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第六章 造反 1


 女が立っていた。
 ゆるく巻かれた長い銀の毛を風に躍らせた女。裸足の足で大地を踏みしめ、水を豊かに湛えた土地を丘から見下ろしている。
 鳥が丘を滑空し、それにあわせて風に千切れた草が空へと舞い上がる。波のように緑がうねって煌々しい。
 女が空を見上げた。ゆっくりと。白い雲たなびく空を、仰ぎ見た。
 ただそれだけの動作だ。
 だが、泣いているように思えた。
 誰だかはわからない。だが確実に、その女を知っていた。
 女がゆっくりと振り向く。
 銀がかった、七色移ろう双眸がこちらを捉え、赤い唇が言葉を吐いた。


『滅ぼしなさい』


「………………っつっはっ!!!」
 文字通りとび起きたティアレは、かけ布を胸元まで引き寄せ、肩で大きく呼吸を繰り返した。空気を求める魚のように喘ぎ、心拍が落ち着くにつれ喉元から込みあがる強烈な吐き気に、口元を押さえる。
 髪という髪が肌に張り付いていた。夜着もだ。まるで水をかぶったかのように湿り気を帯びて、それが吐き気を増長させる。手水場へいこうにも、足に力が上手く入らず立ち上がれない。仕方なく、ティアレは喉元から込みあがってきたものを飲み下し、胃の中へ戻した。
 酸がちりちりと喉元を焼いていく。
 その感触に、顔をしかめ、ティアレは手探りで水差しを探した。女官が、常に用意してくれている水差し。瑠璃色が美しい玻璃製の瀟洒なそれを手に取ると、ティアレは胡桃製の椀に水を落とした。夜の暗さを吸った水の色は墨に似ていて、水への欲を幾許かそぎ落とす。水差しを元在った盆の上に戻して、器の半分ほどを満たしていた水を、ティアレは貪るように飲み干した。
 渇きがいえると、気持ちもいくらか落ち着いてくる。
 ティアレは深呼吸を一つつき、寝台から降りた。
 温かい床が、ティアレの冷えた足を癒す。おかしなことだ、とティアレは思った。
 布団に包まっていたはずの自分の足よりも、木製の床のほうが温かいとは。
 箪笥の中から替えの夜着を取り出す。このままでは到底再び眠れそうもなかった。本当に、まるで水を吸ったかのような重さなのだ。簡素な白い夜着に袖を通しなおす。さらりという衣擦れの音が、暗い部屋に響き渡った。
 寝台の上に戻り、膝を抱えて身を丸める。窓の外は僅かに白んで、夜明けが近いことをティアレに告げていた。だが、起きるには早すぎる。そんな時間だ。
 抱えた膝に顔を押し付け、ティアレは瞼を閉じた。脳裏に浮かぶ銀色の影。
 教えられずとも、アレが誰だか知っている。
 あれは、始まりの魔女。
「ルーシア……」
 身のうちに棲む、魔力の源。否、魔力そのものだ。世界に現れた最初の魔女。魔力の嵐とともに、滅びを、と囁く、全ての根源。
 ティアレが生まれたときのことだ。
 顔を名前も知らぬ占師が、宣告した。
『滅びの魔女と、なるでしょう』
 その盲いた眼を用いて、彼女は生まれたばかりの赤子に課せられた業をみたのだ。業は支柱でもあり、また代価でもあった。その存在そのものが、呪われた一つの形だった。
 支柱は、ありあまる体内をめぐる魔力であり、代価は、魔女の人生だった。
 魔力の粒は名前を名乗った。そしてその魔力は、はるか昔から連綿と続く宿り主について語った。
 自分の前の代、その前の代、そのまえのまえのまえ。
 歴史の影に生まれてはうずもれる、幾人もの魔女たち。
 魔女として生を受けた魔力の宿り主。その誰もが呪われた存在として人生を歩み、その役割を果たして、死んでいったという。
「私の役割は」
 ぎり、と夜着の裾を握りこんで、ティアレは呟いた。
「私の役割は、何?」
 滅ぼせと。
 魔力は言う。
 それがお前の役割だと。
 だが一体。
 何を。
 やがて夜は明けて日の光が全てを塗りつぶす。
 それはまるで滅びの光にも思えたし。
 世界が産まれる瞬間の光のようにも思えた。


