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第五章 レイヤーナ 2


 ぎぃいいいぃぃぃっ……
 分厚い木扉が耳障りな音を奏でてゆっくりと開く。蝶番は綺麗なものだった。この音は、単に扉と壁の狭間に出来た歪みによるものらしい。離宮から朽ちかけた橋一本で繋がれている、『図書館』とやらは、離宮よりも更に年季が入った建物だった。奥の離宮や遠く見える本殿を含め、宮廷の建造物は古いものが多いようだったが、図書館と呼ばれるその建物はことさらに古かった。雨風に晒されて朽ちないのは、施された魔術の為に他ならない。先日ティアレが迷い込んだ、石造りの塔と同じく傷みはなく、ただそれとは異なって埃が薄く積もっていた。
 内部は薄暗く、少し湿っている。しっとりとした空気が肌に触れた。
 一歩足を踏み入れて、暗闇に目が慣れやすいように瞬きを繰り返し、朧に浮かび上がった内部の輪郭に、ティアレは感嘆の吐息を漏らした。
「凄い……」
「国の内外の本が、ここに保存されておりますの」
 ランタンに火を入れていたシノが、笑いながらそう言った。
「今はもう絶版になってしまったものも多数ございますわ。他国のものは、国交が盛んであった国のもの中心でございますけれども、国で刊行されたものは、必ずここに一冊収める決まりでございますので。お気に召しまして? ティアレ様」
 ティアレは、答えることができなかった。気に入る気に入らないといった問題ではない。
 ただ、凄い。
 高い天井へ向かっていく壁全てが書棚であった。梯子と足場が書棚と書棚を繋ぐようにかけられている。天井は高すぎて、上が見えない。ティアレの足元には階段があって、更に地下へと伸びていた。螺旋階段だ。
 螺旋階段、梯子、足場だけで構成される、円筒状の奇妙な空間であった。空中に渡された足場が折り重なって見え、まるで魔術の方陣のように見える。
「少し、見てもいいですか?」
 沸き立つ好奇心を押さえきれずに、ティアレは尋ねた。
「もちろんです」
 シノは快諾した。
「私は仕事がありますので、これで失礼させていただきますが、ティアレ様はいくらでも見てくださっていてかまいません。ただ、この図書館から向こう……正確には、図書館の向こうに流れる小川の向こうからなのですが、本殿の敷地になりますので、足を踏み入れませんよう」
「はい」
 本殿に足を踏み入れてはならないことは心得ている。むやみにやたらに歩き回って、姿をさらし、ラルトに迷惑をかけることだけはしたくなかった。自分の存在がいかに危険なものか、ティアレは重々承知していた。
「薄暗いですし、足元にはお気をつけください。必ず、手すりをお持ちくださいますよう。また後ほど、迎えの女官を来させますので、高い場所にある書物は、興味がございましても女官が来るまでお待ちくださいませ」
「判りました」
 ランタンをティアレに手渡し、では、と一礼をして去っていくシノを見送って、ティアレは一歩踏み出した。人一人が通れるぎりぎりの幅の足場。欄干が付いてなければ、きっとそのまま落下している。歩けばきしきしと足場はしなって、埃を下方の闇の中へと降らせる。
 歩くことが許可されたとはいえども、万全ではない。ともすればよろけがちになる体を手すりで支えつつ、注意深くティアレは歩を進めていった。
 奥の離宮内を自由に散策することはかねてから許可されていたが、暇だろうということで図書館使用の許可を与えられたのは今朝のことだった。視察に出る間際、わざわざ顔を見せに来たラルトが、自由に使ってくれてかまわないと言い置いた。この図書館は、本殿にあるらしい図書室と異なって、どちらかといえば倉庫という意味合いに近いらしい。使うものもおらず、離宮に近いので許可なく大臣たちも立ち寄れないということで、ティアレが自由に閲覧してもいいということになったらしかった。
