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第四章 奥の離宮にて 4


「ついたぞ」
 ひとまず目的地についたことを知らせる意味合いで、ラルトは抱える女の身体を僅かに揺すった。眠たかったのだろうか。とろとろと瞼を下ろしかけていたらしい女は、はっと息を呑んで面をあげる。ラルトは彼女の身体を、傍の長椅子にそっと下ろした。いくら一般的な女に比べれば軽い身体だとはいえども、長い間抱え上げていれば腕も痺れるというものだ。腕を振り、軽く伸びをする。一息つくラルトの横では、ティアレが感嘆ともとれる吐息を漏らしていた。
「……星が」
 そこは、奥の離宮の庭先の池の中央に設えられた東屋だった。
 長椅子と卓だけが置かれている小さな東屋。風鈴を模した招力石が取り付けられている。明かりと、雨風を避ける効力を持つ招力石は、蝋燭に明かりに似た橙のそれを宿して控えめにこぢんまりとした東屋を照らし出している。その周囲を取り囲むのは、池の水。それは夜の暗闇と星空を写し取り、東屋に存在するものに、宇宙[そら]にいるかのような錯覚を起こさせた。
 周囲には何もない。
 星と、風と、静寂[しじま]のみ。
「遠出できるなら街の様子をみせてもやりたかったが、こうもとっぷり日が暮れてしまってはそれもかなわないからな」
 奥の離宮の周辺で、一番美しい世界を見ることの叶う場所といえば、この場所しか思い当たらなかった。
「俺も久しぶりに来た」
 本当に、久しぶりに――。伸びをしながらラルトはそう思った。奥の離宮の敷地内でもひときわ奥に位置するこの東屋は、母とジンの母のお気に入りの場所だった。
 そして自分たち三人の。
 レイヤーナは、一人、この場所で物思いにふけることが多かったという。彼女に与えられた部屋は奥の離宮ではなく本殿にあったというのに、人の目を盗んでこの場所まで忍んできていたという。
 懐かしい場所。春は梅の花びらの浮かぶ水面を、夏は太陽の光煌く水面を、秋は紅葉の色を写した水面を、そして冬にはこの星空を。
 三人で愛した。母たちの思い出を引きずりながら、それを踏み越えるために自分と、ジンと、レイヤーナの三人の笑いでこの場所を満たした。
 この場所だけではない。
 この国のどの場所にも、優しい思い出が染み付いている。
 優しすぎて、優しすぎて、心を[くび]り殺す。
『ラルト』
 少女の明るい呼び声が響いて。
 息詰まるような切なさが、潮の様に満ちて、胸を掻き毟りたくなるのだ。
 だから。
 来たくなかった。本当は。
 いつか、一つ一つ訪ねて古い記憶に別れを告げなければならないと知っていた。薬を塗るために、傷を直視しなければならないと知っていた。けれども今まで出来なかった。この場所まで来るには、理由が必要だった。
 この場所に染み付いた思い出も何も知らず、純粋に、この場所の美しさに感嘆してくれる誰かが。
「綺麗だろう?」
 問うと、ティアレは頷いた。あまり表情を動かすことのない女であるが、今ばかりはこの満天の星に囲まれる光景に、見惚れているようだった。
「……昔」
 ティアレが長椅子から身を乗り出し、水面に映った光をじっと見つめながら口を開いた。
「名は忘れましたが、国から国へ連れて行かれる最中、荒野を渡りました」
「荒野」
「……褐色の大地。何も育たぬ不毛の土地です」
 国からほとんど出たことのないラルトは、荒野というものを理解することができない。水の帝国領内は荒れてはいても、広がるのは耕されない田畑であって、何も育たぬ不毛の地ではないからだ。静かに目を閉じ、女の語る荒野の姿を、瞼の裏に想像力で以って描き出すしかなかった。
「野党に襲われ、私は一人隠れた。荒れた土地の窪みに身体を横たえて、空を見上げました。……そのときにも、視界全てを埋め尽くす、星が見えていた」
 何もない。荒野の果て。女が一人、土に還るように息を潜めて横たわる。
「あまりにも広大すぎて、孤独を引き立てました。私を嘲笑っているようにも見えました。綺麗だとは、とても思えませんでした」
