BACK/TOP/NEXT

第五章 レイヤーナ 1


 蝋燭が照らす明りの下で頁をめくる。
 張り付いてしまった紙を丁寧に剥がしながら読み進める。時折、描かれた挿絵の縁を指でなぞってみた。保持の魔術が掛かった絵は遥か昔の染料をそのまま保って、指で触れたところで今更掠れることはない。
 挿絵は美しく、叙事詩的で、どこか物悲しい。一人の女がいる。一人の男がいる。女は魔女で、男は皇帝になることを約束された存在だった。
 古い古い、始まりの物語。
 瞼を閉じた。本を閉じる代わりに。
 女の微笑の幻が、今日もそこにあった。


「次の着工は春からか。老朽化が激しいのに、春までもつのか?」
「うん」
「……おい」
「うん」
「ジン」
「う、んえ?」
 こちらに呼ばれてようやっと我に返ったらしい幼馴染は、慌てて居住まいを正していた。周囲余すところなく積み上げられた資料をひっくり返しながら、彼は誤魔化し笑いを浮かべる。
「え、っと。なんの話でしたっけか」
 ラルトは嘆息しながら天井を仰いだ。
「しっかりしてくれよ宰相。裏手の堤防工事の件だ。一つ残ってしまっているが、春まで持つのかどうかという話だって」
「あぁ、あれね。うん大丈夫。最後に残したのは一番頑丈そうなやつだよ。視察してきた土木工曰く、春どころか、再来年に持ち越しても多分大丈夫じゃないかってさ」
「調査報告書持ってるか? 俺の手元にないんだが」
「持ってるよ」
「あとで出してくれ。読むから」
「了解」
「あと来年の予算の修正と保険法の最終原案。それから、ロッセルマの官吏、今日中に選出しなければならなかったよな。推薦書もう一度読み返すから、お前持ってただろ?それもくれ」
「ん」
 ジンは詰まれた書類の中から、言われたものを器用に選び出して手渡してくる。ラルトは視線を動かさずそれらを纏めて受け取った。渡された書類をぱらぱらとめくってみたところで、ふとラルトは視線を感じて面を上げた。ジンが、ぼんやりとこちらを見つめてきている。疑問符を頭上に浮かべ、ラルトは様子のおかしい幼馴染を見つめ返した。
「何だどうした?」
「……勉強家だなぁって、思って」
「はぁ?」
「ラルトって超がつくほど不器用だけど、努力家で、勉強家だよね。全部それで救いようのない不器用な部分を補っちゃうもんね」
「……お前は俺を褒めたいのか貶したいのか」
「……多分どっちも?」
「……殴っていいか」
「遠慮しとく。多分褒めたいんだと思う。最近、なんだかんだいって狸のおっさんたちともいい感じだし? いい傾向じゃない?」
「一言一言が非常にとげとげしい理由は何かあるのか?」
「んー」
 なんでもない、と笑って膝の上の書籍に視線を落とす幼馴染に、ラルトは怪訝な眼差しを送った。最近、彼の様子が少し変だ。仕事からくる疲労とはまた別の、憔悴の色がある。
「大丈夫か? ジン。疲れてるなら休みを取れよ?」
「ううんいいよ。仕事してたほうが落ち着くし」
「中毒者め」
「それはラルトも一緒でしょうが」
 くすくすと笑う幼馴染に、ラルトは頭痛を覚えて思わずこめかみを押さえた。確かに、中毒といえばその通りかもしれないが。仕事をしていないと妙に手持ち無沙汰になるのが自分達なのだ。
