トルマの存在する場所。帝国領内では、北東の突端に位置する。
「土の関係からランマ・ヤンマは果樹園が多くてな。国産の果物は殆どランマ・ヤンマ産だ」
 露商に礼をつげて、ラルトは再び足を踏み出す。慌ててその背中について歩きながら、ティアレは気になっていた単語について尋ねた。
「蜜柑ってなんですか?」
「果物の一種。食べたことないか? こう、橙色の丸い奴で、すっぱいんだけど」
「……?」
「言うよりも見るが易し、か。ちょっと待ってろ」
 ラルトは露天の一つに駆け寄ると、店番をしているらしい子供と一言二言会話を交わした。籠に盛られている橙色の球体を二つ手にとり、子供の手に何かを落とす。おそらく、貨幣だろう。立ち去ろうとしたラルトを子供は呼び止め、白い湯飲みを手渡した。ラルトは一言二言子供と会話し、湯飲みをもう一つ受け取る。
 ほどなくしてラルトは子供に手を振り、こちらに戻ってきた。
「いいもの手に入れたぞ」
「いいもの?」
「花梨湯だ」
 そういってラルトは片手にもった湯飲み二つを軽く掲げた。聞き慣れない単語に首を傾げていると、彼は苦笑を浮かべて橙色の球体を湯のみを持つ腕に抱え、空いた手でティアレの手を引いた。
「とりあえず休めるところに行こう。そしたら教えてやるよ」


 湯を満たしたばかりの湯飲みの中身を眺めたまま、ティアレは動こうとしなかった。
 それを認めて、ラルトは首を傾げた。ラルトの手元にある紙製の湯のみは既に殻になっている。
「猫舌なのか?」
「はい? 猫舌?」
「……熱いもの苦手なのか?」
「あぁ……いえ」
 ラルトの問いに首を横に振ったティアレは、再び湯のみに視線を落とし、恐々とそれを口元に近づけた。
「甘いですね」
「嫌いか?」
「いえ……美味しいです」
 再び湯飲みに口をつけるティアレの表情を見る限り、言葉に嘘はないようだった。顔の表情はいつも通りほとんど動いてはいない。が、口元が少しばかり緩んでいるように見えた。
「こちらはどうやって食べるのですか?」
 湯のみの中を半分ほど空にして、ティアレが蜜柑を手に取る。彼女は手のひらに乗った橙色の物体をしげしげと眺め、くるりと回し観察を繰り返していた。ラルトは彼女の手から蜜柑を取り上げて、皮を剥いてやった。皮に爪を立てれば、甘酸っぱい芳香が周囲に広がる。
「このまま食べるんだ。薄皮が舌の上に残るなら、吐き出してもいい」
 表皮を剥き終わった蜜柑を手のひらに乗せてやる。彼女は手のひらの上に乗った蜜柑の果肉を見つめながら、ぎこちなく礼を言った。
「……ありがとう、ございます」
 ティアレの傍らに腰を下ろす。どの広場もそうであるが、この広場もまた港が見下ろせるように作られている。日は中天を超え、やや少し傾き始めていた。
 影が長いすの後ろに並んで伸びる。
「おぃ」
「はい」
 手の上でくるくると蜜柑を回した挙句に、そのままかじりつこうとするティアレを、ラルトは横目で見ながら呼び止めた。小さな口を開きかけたままの姿で、女が首を傾げる。ラルトは嘆息しながら女の手から蜜柑を取り上げて房ごとに分けてやった。
「綺麗に分かれるのですねぇ……」
「……本当に食べたことないんだな」
 感心するようにおっとりと呟くティアレに、ラルトは肩を軽く落としながら応じた。房に分けられた蜜柑を手に落としてやる。ティアレは今度こそ、房をつまんでそれを口元に運び始めた。
 ラルトはもそもそと蜜柑を口にする女の横顔を見下ろした。改めて認識する、その美しい造作。
 小さな白い顔に、品よく目と、鼻と、唇とが並ぶ。
 彫像のようだとはよくいったものだが、まさしくその通りだった。煙る長い睫が時々ぱちぱち瞬いている。その下で輝く瞳。今は光の加減か少し碧い。
「ラルト様」
「ん?」
 ティアレの呼びかけに軽く頷いて応じる。彼女は一つ目を綺麗に平らげ、二つ目の蜜柑に挑んでいた。
「よく、城下に降りていらっしゃるのですか?」
「昔はな」
 ティアレの問いに即答して、ラルトは笑った。
「よく来たものだが」
 古い記憶をひっくり返す。耳に残る笑い声がある。遠い遠い、かすれかけた記憶。
「もっともっと幼かった頃の話だ。それでも殆ど貴族連中が[たむろ]している、比較的治安のいい場所に限られていたかな。もっと城に近いほうだよ。こんなに下のほうまで、遊びにくることはそう多くはなかったな。……禁じられていたしな」
 自分たちの後見人であった前宰相――ジンの祖父は、ラルトたちが国のありのままの姿を見ることには決して異論は唱えなかった。むしろ喜びさえした。だが、必要以上に一般市民の居住区に足を踏み入れることを禁じていた。どれほど粗末で汚れた服を着ていても、自分たちの存在は浮いてしまうからだった。
「それでもジンと二人でどうやって衛兵を誤魔化してこの辺りまでくるか考えた。ヤーナがいつも止めるんだけど、結局は彼女も付いてくるんだ。最終的に一番楽しんで帰るのは、ヤーナだった。ジンがたいていへとへとになってて」
「ヤーナ?」
 怪訝な女の問いかけに、ラルトははっと我に返った。ヤーナという呼称が誰を指し示すのか、ティアレが知るはずもないのだ。
「……レイヤーナのことだ」
 以前話をはぐらかしたこともあって、多少の気まずさから沈黙が落ちる。
「楽しそうですね」
「そうか?」
「えぇ」
(……笑った?)