 ごごん……
 小舟の舳先が船着場に触れる。水守の男は片足を縁にかけ器用に小舟を固定しながら縄を突堤に結んでいった。
 ラルトは一足早く船から降りた。幼少の頃から慣れ親しんでいる水路の小舟は、ラルトにしてみればゆりかごと大差ない。だが『連れ』はそうはいかないようだった。
「大丈夫か?」
 ティアレは小舟の上に蹲ったまま、蒼白な顔をしてラルトを見上げていた。立ち上がることも出来ない、といった様子だ。きつく引き締めた口元が、被った薄布の下から垣間見えている。
「お客さん、大丈夫ですか?」
「慣れていないだけだろうさ」
 ラルトは再び船の上に戻り、膝と背中に腕を差し入れて、女の身体を持ち上げた。目を見開く女の表情に気付かないふりをしながら、勢いをつけて突堤に舞い戻る。
 ティアレを下ろした。即座に屈みこんでしまう彼女に肩をすくめ、ラルトは水守に賃金を手渡した。
「異国の方は大変ですねぇ。あぁそうだ。これ、差し上げますよ。船酔いの薬なんで」
 水守は衣服の懐から白い三角の包みを取り出す。驚きながら、ラルトは水守に尋ねた。
「いいのか?」
 数年前よりは多少落ち着いたとはいえども、このご時世、少量の薬が非常に貴重だ。酔狂だな、と笑うと、水守もつられたように口端に笑みを刻んだ。
「男にゃ渡しませんよ? 美人の貴婦人には、笑顔でいてほしいじゃないですか」
「なるほど」
 納得して大きく頷く。当の本人であるティアレは、船酔いに蒼白な顔をしたままその場で屈みこんでいる。
 ラルトは有難く包みを握りこんだ。
「その薬は、水守に代々伝わる薬で。非常に効きます。保証しますよ」
「感謝するよ。ありがとう」
「こちらこそおおきに。それではまたご贔屓に」
 水守は帽子を軽く掲げると再び小舟に乗り込んで櫂を水に差し入れる。細い水路に綺麗に轍が描かれ、船が遠くなったところで、ラルトは改めて先ほどから一言も口を利かない女を見下ろした。
「大丈夫か? 本当に」
「……はい。あの……あんなに、ぐるぐる、曲がると、思って、いなくて……」
 ようやっと口を利いたティアレは、細く息を吐いた。
 一般の市井も利用する、宮城周辺から城下町に降りる小舟を利用したのだが、宮城は山間にあるため街に比べて高度が高い。そこを小舟で降りるには、丘を横切り幾度も旋回する必要がどうしてもあった。
 深呼吸を繰り返した後、彼女は面を上げる。
「もう……平気です」
 よろよろと立ち上がる彼女の腕を、ラルトはぐっと引いた。
「あ、ありがとうございます……」
 蚊の鳴くような声で呟きながら、それでも自らの足で歩こうとするティアレに、ラルトは呆れながらも微笑んだ。その腕を引き寄せて、嘆息する。ティアレが、怪訝の眼差しで見上げてきた。
「つかまってろ」
「ですが」
「嫌なら構わないが。けどふらふらされて変なことに巻き込まれても困るしな。歩くのだってあまり上手くないんだろうが。シノから聞いているぞ」
 どうやら長い間鎖に繋がれる生活を送っていたためか、あまり歩くこと自体になれていないらしい。しっかりした足取りで一見歩くものの、よく躓くというのだ。
「……見ていたのですか。シノ」
 羞恥に頬を染めながら、ティアレが呻く。そりゃぁ、とラルトは空を仰ぎ見た。宮廷における全ての秘密を握っているといっても過言ではない女官長。それがあのシノ・テウインである。
「堤防の上に上ったら薬飲ませてやる。とりあえずそれまで捕まっていろよ」
 ティアレが逡巡する。否、戸惑っているのだろう。他人の優しさに、彼女はいつも戸惑う。怨恨の言葉にしか触れたことのない人生というものはどういうものなのだろう。
 ラルトの人生は、確かに血塗られたものであったけれども、与えられる優しさは偽りのものばかりではなかった。
 物思いにふけるラルトの腕を、ティアレが躊躇いがちに引いた。
 我に返り、不安げに見上げてくる女に、ラルトは微笑む。
「さて、いくか」
 ティアレは、控えめに、しかししっかりと頷いた。
「はい」


