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第五章 レイヤーナ 3


 気まずい沈黙は自分とティアレの間にはよくあることだ。互いの出生の違いから、意見が食い違うことも多々ある。それにしても、この沈黙に上乗せされたような言いようもない圧迫感は何であろう。
 シノに出された緑茶をすすりながら、ラルトは向かい側に腰を下ろしているティアレを上目遣いで見遣った。
 場所は奥の離宮の一室。少々広めに取られた空間は、茶会などを開くために設けられた場所だった。羽毛の詰まった柔らかな敷物が敷き詰められた長椅子が、石造りの楕円形の卓を挟んで向かい合っている。ラルトの向かいの長椅子に腰掛けて、彼女は相変わらず無表情を通し、両手で湯飲みを包み込むようにして瞼を伏せていた。そして、ずっとそのままであるのだ。ラルトはいい加減にしてほしいと空になった湯飲みを目の前の卓上に置いた。我知らず力がこもっていたのか、半ば叩きつけたような形になる。
「いい加減機嫌を直してくれ」
「私、別に機嫌を損ねてなどいませんが」
 ティアレは決然と言い放った。全く、取り付く島もない。
 ラルトは彼女がいかに傍目に不機嫌に見えるか訴えようと口を開きかけ、やめた。不機嫌ではないと主張する女に、そんなことを言ったところで堂々巡りだった。
 ラルトが帰ってきてから、ずっとこの調子なのである。聞けばラルトの留守中から、ティアレの機嫌はそれほどよくなかったようだ。視察から戻ったシノが神妙な様子で、ティアレ様が、と告げてきた。
 とりあえず優先するべき仕事をある程度片付けて、様子を見にきてみれば、これである。
 完全にお手上げだった。
「だから、一体なんでそんなに不機嫌なんだ?」
「不機嫌ではありませんと、先ほどから申し上げているではありませんか」
 駄目だ。
 本当に堂々巡りにはまり込んでしまった。
 ラルトは溜息をついた。ずるずるずると長椅子に沈み込む。だんだん自分が何をしているのか分らなくなってきていた。
「……ただ」
 ティアレが目を背けて唇を引き結ぶ。僅かに戦慄いたあと、器官に詰まっていたものを吐露するかのように彼女は言った。
「奥様、いらっしゃられたんですね?」
「…………あ?」
 思いがけない問いに、ラルトは思わず思考を停止させた。ティアレはもう何も言うことはないと、眉間に皺を刻み込んでいる。美人は無表情でも美人だが、怒ると更に美人だ。いやいやそんなことを考えている場合ではなく。
「何時、どこで、どんな」
 ラルトは『彼女』のことをティアレに伝えた覚えなど全くなかった。
 ティアレの表情は殆ど動いてなかった。だがラルトは、彼女の顔に僅かな躊躇、憤怒とも付かないような色、そして、微かな悲哀を交互に見た。やがてティアレは諦めとも取れるような溜息をついて、白状した。
「后は、いらっしゃらないといっていたのに」
「……は?」
「でも貴方にはいらっしゃる。そうでしょう?」
 ラルトはぱちぱちと瞬きを繰り返してティアレを見た。彼女の感情を表すには、その細面の筋肉はあまりにも怠惰であった。その僅かな差異を見逃さないように気をつけながら、ラルトは言った。
「いないぞ」
「嘘」
「本当に」
 現在は、と一言付け加えて、ラルトは弁解する。すると不満そうに口元を尖らせたティアレが、口を滑らせた。
「だってジン様が……」
「ジン?」
 怪訝さに首を傾げたラルトを見てか、ティアレがはっと口元を覆う。
「ジンが、わざわざ離宮まで来たのか?」
 ティアレがこの離宮の外へ足を踏み出すことは禁じているし、注意しておくように女官にも言い置いている。何よりもティアレが禁を破って外へでるようなまねをしでかすとは到底思えなかった。ならば、彼女がこの国の宰相と出会うには、彼がこの離宮にくるより他ない。想像できないことだがありえないことではなかった。
「いえ。書庫で、会ったのです」
「書庫? あぁあそこか。あそこで?」
「いえ、正確には……そこと隣接している倉庫で、なのですけれども」
 倉庫、と首をかしげかけ、ラルトは思い当たった。
 レイヤーナの遺品を納めている、あの納戸のことだ。扉は厳重に施錠が施されていたはずであるのに、どうしてそのような場所にティアレが足を踏み入れているのだ。いやそもそも、ジンは一体そこで何をしていたというのだ?