 文字が読めるため、部屋から全く出られないことの多かった人生で、戯れに与えられる書籍の類は、ティアレにとって最大の娯楽といってよかった。早速シノに案内を頼んで、連れてきてもらったのだ。
 一冊一冊、目に付いたものから順番に手にとってめくってみる。古いものが多いが、なぜかほとんどティアレの出身であるディスラ地方で出版された書籍が多い。見たことのあるものもあって、自然と顔がほころんだ。
(ここに、きたい、と)
 ぱらぱらと頁を繰りながら、ティアレは思う。
(来たい、だなんて。そんな風に、いえる日が、くるなんて)
 見たい、聞きたい、知りたい、来たい。
 自らの願望を示す言葉を、自らの欲求のままに口にできる日がくるなどと、思ってもみなかった。自分で、道を選択する、という行為は、今まで自分にとって禁忌だった。
 だがここでは、限りなくティアレの意志が要求される。ここに留まることにしても、結局はティアレ自身の意志だった。ラルトが強制したわけではない。無論制限はあるものの、それでも選択権は、常にティアレの手の中だった。
 身に着けている薄布の縁がふわりと揺れた。身に着けているものは例の臙脂色の衣服。贈られてきた衣装は間違いなくティアレのためだけのものだった。作り自体は簡素であるのに、生地は上質で。寸法がぴたりと合っているものだから、身体に余計な負担をかけない。
 奇妙だった。
 ラルトが自分に与えたものは、ティアレがかつての所有者から押し付けられてきたことがあるものに比べればごくごく微々たるものだ。彼らはティアレを飾り立てるために大量の宝石を用意した。豪奢な衣装をとっかえひっかえ着せ掛けた。そうして、犯した。所有者によっては食事すらろくに与えられなかった。様々だった。
 ラルトは、奇妙な位置にいた。
 今までの所有者と、明らかに一線を画していた。
(変な方)
 ぱたんと本を閉じて書棚にしまいなおす。歩くたびに、こつ、という靴音が不気味なほどに反響した。
 ラルトは、皇帝という先入観を取り払ってしまえば、非常に奇特な人間だった。
 皇帝らしくない。不器用で、真っ直ぐで、そして、哀しかった。
 彼もまた呪いの囚人なのだということを、ふとした拍子に思い知らされる。ラルトの目に時折脅えがある。それはティアレに対してではなく、得体の知れない何かに対して。ティアレにも覚えのあるものだ。ティアレも、滅びの魔女としての宣告をうけてからいままで、自分を取り囲む運命という名の何かに、脅えずにはいられなかった。
 一度呪いで滅びに瀕した国を立て直そうと、もがいている、若き賢帝。
 裏切りの呪いが、本当に『呪い』であるか否かは別として。国を立て直す理由が、民を裏切らないことで呪いから解放されようとしていることであるのなら、それはどこか哀しい感じがする。
 ラルトの呪いが本当に代価と支柱に支えられているものなら、その程度で解き放たれたりはしない。
 魔術の呪いは強固だ。特に、本当にこの国が生まれたその時から、かけられているような、強力で古い呪いならなおさら。ラルトも判っているのだろう。その程度で呪いが解かれたりはしないと。けれども、それでももがかなければ生きていられない。そういう人間なのだろう。あの皇帝は。
 なんて不器用で。
 なんて、哀しい。
 ふと、ティアレは書棚の隣に扉を見つけた。ごくごく小さな、壁になじむようにして作られた扉だった。壁との狭間に空間を作っている。この奥も、書庫なのかと、ティアレは何気なく扉を軽く押した。扉はあっけなく口を開け、暗い闇へとティアレを誘った。
 こつん
 足音の反響の具合から、その場所が酷く広い空間であることは判別がついた。戸を完全にくぐって、瞬きをしながら目を慣らす。ぼんやりと浮かび上がる輪郭は酷く朧だった。
(……倉庫?)