 女の緩んだ目元を見て、ラルトは思った。だがティアレは顔を海のほうへと向けてしまう。 横顔は先ほどと寸分も違わず同じものであり、そこに、微笑の名残は欠片もない。
 彼女は、殆ど空になった湯のみと蜜柑の皮を両手で包み込むようにして持って、瞼を伏せた。
「私には、そのような記憶が全くありませんから」
 寂しさの滲む、独白だった。
「私が生まれたのは化石の森近くの農村で、子供は大抵年下の子供の守をするのが常でした。私に与えられたのは畑の手伝いで、植えるための種を探しに、何日も森の中を歩いたのを覚えています」
「一人で?」
 ラルトの問いに、ティアレは静かに頷いた。
「魔女であると、誰もが知っていましたから、話しかけてくる人といえば里親だけでした。話しかけてくる内容も、決まりきったことばかりでしたが」
 渋面になりかけたラルトに向き直ったティアレは、それでも、と穏やかに付け加える。
「穏やかな日々でした」
 懐かしむような響に安堵しかけたのもつかの間、ティアレはもう一つ過去を告白した。
「魔女狩りで、村自体はもうありませんけれど」
 魔女狩り。
 ラルトは口を噤んだ。女の痩せた細い肩を見下ろしながら、ふと思う。その肩が背負ってきた運命とは、どのようなものであったのだろう。
 呪われた、人生。
「そんな顔、なさる必要はありません」
 面を上げたティアレが呟く。被る薄布が風に揺れて、ゆるく波打つ赤銅色の髪が零れ落ちていた。
「私に貴方様の背負う呪の重さがわからぬように、貴方様も私の定めがわからぬのは、当然のことなのでしょう」
「……そうだな」
 零れた髪は風に揺れて、絹糸のようなしなやかな輝きを空に落とす。
 何気なくラルトは薄布の中に、手を差し入れた。零れた髪を薄布の中に入れてやるためだった。女の髪の色は黒髪の住人が主のこの国において目立ちすぎる。髪を布の奥に入れ込んだ際、冷えた頬に触れた。ティアレが、くすぐったそうに身をよじる。
「判らないな」
 想像がつかないのだ。
 たった一人で、森を歩くこと。たった一人で、呪いを背負って歩くことの重さ。
 確かにこの国には呪いが巣食っている。
 それでもまだ、自分には背を叩いてくれた人たちがいた。
 優しい記憶。
 今となっては、心を掻き毟る、哀しい、記憶。
「この国に来て、思ったのです」
 ふと、ことんと預けられた女の肩の重みに、少しばかり驚きを覚えつつ、ラルトは問うた。
「……何を?」
「私は、私が背負うものは、私だけでよかったと」
 女の乏しい表情から、その胸中を窺い知ることは難しい。だが街並みに向けられる眼差しは、どこか憐憫にも似た光を宿していた。
「呪われ、全てに滅びを与え、自らを憎み、それでも私が負うものは、私の運命[さだめ]一つでした。今日、お供させていただいて、ふと思ったのです」
ティアレは目を細めた。見つめる街並み全てが、眩しいものであるかのように。
「ラルト様は、この水湛える土地に集う人々全ての運命[さだめ]を、背負っているのですね」
 広場を。
 人々が歩いていく。
 子供は笑い、壮年の男女が手を取り合い、食材を抱えて、歩いている。
「それが、皇と呼ばれる者なのですね……」
 人々の日常。
 人々の命そのもの。
 それら全てを背負っているのかと、女は言う。
 ラルトは笑った。自嘲に近かった。
「人が背負える運命[さだめ]は己のそれ一つだ」
 守りたいとは思っていた。
『陛下』
 切に願っていた。
 自分を慕う人々が平和であるように。
『ラルト』
 最も笑っていて欲しかった人が安らかにあるように。
 それでもどうにもならぬことはあった。
「それ以上はどうにもならないさ」
 皆がそれぞれ思うところあって動いている。君主はただ、その人々が暮らしやすい場所を提供するに留まるだけだ。
 傍らのティアレは何か言いたげに唇を動かしていた。かすかに眉根を寄せて、ラルトを見上げてくる。
 最終的に、彼女はことんとラルトの肩に頭を落として、沈黙を保った。
 何も物言わぬ赤銅色の頭を見下ろしながら、ラルトは苦笑した。温かい身体だった。生きている以上、それは当然のことではあるが、人の身体の温かさを身近に感じたのは酷く久しぶりのことのように思えた。
 いつもいつも、冷たい指の感触が腕にあった。
 どうしてと嘆く、女の残像。
「ラルト様」
 女の手がそっと触れて、ラルトは弾かれたように面を上げた。無表情に近い女の顔色に、どこかいたわしげな色が見えた。
 ラルトは立ち上がった。仕事はまだ途中で、あといくつか視察すべき施設が残っている。それら全てを見て回って、日没までには、宮城に戻らなければならない。
 ティアレもラルトに習って立ち上がり、衣服の裾を払った。ラルトはくずかごに蜜柑の皮と空になった湯飲みを捨てた。近くの井戸で簡単に手を洗って、ティアレの下に戻る。
黙って手を差し出す。ティアレは、躊躇いはしたものの黙って手をとった。女の手は冷えてはいたが、生きているもの特有の体温を備えていた。
 白い磨り減った石畳の上に、二人の影がひっそりと並んだ。


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