「そこに、飾られていた肖像画が」
「俺の后だといわれたのか?」
 あの部屋の壁にかけられている絵は一つしかない。ラルトの問いにティアレは沈黙で肯定を示す。何を不満に思っているのかは判らないが、その肖像画がどうやら彼女の不機嫌の原因のようだった。
「后の方はいらっしゃられないと仰っていたではありませんか」
 口先を尖らせて、ティアレが呻く。
 どうやら、こちらに嘘を言われたと思い込み腹を立てているらしい。
「安心しろ」
 ラルトは嘆息交じりに呟いた。
「ジンに何を言われたかは知らないが……その様子じゃぁ聞いていないな? あの絵の肖像は、確かに俺の后だ――后、だった。三年前までは」
「……どういう意味ですか?」
 怪訝そうな眼差しをティアレは黙って向けてくる。
「彼女は后だったが、今は后ではない。彼女は死んだ。三年前だ」
 沈黙が降り、面を上げたラルトの目に、絶句するティアレの顔が映った。眉をひそめ、何か言うべき言葉を捜しているという風に、閉口しながら視線を泳がせている。
「……あの、申し訳」
「謝る必要はないさ。言っていなかったのは俺だからな。彼女は死んだ。后の位は空位だし、妾はもとより一人も持ったことがないのでいない。何も心配することはない。問題は何も起こらない」
 后がいることによって、何らかの諍いが起こることをおそらく彼女は懸念しているのだろう。后がいるといないとでは、自分がこのようにティアレの元に通うことに対する危険性も増してくる。
 そう、推測しての発言であったのだが、ティアレはきょとんとして首を傾げていた。
「……問題、ですか?」
 この言葉に面食らったのはラルトのほうである。
「何だ。后がいたら後宮を荒らすと心配していたんじゃないのか?」
「え……?」
 思いもよらなかった、といわんばかりのティアレの反応に、ラルトは訝しさに眉根を寄せた。
「じゃぁなんで不機嫌だったんだ? 嘘をついてまであんたに会いにいって、宮廷に問題を起こそうとしていたと勘違いして怒ってたんじゃないのか?」
 ティアレはぱちぱちと目を瞬かせ、なにやら黙考し始めた。俯き、首を傾げ、捻り、しばらく床に視線を落とした後、彼女は突如、弾かれたように面を上げてラルトを見つめてきた。
「……どうした?」
 控えめに尋ねてみるが彼女は答えない。
 ただ白い肌が、朱に染まっていく様をラルトは見た。紅葉の紅葉を、数刻で見たような錯覚に陥る。彼女は俯き、黙りこくってしまった。
「ぇ」
(ななな、なんだなんなんだその反応)
 憤っているのか拗ねているのか、よく判らない女の反応に本気で狼狽しながらラルトは唇を引き結んだ。普通の女の胸中ならばある程度予想は付くのだが、普段から無表情、考えの読めぬ女であるティアレの意図を、表情からのみで汲み取ることは至極難しい。大体、ラルトが予想していたことを、彼女が懸念していなかったというのなら、一体何が不満であったというのだ。
 真剣に考えてもやはりわからない。ティアレは視線を泳がせ、頭を小さく振っている。ややおいて、彼女は眉間に皺を寄せたラルトに躊躇いがちに尋ねてきた。
「……ですが何ゆえ、后であったはずのお方の肖像画が、あのような場所に置かれているのですか?」
「罪人だからな」
 ラルトは面を上げた。ティアレの顔が引きつっている。
「ざ、罪人?」
 ラルトはあえて抑揚を殺し、淡々と述べた。
「三年前、国で大きな内部分裂があった。それに巻き込まれて、彼女は死んだ」
 目を閉じれば、鮮やかに蘇る。
 壊れた女の嗤いと嘆き。
「あ、の」
「后の位はそれ以来空位だ。まぁ、そんなわけであんたが案じる必要は何もないからな」
 ぽん、とラルトは膝を叩いて立ち上がった。これ以上会話してもティアレの機嫌が直るわけでもなさそうだし、少なくとも不機嫌の原因らしきものがわかっただけでもよしとする。それに、そろそろ放り出してきた仕事にも向き合わなければならない時間だ。
「一つ、訊いても宜しいでしょうか?」
 去る気配を悟って釣られるように立ち上がったティアレが、慌てたように口を開いた。