 視界を遮るものは何もなく、ただ墜ちる、星の瞬き。
「不思議ですね。この場所に墜ちる星は、まるで人の命の瞬きのように思えます。……とても、温かい」
 目を開いたラルトは、女の頬を滑り落ちる涙を見て、穏やかに、驚きを込めて尋ねた。
「……何故、泣くんだ?」
「何も私にはできないからです」
 ティアレは即座に答えた。唇を引き結び、美しい柳眉を僅かに歪めている。長椅子の上に腰を下ろした女が、その膝の上に置いた手に力を込める様を、ラルトは認めた。
「この星の数ほどの人を、私が滅ぼすのです」
「まだそうだと決まったわけではないだろう。……前にも言ったが、この国は滅びない。消えない」
「裏切りと、永久存続の呪いある限り……? そうですね。ですが、たとえ貴方が生き残ったとしても、私の存在は貴方から何かを奪うでしょう。私の呪いがなくとも。後ろ盾の何もない娼婦の女が、皇帝に近づくことの意味を、私自身知らないとお思いですか」
 水晶のような雫を頬に零しながら、女は決然とラルトを見据えていった。その女の瞳こそ、夜空のようだと思った。魔の世界そのものを写し取った、美しい、けれども恐ろしい七色に移ろう銀の瞳。
 その瞳に宿る、気の毒なほどの叡智。
 女は聡明だった。哀しいほどに。その聡明さが、どれほど呪いとともに女を傷つけたのだろうと思った。
「私には何もできない」
「何も見返りなど求めてはいない」
 この女に何も見返りなど求めてはいないのだ。
 最初から。
 ただ、呪いの重みを理解しつつも、何も知らぬものがほしかった。この国に染み付いた呪い、この国に染み付いた記憶、この国に染み付いた血と慟哭と涙。
 果たして、ティアレ・フォシアナは現れた。呪いにもがき苦しむ自分とその存在は重なって見えた。
 もし、この女に何かを求めていたというのなら。
 彼女を解放することは、自分を解放することに繋がると、無意識に思っていたのかもしれない。
「申し訳ございません」
「謝る必要がどこにある?」
「貴方の目の前に、現れてしまったことを」
 貴方も十分に、呪いに苦しんだのでしょうに。
 女の眼差しが言外にそう語っていた。
 国のどこかしこも呪いの傷跡が覗いている。引き攣れたような痛みが走る。誰とも会いたくはない。誰も愛したくはない。誰も信じたくはない。仕事に逃げるのは簡単だった。紙の束に埋もれていれば、傷跡を直視することはない。
 女の存在は良くも悪くも、自分に呪いという存在に目を向けさせる。それは、自分が望んだことだった。
 きっかけが必要だっただけだ。
「謝るな」
 ラルトはティアレの傍らに腰を下ろし、彼女の身体を抱き寄せて囁いた。
「謝る必要など何もない。俺の勝手だったんだ」
「けれど、とても、ここの方々に、優しくしていただいているのに」
 ティアレは何も出来ないと嘆いた。そればかりか、恩を仇で返すことになると。
 ラルトは冷えた女の手を握り締めていった。
「そういう時は、礼を言え。謝るな。本当に申し訳ないと思うなら――」
「シノも、そのように仰っていました」
 ティアレはほんの少し表情の緊張を緩めてそう呟いた。表情の変化はほとんど見られなくとも、声にはわずかばかり笑いが込められているように思えた。
「笑って、ありがとうと、申し上げればよいのですよと……」
 彼女はラルトの手を握り返した。床に就いてばかりの女の手の力は、とてもとても、弱かった。
 それは手の甲と腕に残る、かつて愛した女の爪の感触の残滓を、柔く覆った。
 しばらく沈黙が落ち、やがて途方に暮れたような女の呟きが、ラルトの耳朶を振るわせた。
「けれど、私には、笑い方が、わからないのです」
 ラルトはティアレを見下ろした。肩口に頭を寄せる女は、水面に瞬く星の輝きを見つめて微動だにしない。
 女が表情を動かさない意味を、ラルトは今初めて知った。
 女は、表情を動かさないのではない。動かせないのだ。繰り返し繰り返し、人の滅びに、死に、怨嗟に嫉妬に、晒された女の精神はおそらく彼女から表情というものを削り取ったのだろう。