 その墓標は誰にも知られることなくひっそりとある。国を見渡せる高台に。その墓標を訪れるものは指折り数えられる。春は賑々しく草花が周囲を満たすも、冬の間はそうはいかず。水分を失った枯れ草が絡みついて、まるで鎖に縛られているようにも見える。何にせよ、孤独な墓標だ。誰がこのような結末を予想しただろうか。
 花を添える。一輪の竜胆の花を。青紫の花弁が、白い墓標に寒々しくゆれる。
「哀しい貴方を……から」
 花言葉を口にして、空を仰ぐ。
「哀しい貴方を、愛するから」
 既に呪いに囚われる自分たちは、いくらでも貴方に歪んだ愛を注ぐから。
「だから」
 祈りだった。
 しかしこの墓標が、安易に呪いの[くびき]を砕くはずがないことも、よくよく自分たちは知っていた。


「ん」
 水の入った椀と僅かに開かれた白い包みを差し出す。だがティアレは一向に受け取ろうとしなかった。大きく目を見開いたまま、表情を凍りつかせている。
 ラルトは、半眼で女を見下ろした。
「どうした。飲まないのか? 薬」
「……何、今をなさったのですか?」
「毒見だが」
 それが何、と肩をすくめる。指先で、ちょっと薬を掬って舐めてみただけだった。包みの中自体は真新しい。直接舐めたならいざ知らず、これならば別に不潔なわけでもない。
 しかしティアレは驚愕の色を瞳に滲ませて、口元を引き結んでいた。
 手元の椀と包みに視線を落として溜息をつく。
「そんなに嫌か」
「……そうではありません」
 女は呆れを滲ませた声音で反論した。
「何、考えていらっしゃるのですか。毒見だなんて……普通逆ではありませんか?」
「そうか?」
「そうです! ……ラルト様のほうが、毒見されたものを口にすべきでしょうに」
 女はそういって水と薬を受け取った。仮面を被ったかのように動かぬ顔であるが、憤慨しているようにもみてとれる。
「何を怒っているんだ?」
「呆れているのです! もし本当に毒であったならどうなさるおつもりだったのですか?」
「捨てる」
 盛大にため息をつくティアレに、ラルトは肩をすくめて見せた。
「何もないのに捨てたら、折角くれたのに悪いだろ? あの水守に」
 貴重な薬を分けてくれたことは、こちらの金払いがよかったせいもあるのだろう。しかし好意には違いなく、むげに扱いたくはなかった。
「それに俺は毒には慣れているからな。たいていのものなら一口にすれば解る」
 王族ならばこの国に限らず、毒殺などどこにでもありうることだ。だがここは裏切りの帝国であるぶん、毒はいつも思いもかけないところからもたらされる。
「この国に生まれたが故の哀しい特技というやつだ」
 毒の耐性を身につけることは必須だった。
 そして身につけていたからこそ、自分は死ななかったのだ。
 三年前に。
 ひやり
「……っ」
 思考を中断したのは、突然触れてきた女の手だった。いつの間にか薬を飲み終えていたティアレの手が、自分の右手を包んでいる。広場に設置してある長いすに優雅に腰を下ろしている女を驚きの目でもってラルトは見つめた。
「どうか、なさいましたか?」
 自分の手を包んでいる女の白い手を見やる。そしらぬ顔をして、時折このように大胆なことをする。
「いや」
 頭を振って、ラルトはティアレに続きを促した。
「それで?」
 ティアレは一瞬不満そうに眉をひそめたが、言いかけたことを思い出したらしかった。
「……それで。例え毒に慣れていらっしゃっても、全く効かないのとは、訳が違います」
「確かにそうだが」
「例え死なずとも、この手が動かなくなることもあるのです。そうなれば、苛立つのはラルト様でございましょう? 私のような端女のために、そのようなことを軽々しくなさるものではございません。ラルト様のお体は、ラルト様のためだけのものではないはずです」