「なんだ?」
「その……お后様の」
「レイヤーナの?」
「え? あ、はい。レイヤーナ、様のこと、ですが……」
 口ごもるその様子に躊躇が見える。亡くなった上に罪人と聞いて、追求することが躊躇われているのだろう。好奇心との狭間で、葛藤している、といったところか。
 ラルトは苦笑して、「いいから」と指を下のほうで絡ませている女の背を押した。
「どのような方、で、いらっしゃったのですか?」
 ティアレ自身は少し俯いている。顔は無表情だが、上目遣いに様子を探っているところがなんともいじらしい。
 やはりこの女、娼婦だったんだなぁ、とラルトはしみじみ思った。故意に駆け引きをしているのか、それとも天然か。
 彼女の場合、恐らく後者だが。
 天井を仰いで、ラルトは答えた。
「天真爛漫」
「は?」
「快活で、常に飛んだり跳ねたり歌ったり踊ったりしている女だったよ。大臣家の重鎮の娘だった。俺とジンとは幼馴染で、子供の……これっくらい小さな頃からの、付き合いだった」
 膝の高さに手を落としながら、ラルトは表情に苦渋が浮かぶことを止められなかった。 
 胸が、痛い。
 そう、あの女は、本当に、春風のような女だった。自分たち三人の中で、一番明るく朗らかで、常に笑っていた。その笑顔を、あの狂った、病んだものにすり替えさせたのは、自分だった。
 ティアレが少し表情を曇らせて見つめてくる。その眼差しを受け止めて、ラルトは笑った。
「どうした?」
「……お綺麗な方ですね」
 肖像画を見ての感想だろう。
「お前それ他の女に言ったら嫌味以外のなにものでもないぞ」
 ティアレの美貌は抜きんでている。神や精霊の領域の美しさだった。レイヤーナは確かに整った容姿をしていたかもしれない。だが、ティアレとは比べ物にならない。
「そういう意味ではございません」
 ティアレはほんの少し視線だけを床に落とした。
「私などと比べてしまわれては、レイヤーナ様がお可哀想かと。……愛されて、健やかにあらせられたのでしょうね。そういった空気が、あの絵から、ひしひしと伝わってきた、もので」
 ティアレはレイヤーナを貶める、というよりは彼女と比べて己の生まれと人生を卑下しているようだった。語尾の余韻は、妬みというよりは諦めの色のほうが濃い。
 ラルトは口の端に苦笑を浮かべた。
「健やかには、違いなかったな。……だがヤーナはいい意味でも悪い意味でも貴族の娘だったよ」
 朗らかで、快活で、けれど甘えたで。
 泣き虫で。
 弱かった。
『……いてくれるって、言ったのに……!!』
 腕に残る、爪が食い込む感触を払うようにラルトは頭を振った。ティアレに向き直ると、彼女の視線はまだ床の上だった。
 ラルトは苦笑した。うつむく女への擁護の言葉なら、すぐに見つかる。
「けれども、高貴さを競うならあんたのほうが上だ」
 女の視線が、ゆっくりと上げられる。
「その辺りの貴族の娘なんかよりも、あんたのほうがよっぽど高貴で綺麗だ、ティアレ」
 そう、この女は気高い。
 娼婦に身を貶めていても、あの雪解けの水のような清冽な眼差しが、他のものの追随を許さない。
 それゆえに不幸だった。神気に近いその高貴さは生まれながらのものだ。どう足掻いても他者はそれを手にすることはできない。
 嫉妬は呪いとなって、女の人生を浸食する。
 あまりにも呪いの要素を持ちすぎた女だった。まるで、身体全てが呪いに固められているような。
 故に、興味が湧いたのだ。
 ティアレはしばらく首を傾げていた。ラルトの述べた意味がよく分らなかったのだろう。だが彼女は夢から覚めたかのように数度瞬きを繰り返すと、顔は無表情のまま、急に顔を赤らめた。
 その変化の度合いに、ラルトのほうが仰天する。
「あ……いえ……あ、の、そ……世辞を、おっしゃられまして、も、何も」
 私は出来ません、と、語尾はまさしく蚊が鳴くようだった。
 ラルトは軽く笑い声を立てた。その反応に、彼女がむっと唇を尖らせた。
「何も、笑わなくとも良いではありませんか」