 今、女は泣いている。けれどもラルトがよく知る、顔を歪めて泣きじゃくるという様相ではなかった。感情に押されて、ただ、涙が零れた。そのように見えた。
「有難うという言葉の意味が判らないのです」
 感謝の言葉の意味を、ティアレは知らないという。
 ただ、憎まれ疎まれてきたばかりで。
「笑い方など、これから学べばいいだろう」
 ラルトは抱く手に力を込めていった。そう。笑い方など、これから学んでいけばいい。
「何もしてやれないなんて、奢ったことを思うな」
 ただ、その場にあるだけで、人が救われることもある。
 自分が思い出の[こご]る場所に、再び足を踏み入れることができたように。
 その存在があるだけで、救いのときもある。
「ただ、有難うといえばいいんだ――そういうときには」
 再び沈黙の帳が落ち、二人分の吐息と梢の揺れる音だけが唯一静寂をかき乱すものとなった。女の体温がラルトの身体になじんだ頃、女はぽつりと、小さく零した。
「……ありがとう、ございます」


 シノはこの上なく上機嫌だった。たとえ女官長としての仕事が多忙を極めていても。その合間を縫って行うティアレの世話は、シノにこの上ないほどの喜びをもたらした。頂点に立ち、他者に指図することを至上の喜びとするものもいれば、誰かに仕えることに喜びを見出すものもいる。どうやら自分は、典型的な後者の人間であるらしい。生家に戻ればシノもまたそれなりの一族を統率する立場にあるが、そんなつもりは毛頭なかった。自分は既に、人生の大半を、人に仕えることに費やしている。
 古い記憶が、蘇る。
 二十年近くシノが仕えた少女は、よくあれをしてこれをしてとシノにねだり、それは彼女が正妃の位についてからも変わらなかった。一方のティアレは正反対。何事も自分で黙って行おうとする。少しずつ、口数も増えてきたが、常に控えめで、何かをしてやると当惑すらしてみせる。最近は縫い物や機織、商人の手引書などを読みふける彼女は、傷が治ればこの場所を出て行く心積もりらしい。これからの身の振り方を考える。そのように、ラルトと約束を取り交わしたためであるらしかった。
(この場所にこのままいらっしゃってもかまいませんのに)
 ティアレがここにいる限り、ラルトが三年前のあのことから、仕事に逃げることはない。奥の離宮に足を運ぶようになり、仕事から離れ、少し心の余裕を取り戻し始めた皇帝を思って、シノは胸中で呟いた。
 だが、ティアレはこの場所に留まるつもりはないようだ。
 ティアレは優しい。そして謙虚で、聡明。あの賢い婦人には、己がこの場所に留まり続けるということの意味が痛いほどにわかるのだろう。
 彼女は、娼婦だったという。
 権力者から権力者へ。時に奴隷のように、時に人形のように、扱われつづけてきた、娼婦だったという。
 夕刻から夜半まで、ずっと衣装合わせに付き合っていた。困惑の表情を浮かべながら言われるままに衣装に袖を通す女は、まぼろばの土地から神が下されたのではないかと思うほど、美しかった。初めて見た時は、そのぞっとするような美貌に、同じ女として恐怖すら覚えた。すぐにそれは消えたが、あの美しさ、あの叡智、気性、気品は、誰にもまねできない。ティアレは賢いがゆえに、己がもつ美しさの意味も知り尽くしている。
 だからこそ、この場から早く立ち去ろうとしている。
(一つ誤算だったのは、陛下が相当鈍いということだったのでしょうけれども)
 ラルトは美醜に対する感覚はあるが、それに心を狂わされたりはしない。ラルトがティアレに興味を覚えたのは、純粋にティアレの一風変わった性格や、気性にあるらしかった。また宰相も同じくだ。綺麗なお姫様だよね、の一言で、あっさりと流してしまった。
(陛下も閣下も、実は相当変わった方でいらっしゃるのかしら)
 などと、書類を抱えながら思考をめぐらせていると、珍しい人物から声がかかった。
「シーノーちゃん」
「閣下?」