 そういって女は手を離した。女の手は冷たかった。氷のように。だけれど、離れていったら離れていったで冬の潮風の冷たさが、何故か染みた。
「……悪かった。軽率だったな」
 腕を組み、視線をそらしながら呟く。ティアレもまた俯いて弱々しく呟いた。
「……申し訳ございません。知ったような口を」
「今更謝るなよ。最初のことを思えば、かわいいもんだろう?」
「根にもっていらっしゃいます?」
「まぁ……少し」
 最初の会話らしい会話。さすがに初対面で食って掛かってくるとは思っていなくて、ある意味衝撃を受けた。
 呪いについての会話だった。突然今まで逃げてきた事実を突きつけられた。そして自分も彼女に突きつけた。そもそも自分たちの間柄とは磁石の同じ極のような始まり方だった。
 それが今ではこんな風に並んで会話しているのだから、なんだか笑いたくなってしまう。
 黙り込んでしまった女の手を、ラルトは握りなおした。
「さて、どこから先に見て回りたい? 約束してたのにずいぶん待たせたからな。あんたが好きなところを優先させる」
 フベートの視察から戻ってとの約束だったが、すぐ、というわけにはいかなかった。予定の調整がつくまで軽く十日は掛かったのだ。
 ティアレはラルトの問いに答えなかった。ぱちぱちと瞬きを繰り返したまま、微動だにしない。呼吸をすることすら忘れたように、ラルトを見上げてくる。
「おい。何黙っているんだ? 答えろよ」
「…………手」
「て?」
「……なんでも、ありません。……ラルト様が見なければならないところから先に。私には、一体この街にどのようなものがあるのかわかりません。選びようがございませんので」
 珍しくぼそぼそという女に、ラルトは首を傾げた。が、怪訝に思っていても仕方がない。広場でのんびり過ごすのも悪くはない提案だが、そもそも自分が城下に降りてきたのは遊びではなく仕事だった。時間が限られている以上、目的地を決定しなければならない。
「気分はどうだ? 歩けそうか?」
「はい。……それは、問題なく」
「ならいこうか姫君。慌しいかもしれないが付き合っていただこうか」
 ティアレは小さく、苦笑したようだった。ほんの少し唇が歪む。
 彼女は立ち上がると、優雅に礼をとった。そうしていると、冗談ではなく彼女はまるでどこかの姫君のようだった。


 男がいた。
 一切の光が入り込まないように細工された空間に、男がいた。男の傍には排泄用の簡易便器となる陶器が一つ、椅子が一脚。椅子からは鎖が伸びていて、男の足首を拘束していた。老婆が、“彼”の傍らを通りすぎ、男の便器を清潔なものと交換して退室する。それでも、この部屋にこびり付いた腐臭ともとれる饐えた臭いは消え去るわけではない。
 男の目の前に皿を出した。残飯のような食事。男は残飯をあさる野良犬のように、皿を舐めた。
 『彼』は老婆によって背後で扉が閉められ、部屋が暗闇に閉ざされても、微動だにせず男を見つめていた。
 ぺちゃ。
 食事を取り終わったの、皿を舐める音がひときわ大きく暗闇に響いた。“彼”は嘆息した。自業自得の結果でもあるとはいえ、これが魔女に取り付かれたが故というのなら、そこには同情を抱く余地がある。
 男は笑った。壊れたものの笑みだった。
いっそ殺されていたほうが楽であったろうに。
 『彼』は踵を返した。何人を犠牲にしてもこの国を守る手立てとなるのなら、それでも構わない。そういった覚悟を、男の壊れた笑みは『彼』に抱かせた。


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