「でも、あれだけ狸爺さんたちとの和解も、嫌がってたのにね。ティーちゃんとの約束の為?」
「馬鹿いえ。ティアレとの約束のためだけにそんなことするか。そろそろ、潮時だと思っていたんだ。わがままを、通すのは」
 ぱら、と紙を繰る音に混じって零れる呟き。胸中でラルトは呻く。そう、そろそろ潮時だと思っていた。
 子供のような我侭が通せるほど、国を治めることは容易ではない。剣を握って父皇から玉座を簒奪[さんだつ]した七年前に、この国を呪いから救い出すためなら何でもやってみせると、そう誓っていたはずだった。
 三年前、その誓いは重い枷となって手足を捉えた。犠牲が、あまりにも大きすぎて。
 このままだと、枷に引きずられて、呪いの中に溺れ沈んでいってしまいそうだった。
「何かきっかけが必要だったんだ。彼女の存在はきっかけに過ぎないさ」
「きっかけになりうるほど衝撃的な出逢いだった?」
「……なんだお前やけにつっかかるな。どうした?」
 報告書から面を上げて、ラルトは幼馴染を見た。正確には、彼の背中を。振り返った幼馴染は、いつもと変わらぬ人好きのする笑みを湛えてはいるが、どこか疲れて見えた。最近、仕事が立て込んでいる上に夜は冷え込むようになった。滅多に体調を崩す男ではないが、彼もまた人間だ。疲労は身体に蓄積されていく。
 首を傾げている頬杖をついて再度書類に目を落とした。年末にかけて成すべきことが山積みだということを、痛いほど判らせる文面がそこにある。
 ふと、幼馴染の笑い声が掻き消えた。気配すらも。
 怪訝さに面を上げて、認めたのは机を挟んで佇むジンの姿だった。まっすぐに見下ろしてくる亜麻の双眸は置き去りにされる子供のそれで。彼がそのような目をすることは滅多にないが、全く目にしたことがないわけではない――三年前のあの冬に、自分たちは互いにこのような目をして、途方に暮れた。
「ラルトは変わった」
「……何が?」
「さぁ。よくわからない」
「どうした。お前、すこし変だぞ?」
 判らない、と幼馴染は繰り返した。窓の外に何気なく視線を逃がす彼は、いつもと変わらぬ様相であったが、どこか瞳の焦点があっておらず、ラルトに首を傾げさせ続けた。
 幼馴染は繰り返す。口元を自嘲のような笑みに歪めて。
「変わったよ」
 僅かな余韻を含む彼の言葉は沈黙を連れてくる。ラルトは嘆息すると、椅子から腰を上げた。
「疲れているなら適当に休憩とれよ。特に明日からはきりきり働いてもらうからな」
「フベートへの視察だったっけ」
「俺がいない間の全権はお前が握るんだぞ」
 歩み寄りながら忠告する。
「今日みたいにぼけっとするぐらいなら休みを取れ」
「っつっ」
 亜麻の髪に覆われた頭を軽く小突いて、ちらばった書類を踏まないように注意深くラルトは扉へ歩を進めた。それほど痛いわけではないだろうに、小突かれた頭を押さえたまま幼馴染が問うてくる。
「どこ行くの?」
「休憩」
 振り返りながら、ラルトは応じた。
 書類と書籍に埋もれた幼馴染に、一言付け加える。
「お前もとれよ」