 触れた、古い書き物机の輪郭を指で確認しながら、ティアレは独りごちた。机、箪笥、寝台、椅子、大小さまざまな家具が雑多に置かれていた。高価そうな調度品もあれば、一体何に使うのかも判らないような器具や、珍妙な造詣の置物もあった。どれもが透けた薄布を被せられて固め置かれている。どうやら自分が足を踏み入れた場所は要らぬものを纏め置く倉庫のようだ――そう判別しかけたティアレは、ふと浮かび上がった白い何かを認めたとき、驚きに一歩飛びのいた。
 人の、顔。
 額縁に、収められた、女の微笑。
 肖像画だった。
 安堵に胸を撫で下ろしながら歩み寄ったティアレは、壁面の中央に飾られた女の微笑を見上げた。黒髪に黒目、白い肌。この国の民族衣装と金の花簪で飾った美しい女の肖像画だった。
(この方、どこかで)
 見たことがある。
 どこでだったか、と首を捻りかけたティアレは、何の前触れもなく首に触れたひやりとした硬質の感触に、背中を粟立たせて立ちすくんだ。ぐっと、腕が握りこまれる。骨がみしりと軋みを上げて、しゃくりあげたような悲鳴に息が詰まった。
 誰かが、耳元で囁いた。
「動くな」
 鋭い刃のような。
 声音だった。首筋に触れている金属よりもひやりとした声音だった。
 立ちすくんだまま声も出せない。足は床に張り付いたまま、指一本すら動かすことができない。
 唇だけを僅かに震わせていると、ティアレを縫いとめていた冷えた気配が唐突に掻き消えた。
「え? そんなに怖かった?」
「……え?」
 先ほどと一変した柔らかい声が降り、ティアレは頭上を仰ぎ見た。頭上すぐ上に、おかしそうに細められた暗い亜麻色の双眸がある。
 その主は、いけしゃぁしゃぁと言ってのけた。
「ごめん。そんなに怖かった? いっやぁ別に驚かそうとかいうつもりはあったけど怖がらせるつもりはなかったんだけどねぇ?」
 ごめんねー、と、悪びれることなく彼、つまるところこの国の宰相は、笑いながら頭を下げる。ティアレは呆然となりながら、その場に腰を落とした。なんのことはない。腰が、ぬけたのだ。
「ちょ、ちょっちょ、大丈夫? ティーちゃん」
「は、はい……」
 国の崩壊する瞬間すら目撃したことのある自分だ。些細なことでは驚かない――つもりであった。が、本気としか思えない殺意と、その直後剣呑さに転じた空気の差に、腰がぬけてしまったようである。どう力を入れても上がらない腰に、ティアレは思わず顔をしかめた。
 腰がぬける、とはよくいったものだ。本当に、抜け落ちてしまったかのように力が入らない。
 床の冷えた温度が足元を侵食していく。薄く積もった埃が、衣服の裾を汚した。後で、女官たちになんと言い訳しよう。黙りこくっていると、こちらの傍らに屈みこんで、ジンが顔を覗き込んできた。
「本当に大丈夫? 気分悪くなった?」
「いえ……。大丈夫です。ジン様はどうして、こちらに?」
「いやそれは俺の科白。ここは大臣たちも許可なしに入れない場所のはずなんだけど」
「それは、ラルト様が、書庫を」
「ラルトが? 書庫?」
 ジンは首を傾げた後、視線をティアレの頭上に走らせた。その先はおそらく、ティアレをこの部屋へと誘った扉だ。彼は納得したのか一度頷いて微笑んだ。
「書庫ね。暇つぶしに本でもいかがっていう感じかな? ラルトが許可出したの?」
「はい」
「なるほど。確かに、ここと繋がってるもんなぁ。でも鍵かかってなかった?」
「……掛かっていませんでした」
「アレ」
 おかしいな、と首を捻り、ジンは立ち上がった。扉を確認して、戻ってくる。
「掛かってなかったね。壊れたのかな。後で直しておかないと」