「いや悪い。……じゃぁ、俺はそろそろ戻るから。とりあえずその眉間に寄った皺をどうにかしてやってくれ。シノたちが嘆くからな」
「え?」
 こちらに言われるがまま眉間に指を添えて首を傾げるティアレに再び笑い声を漏らす。
「ラルト様!」
 彼女の憤った声に追い立てられるようにしてラルトは踵を返し部屋を後にした。


 ひとまず皇帝の背中を見送って、遠ざかっていく足音に耳を済ませる。小刻みな靴音が完全に消えさり、ティアレはため息をつきながら、長椅子に再び腰を下ろした。羽毛の詰まった敷物が、なよやかにティアレの体重を受け止める。
「罪人」
 結局ラルトには上手くはぐらかされてしまったが、その一言は胸に突き刺さるようにして残っている。つみびと。正妃としてその傍らの位に上り詰めた女が。
 レイヤーナ、とジンもラルトも呼んでいた。それが名前なのだろう。肖像画に姿を写し取られた女は、穏やかに微笑んでいた。そこからは、罪を犯すような影は一切汲み取れない。所詮絵だといってしまえばそれまでだが。
 黙考するティアレの耳に、ふと軽く戸を叩く音が響いた。
「はい」
「失礼いたします」
 台車を押しながら部屋へ姿を現したのは、シノだった。瀟洒な細工の施された台車には、茶道具一式と菓子皿が載せられている。軽く会釈をしてからティアレと目を合わせ、シノが微笑んだ。
「陛下はお戻りになられましたのね」
「はい。お仕事がおありでしょうし」
 そういいながら改めて、ティアレは彼が仕事を放置してここにきた事実を思い知らされた。ティアレはあまり政治というものに詳しくないし、数々の国の君主の傍に娼婦として侍りながら、彼らが仕事をする姿もあまりなじみがない。だが、視察から戻ってきた、というからには、視察の最中に溜めていた仕事もあるであろうし。ラルトのことであるので、おそらくある程度見切りをつけてこちらに来たのであろうが、それにしても、そんな男を不機嫌の極みで応対してしまったことには罪悪を感じだ。
「……まだ難しい顔をしておいでですね」
「え?」
 シノの一言が、ティアレを思考の海から引き上げる。
 いつの間にかシノが傍らに佇み、芳しい香りの漂う紅茶の入った白い陶磁茶碗をティアレに差し出していた。
「……そうですか?」
 そういえば、ラルトにもその眉間の皺をどうにかしろといわれたが。そもそも眉間に皺を刻んでいる自覚すらティアレにはない。
 シノから陶器を受け取り、縁に唇をつける。甘い香りが鼻腔を抜け、さっぱりとした、けれども芳醇な味わいの茶が喉を潤した。
「美味しい」
「桜桃のお茶ですのよ」
 続けて茶で喉を潤すティアレに笑いを含んだ女中の声がかかる。傍らにそう立たれたままだと妙に落ち着かないと、ティアレはそっと前の長椅子を進めた。
「失礼いたします」
 一言言い置いて腰を下ろすシノの所作は、女官とは思えないほどに洗練されている。奥の離宮の女官全てに言えることだが、よく訓練されているな、とティアレは思った。裏切りの帝国、そう呼ばれる水の帝国は、荒れに荒れて久しいと聞くのに。この奥の離宮にいるかぎりそのような様子は全く見られない。優雅に茶を入れるその所作を見つめながら、あとで茶の入れ方も教えてもらおうと心に決めていたティアレは、唐突なシノの問いに面を上げた。
「ティアレ様。何が一体ご不満だったのですか?」
「不満?」
「えぇ」
 シノが頷く。
「不満だなんて、覚えたことはありません」
 この国に、正確にはこの離宮に、一時的とはいえど身を落ち着けてから、感謝と戸惑いを覚えこそすれ、不満を覚えたことなど一度たりともない。
 ティアレの声色に本気の意図を聞き取ったのだろう。シノが怪訝そうに首をかしげた。
「ですが、しばらくあまり元気がないようでしたし。一体何が……」
 ラルトにも散々怒っているといわれたが、憤った覚えは一度もない。
 ただ、とティアレは付け加えた。
「奥様が、いらっしゃったのだなぁ、と、そう思いまして」
「……は?」
 シノは一瞬きょとん目を丸め、動きを止めた。いつも笑みに細められている目を大きく見開いてぱちぱちと瞬かせている。