「もう大丈夫ですな。今度は無理してはなりませんぞ」
 今度は、の部分を強調して、老いた御殿医はティアレにそう言い置いた。彼の傍らでラナが苦笑をかみ殺している。ティアレは包帯の取れた足をさすり、小さく頷いて感謝の言葉を口にした。
「ありがとうございます。リョシュン先生」
 御殿医の老人は鷹揚に頷くと、医療用具を鞄の中にしまいこんだ。ではまた、と彼は一礼し、また検診にくると言い置いて退室していく。痩せた、けれども凛と伸ばされた老人の背中を見送ったティアレは、再び自らの足に目を向けた。鎖の後も草木でつけたすり傷も、ほんの少し跡が残るばかりだ。高い魔力は宿主を自ら修復する。程なく、この傷跡も跡形もなく消えるのだろう。
 その足に、ぱさりとかけ布がおとされる。布の端を持って微笑んでいるのは赤毛の女官だった。
「いくら招力石で温度が保たれているとはいいましても、冷えますわ。お風邪を召してしまいますし」
「……はい」
 さぁ、と眠るように促す女官に頷いて、ティアレはかけ布を胸元まで引き寄せた。
 が。
「皇帝陛下のお出ましでございます」
 扉の向こうから響いた別の女官からの通達に、ティアレは敷布におとしかけた身体を慌てて支えた。寝台に手を着き、身を起こす。程なくして寝室に足を踏み込んできたラルトは、ティアレの姿を見るなり小さく肩をすくめた。
「悪い。寝ようとしていたのか?」
「……いえ」
 大丈夫です、と告げると、そうか、というそっけない返事。控えるラナが椅子を引き出しかけたが、ラルトが片手を振ってやんわりとそれを辞退した。すぐ行く、ということらしい。
「足の様子はどうだ?」
「リョシュン先生が、もう大丈夫ですと」
「歩けるって?」
「それは……」
 どうであるかは判らない。
 ただ、無理をするなとは言われたが。
 ラルトが腕を組み、やや思案して口を開いた。
「離宮の中で少しずつならしていけばいいだろう。離宮の中なら一人で自由にうろついていてもかまわない。女官を供につけるのなら、庭の散策もしていい。離宮の庭からはずれてもらっては困るが……まぁ十分広いからな。当分飽きることはないだろう」
「はい」
 離宮自体はそれほど大きなものではないものの、それを守るようにして取り巻く庭はかなりの広さがある。ティアレは今までそれほど自由に物事を見て回ることを許されていなかった身だ。冬の庭はそっけないものでも、想像するだけで胸を高揚させるものがある。
「あとそれと、明日から数日視察にでるから、ここには来られない」
「視察、ですか?」
 鸚鵡返しに尋ねると、ラルトが軽く首を縦に振った。
「フベート地方の……と、いってもわからないか。ここから馬車で三日ほど行ったところにある地方の視察だ。戻るのは長くて十日後、短くて七日後」
「大変ですね」
「そうか?」
 肩をすくめて聞き返してくる皇帝に、ティアレは閉口せざるを得なかった。十日も使っての視察とは、大そうなものではないのだろうか。もっともティアレは、そのように熱心に視察に出かけるような皇帝に出会ったのはラルトのみであるから、その煩雑さがどの程度のものであるのか想像することもできぬのだが。
「それでだ」
「はい」
 まだ用件があったらしい。言葉を続けるラルトに向き直って、ティアレは頷いた。
「帰ってきて落ち着いたら、どうだ? 街へ出てみないか?」
「……はい?」
「あら素敵ですわ!」
 ラルトの申し出に、拍手を打って歓喜の声を上げたのは、ティアレではなくラナだった。
「陛下もご一緒に?」
「個人的に見て回りたいこともあるからついでにな。……離宮に篭っていてもつまらないだろう。いい機会だから連れ出してやろうと思って。無理にとはいわないが」
 二人の視線が注がれて、ティアレは思わず鼻白む。一体、何を自分に求めているというのだろう。
「どうだ? 行きたいか?」
「行きたいとは……どこへ」
 ぼそぼそとしたティアレの回答に、皇帝は盛大に嘆息して呻く。
「聞いてたか? 街に出たいか出たくないかって聞いてるんだ」
「陛下、そのように威圧的に尋ねられては答えたくとも答えられませんわ。ねぇティアレ様?」
「あのなぁ……」
 呆れの眼差しをラナに向けかけたラルトに、ティアレは慌てて口を挟んだ。非難が自分に向くのならともかく、自分に付き添ってくれている女官に向いてはたまらない。
「い、いきます」
 ラルトが自分を省みて、小さく苦笑した。
「無理していく必要はないんだぞ?」
「いえ。あの……行きたい、んです」
 行きたい。
 口の中で言葉を反芻しながら、願望を述べる言葉を口にするのは何時振りだろうと、ふとティアレは思った。
 かつてないほどに自由が保障されているこの離宮での生活に戸惑いこそすれ、不満を覚えたことはない。だがそれでも傷が癒えていく日々の中、外に全く焦がれなかったわけではなかった。一度自由を許されると、貪欲さは増す。ただ、許されないことだとは自分に言い聞かせていた。
 ティアレは、自分の軽率な所作一つが、この国に滅びを招き入れることを知っていた。
「じゃぁいこう」
 皇帝はあっさりそういった。
「日にちは追って連絡する。俺が視察から帰ってこないことには日程を調整することもできないしな。せっかく誘っておいてなんだが、多分外に出られる時間は少ない。何か見たいものとかしたいこととかがあれば、決めておいてくれ」
「はい」
 と、即座に頷いてはみたものの。
 見たいものやしたいことといわれても、そもそもどんなものがこの国にあるのかすら知らないティアレは、考えようもないのだが。碌々外に出たことのない身なのだ。出るだけで、おそらく自分は満足するだろう。
 ふと、ティアレは視線を感じて面を上げた。寝台の脇に佇んだまま、ラルトがじっとこちらを見下ろしている。その、暗い炎の色に見入られ、戸惑わないものはいないだろう。ティアレもまた例外なく、瞳に映りこんだ当惑した己の顔を見た。
「……あの……なにか」
 まるで、何かティアレの顔についているといわんばかりの見入りようだ。
 皇帝は笑い、ゆっくりと頭を振った。
「いや。血色よくなったな、と思ってな」
「けっしょく」
「きちんと食べろよ。……ラナ、他の女官たち共々留守は頼む」
「かしこまりました」
 ラルトはぽん、と軽く手をティアレの頭に乗せ、官服の裾を翻して退室していく。深々と頭を下げるラナと、視界から消えかかっている皇帝の背中を見比べて、ティアレは慌てて頭を下げた。