「……こちらは書庫の一角ではないのですか?」
 わざわざ鍵をかけてあちらとこちらを隔てる理由があるのだろうか。どちらにしろ、大臣ですらやすやすと足を踏み入れられない場所であるようだし。
「こっちは倉庫だよ。普通の倉庫は本殿の近くにもあるんだけど、その中でも特に人の目に触れさせたくないようなものを置いておく場所がここなんだ。あっちの書庫と同様、ここも許可なく入ることができない」
「……ジン様はどうしてこんなところへ?」
 宰相という位ならば入れるということだろうが、それにしてもこのような明らかに人気のない場所に来る理由があるとは思えない。部屋に置かれているものも一人で持ち運ぶには重量のあるものばかりだ。何かを取りにきた、というわけでもないだろう。
 宰相は肩をすくめて笑った。
「息抜きに。誰も来ないからね。気が楽なんだ。ここ」
「こんな、埃っぽい、ところでですか?」
「埃っぽいのは執務室も一緒だよ」
 笑いに身体を揺らして、宰相は言った。
「書類だらけでね。埃っぽいんだ執務室。重要な書類もあるし、なかなか掃除する機会がもてなくて。いい勝負だよ、ここと」
「……はぁ」
 書類だらけ、埃だらけの執務室。
いまひとつ、想像できない。
「立てる?」
 くすくす笑いながらジンが手を差し伸べる。ようやっと感覚の戻った脚に力を込め、ティアレは補助にと差し出されたその手をとった。
(つめたい)
 ひやりとしたその手に、身を引きそうになりながらティアレは立ち上がった。先ほど、首筋に触れたのはこの手だったのだろうか。氷のようだ、とティアレは思った。血の通っていない、金属か何かのような、その冷たさ――。
「ありがとうございます」
 ひとまず礼に頭を垂れ、ティアレは身を引いた。ジンの手に触れた手を思わずもう片方の手で握りこむ。氷の針か何かが刺さったかのように、じくじく痛む。自らの動揺を宰相に悟られたくなくて、ティアレは彼の目から顔を逸らした。
 ふと、飛び込んでくる女の微笑。
 壁に掛かった女の肖像画を再度認め、やはりこの女の顔はどこかで見たことがあると、ティアレは首を捻った。
 絵に意識を集中させたのは、宰相から意識を反らせたいという密かな思惑あってのことだったが、思いがけなく、ティアレはその絵に気を取られた。
 やはり、見たことがある。
 典型的な東大陸の特徴を持つ女性。
「レイヤーナ」
「レイヤーナ?」
 傍らから降り注いだ声に、ティアレは思わず宰相を仰ぎ見る。ジンは微笑んでティアレに並びその絵に視線を移した。
「気になるの? あの絵」
「……はい。……有名な絵なのですか?」
 最高級の娼婦として贅沢な品には文字通り浸かるかのごとく触れてきたこともある。だが結局は奴隷扱いと変わらぬ身分であったティアレは、絵画等の名称を覚えることなどはなかった。ジンの口からすべり出たのはおそらくこの絵の名称だろうと見当をつけたのだが、彼の口から続けて出た事実は、ティアレの予想とは僅かに食い違っていた。
「有名というか、そういうものじゃないねこの絵は。この絵は、皇族の肖像画の一枚だよ」
「……皇族の、肖像画?」
「そう。ほら、よくあるでしょ王様の絵とか。そんな感じ」
「では、あの方は皇家の姫君なのですか?」
 十中八九リクルイトの血族なのだろう。ならばどうしてこのような場所に、その絵が放置されているのか。
 眉根を寄せて思案するティアレの耳に、思いがけない回答が飛び込んできた。
「うんというか、ラルトの奥さんだね」


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