 このくそ忙しいときに一体どういうご用でしょうかと、シノは歩み寄ってきたジンにゆったりと微笑みかけた。羽織っているものは派手目の一張羅。腕には傍目にも重量感のある書籍。相も変わらず、気のぬけたといっては失礼だろうが、緊張感の欠けた笑みを浮かべている。その笑みだけで職種を判断するなら、どこぞの芸人で通ってしまいそうだった。
 だが実際、この国を支えている一人が彼なのだ。
 混沌時代から抜け出した功績がラルトのものなら、三年前の<内部分裂>を乗り切り、どうにか現在まで持ちこたえているのは、彼の手腕によるものだ。
 誰にでも笑顔を振りまき敵対心を萎えさせる、この男の人徳というものがなければ、全てを拒絶した皇帝のもと、再び家臣が収集されることはなかっただろう。
「どうかなされましたか閣下?」
「ううーん。見かけたから声をかけてみただけー」
 シノは一瞬凍てつかせた笑顔を一層頬に刻んで、対峙する男を威嚇した。
「あら嫌ですわ閣下。閣下ほどではございませんが、ワタクシとて仕事を抱える身。何か用事がおありでないのでしたら、失礼させていただきますがよろしゅうございますか?」
「あはははごめんねぇ。でもちょっと待って」
「閣下」
 嘆息して、いい加減にして欲しいと訴えかけ、シノはふと捉えた男の視線に、唾を嚥下した。本殿の廊下の一角。夜も更けたこの時刻、往来は皆無に等しい。
 このように、宰相と二人、対峙するのは何時振りであるのだろう。
 自分たちの関係は、三年前から一変してしまった。互いが互いを倦厭し、距離を置くようになった。事務的なこと以外は一切話さない。そうしなければ、ならない。
 そうしなければ。
『本当に、話すことはなにもないのか? シノ』
 硬く目を閉じていた間に。
『沈黙が罪になることもある』
 犯してしまった罪を。
『シノ、本当に……』
 直視してしまう。
 シノは、拳を握り締めながら、ジンに対峙した。
 突然話しかけてきた彼の胸中の、得体が知れない。
 ジンは穏やかに笑って、問うてきた。
「お客様の様子はどう?」
 お客様――奥の離宮に滞在する客人。つまりティアレのことだ。
 シノは眉をたわめて尋ね返した。
「……体調ですか? それなら少しずつ良くなっていらっしゃいますが。……ですが閣下。そのようなことこの場所では誰かに聞かれていたらどうなさいますの? 折角必死になって」
「隠しているのに?うん。判っているけどね」
「閣下――」
「でもどうせそのうちばれるよ。まぁ自分からばらすような真似はしないから安心してほしいなシノちゃん。俺の口の堅さなら、君も知っているだろう」
 シノは、押し黙って深くため息をついた。彼にそういわれたら、シノはもう何も言えない。確かに自分は、彼の口の堅さは重々承知している。
「だけど俺、結構意外だった」
「何がでしょうか?」
 首を傾げるシノに、ジンは肩をすくめて見せた。判らないのか、と言外に問うてくる。
「シノちゃんもっと反対するかと思ってたからね」
「反対してほしかったような言い方ですわね」
「そうじゃないけどね。意外だったっていう、ただそれだけの話」
 シノは黙って、ジンが浮かべる自嘲めいた笑いを見つめた。低く喉から漏れる笑い。この人は、いつからこのような笑いをするようになったのか。
 三年前を思い返す。
 陶器が砕けて抱き起こした男の身体が冷えていった、あの秋の始まりを。
 森の奥の塔で、長年仕えた少女が、全てを放棄した、血も凍るような寒い冬を。
「反対しないのは、理由がないからでございます」
 書類を抱える手に力を込めて、シノは呻いた。
「理由なんてどこにでもある」
「私は、あの方にこのまま、陛下のお傍にいてほしいと、そう思っております」
「……シノちゃん」
 咎めるようなジンの声音に、シノは静かに目を閉じる。
 ジンの言いたいことは判る。ティアレに早く身の振り方を決めるように促していたのも彼だ。一時はこの上ないほどに荒れた宮廷内部。ようやっと落ち着いたその折に現れた、皇帝に近づく元娼婦の女。図式としてはあまりによろしくない。