「いってらっしゃいませ」


 ばたん
 見送りの声と扉が閉じられる音が重なった。馬車の中は静まり返っている。やがてごとごとと揺れを伴いながら、馬に引かれて小さな車は前進を始める。
 ラルトは敷物の位置を調節して、書類を手に取る。移動の時間を潰す、もとい有効活用するための仕事の書類だった。
 黄ばんだ紙面に視線を落としかけて、ふとラルトは窓の外に幼馴染の顔を見つけた。目が合うとすぐに笑みを返し、手を振ってくる幼馴染に、ラルトは軽く笑んで手を振り返してやった。
 ジンはラルトに残された唯一の血族だ。シオファムエン家はそもそもリクルイト家の分家に当たる。双子の兄弟同然に育った彼が、まだ自分の手元に残されていることは何よりもの救いだった。
 今朝の出来事を思い返す。どこか上の空の様子の幼馴染。お互い、疲れが溜まっているのだろう。ジンは政治の責の半分を背負っているのだ。
(あと、少し)
 年の瀬であるため仕事の区切りが付きにくいが、春待ち祭りと年明けの儀が終われば少しはのんびり出来る。年が明けたら、そう思いかけ、そういえばここ数年、二人でのんびりと酒を酌み交わすこともなくなっていたことにラルトは気がついた。執務室で仕事がてら茶を飲むのがせいぜいだった。最後にゆっくりとしたのは何時のことだったか。もう、記憶にない。
 ラルトは壁面に背中を預けながらぼんやりと思った。つまりは、それほどまでに自分は余裕をなくしていたということなのだ。
 ティアレがラルトの元にやってきて以来、ラルトは彼女の様子を見るため執務室から離れる時間が増えた。それは、国や自分の立場を危険に晒してわがままを通した自分への責任あるいは義務感のようなものからだったが、ほんの僅かな時間とはいえ執務室から離れることは、ラルトに少しずつ自分や周囲を見つめる余裕を生み出しているらしい。何年も、ろくろくゆっくりしていないことに今更気付くなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがあると思ったが、それでも今ようやっとその事実に気付くことができたのだと思えば、進歩だろう。
 レイヤーナのことを思い返す。かつて愛した女のことを。どうして、といっていた。繰り返し繰り返し、どうしてもう少し、時間が取れないの、と。玉座に登ったばかりのあの頃。自分もジンも目の前に溢れかえる課題に立ち向かうことで精一杯だった。三人で語り合う時間さえ自分たちは惜しんだ。その結果が、レイヤーナを歪ませてしまった。
 レイヤーナ。
 自分たちにとって裏切りの呪いの象徴となってしまった女。
 ラルトは組んだ両手の甲に顎を乗せ、瞼を閉じた。
 年が明ければどこかに出かけよう。そう思った。まだ世界を知らぬ女、ティアレを連れて。気晴らしと称し、ジンを引っ張り出して、どこか遠駆けにでもと。
 たった一日であっても、執務室の、紙と墨の臭いから離れてみるのも、悪くはないだろうと。
 ラルトは思った。


BACK/TOP/NEXT