 どうしたのか、と女官を眺めていたティアレの耳に、程なくしてから忍び笑いが届いた。
 笑ってはならないと、白い手で覆われた女官の口元から、こらえ切れないといった風の密やかな笑いが絶えず漏れ続ける。ティアレはシノのその反応に首を捻り、渋面になりながら低く呻いた。
「何がそんなにおかしいのですか?」
「いえ……私の勘違いかもしれませんので気にしないでくださいませ」
「……勘違いでそんなに笑えるものなのですか?」
「いえ……だって。……奥様って……」
 くすくすくすと、部屋を満たす忍び笑い。天井を思わず仰ぎ、淹れられた紅茶から上り立つ白い湯気が虚空に溶け行く様を眺める。
「どなたの方のことを仰っているのですか?ティアレ様は」
「レイヤーナ様のことです」
 即答すると、やはり、とシノは一掃笑いを大きくした。一体何がそれほどまでに面白いのやら。憤然と口先を尖らせて、ティアレは肩を落とした。
「……シノは、レイヤーナ様をご存知なのですか?」
「はい」
 シノははっきりと肯定を示した。
「私は元々、レイヤーナ様のご実家に奉公し、レイヤーナ様を幼少のころからお世話させていただいていた身なのです。宮廷の女官に上がったのは、レイヤーナ様が宮廷に上がったことが理由です」
 どこか懐かしそうに細められる彼女の紫紺の双眸を見つめながら、どこか落胆のような、一抹の寂しさのような複雑な感情がティアレの胸に去来する。この感情を、どう言い表したらいいのかわからず、ふるりと首を振って、シノに続けて問いを投げかけた。
「どんな方でいらっしゃったのですか?」
「陛下はおっしゃいませんでしたか?」
 シノの切り返しに、ティアレは押し黙る。ややおいて、ティアレは答えた。
「天真爛漫で、快活な方であったと」
 懐かしさの滲むどこか遠い眼差しをして、言葉少なに語られるかつてのこの国の正妃の姿。それ以上追求することは出来なかった。すぐさま彼の顔に、苦渋とも取れる複雑な色が混じったからだった。
「そうですね」
 シノは頷いた。
「本当に。本当に、あの頃のこの国で、まるで一筋の光りのようにあった方でした」
 瞼を閉じてシノはいう。ひっそりとした笑みを口元に乗せていた。ただその笑みは、懐かしむというよりも悼む様な一抹の寂しさが滲んでいる。
 部屋は御簾が上げられ窓が全開にされている。黒い床に太陽の光が窓の形をとって刻まれ、その照らされた部分だけ金の筆でなぞったかのように木目が浮かんでいた。風に吹かれて寝台の天蓋が、軽く波打って揺らめいている。
「本当に」
 その一言だけを繰り返して、シノが押し黙る。
 風に吹かれて軽く揺らめく御簾の立てる音に、言葉の余韻が静かにかき消された。
「シノ」
「本当に、よくヤーナ様の悪戯には、困らされたものでした」
「……は?」
「聞いてくださいませティアレ様。ヤーナ様ってばもう本当に悪戯好きで、小さい頃はお掃除道具を頻繁に隠されましたし、わがままばっかり申されて、次はあれをして次はこれをしてと。手を散々焼かされましたわ」
 誤魔化された。
 ティアレはそう思った。シノの横顔に、ラルトが先ほど浮かべた悲壮な色が滲んでいたのは確かだった。だがそれを振り切るようにして、彼女は陽気な笑顔で拳を握りつつ、いかにレイヤーナという姫君がお転婆であったかを力説し始めた。
 曰く、白い子犬の毛を染粉で染めて、部屋中染料だらけになっただの。
 曰く、花畑を作るといって、せっかく植えた野菜の苗を掘り返して台無しにしてしまっただの。
 次々と出てくる少女の逸話に、ティアレは少しだけ表情を緩めて言った。
「……愛された方だったのですね」
 わがままを許され。
 そして今もそんな風に、愛おしそうに語られる。
「はい」
 シノは少し寂しそうに、それでも誇らしげに笑った。
 ティアレは胸を締め付ける何かに、泣き出したいような気分になりながら、女官の笑顔を見つめていた。


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