 だが、ティアレはその素性を裏切って、高潔な女だ。そして貴族の女に負けずとも劣らぬ気品がある。下準備次第では、穏便に彼女を表舞台に立たせることもできるだろう。
「陛下には、どこか還る場所が必要なのです。閣下」
「言い方は悪いけど、来て間もない得体の知れない女に、そんな期待を寄せるなんて。随分と君も入れ込んだものだねシノちゃん」
「閣下」
 ジンの瞳は冷ややかだ。笑みそのものは人懐こいものであるのに、その亜麻色の双眸の輝きは、まるで氷か何かのように冷たい。
「ヤーナのように、壊れるとも限らないのに? 君がそれをいうの。誰よりも間近で、彼女が壊れていく様を見ていた君が」
 ジンの言うべきことはわかる。たとえ不信な素性をどうにかすることができたとしても、 まだこの国には呪いが残っている。
 呪いは関わるもの全ての心を蝕む。
 今も記憶には、愛するものを裏切るべきか裏切らざるべきか、誰も知らぬところで、ぎりぎりの狭間で彷徨い壊れていった女の姿が焼きついている。
「……けれど閣下。そんなことを仰って、いったい何時になったら、呪いから抜け出すことができるのですか?」
 もうラルトは呪いに十分苦しんでいる。君主の苦しみは自分たちの苦しみだ。たった一人でこの国の行く末を背負い込んだ若き皇帝に、少しでも安らぎがあってほしいと、望んではいけないのだろうか。
「未来を恐れていては、何も変わりませんでしょう閣下。このままではこの国は、過去を引きずったままになってしまう」
 少なくとも、ティアレは過去に囚われ続けていたラルトの意識を、現在に向けさせることに成功したのだ。ならば賭けてみても、いいのではないか。
「ならば……」
「俺ちょっと、寂しいのかもしれない」
「……は?」
 言葉を唐突に遮られ、シノは思わず呻きを漏らした。
 ジンが苦笑しながら、泣きそうに目を細める。
「ラルト取られたみたいな感じなんだろうと思う。誰も成しえなかった。ヤーナの亡霊に囚われ続けるラルトを、救い出すことは。俺たちでは無理だった。なのに、彼女にはそれができた」
「……閣下」
「判ってる。俺たちもまた亡霊に囚われている。だから……」
 ジンの言うことが、判らないわけではない。
 書類を抱きかかえながら、シノは思う。
 ラルトの変化は明白だった。少しずつ、昔の彼に戻っていく。生真面目で頑固、筋を通したがる部分は昔からであったが、以前の彼は今よりももっと柔らかかった。子犬のようによく笑った。ジンと結託して悪戯をよくしていたし、口にする冗談の数も多かった。
 けれど何時しか、ほんの時折しか見せなかった暗い影と、頑なさだけが、前面にでるようになった。
 その彼を、戻しつつあるのが、ティアレだ。
 自分たちが三年掛かって成し遂げられなかったことを、彼女はここに来てほんの僅かの期間で、やり遂げようとしている。
 それが、悔しい。
 けれどそれを言って、何になる。
 自分はただ、願うだけだ。
 どうか、彼の女が呪いに囚われませんように。
 そうして、ラルトを呪いの囚人に戻しませんように。
 ジンが笑って、シノの横をすり抜ける。
「いいたかったのは、ただ、それだけだよ」
 宰相の気配が遠ざかっていくのを感じながら、シノは呟いた。
「……閣下は、本当に、陛下を愛しておいでですね」
 靴音が一瞬止まり、自嘲を含んだ笑いが無人の回廊に響く。
「……それはシノちゃんも一緒だろ」
「えぇ」
 シノは頷いた。
 そう、自分たちは愛している。
 自分たちの生きる証ともいえる、皇帝を。
「忙しいところ悪かったねシノちゃん」
 振り返ると、ひらりとジンが手を振っていた。
「またね」
 遠ざかり、次第に聞こえなくなる男の足音。
 シノは口元を覆い、その場で膝を抱えて嗚咽を漏らした。
 罪の償いの仕方を、彼もまた模索しているのだということが、わかったからだった。


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