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閑話休題 ひぐれのにわ 1


 白く広い空間に、艶めいた笑いが満ちている。
 整えられた最高級の調度。絶え間なく流れ続ける美しい音楽。精緻な細工を施した装飾品。
 光沢ある絹綺物。そしてそれらを優美に纏う、女たち。
 彼女らは誰もが、この国で貴族という名前の家か、裕福な商家、もしくは、他国の王家に生れ落ちた女たちだった。
 その中に一人、ひときわ目を引く女がいた。
 衣装の仕立ては広間に集まる女たちの中で誰よりも簡素だった。何人もの侍女を従える女たちに混じって、彼女が従える侍女はたった一人だ。空間の片隅で、彼女は数人の婦人たちの話に耳を傾けていた。
 緩やかに巻かれた、秋の夕焼け色の髪を頭の右上で結い、女たちの話に頷くたびに、煙る睫毛が瞬きに動く。白い肌は真珠のように滑らかで、慎ましやかに絹綺物に包まれていた。女たちと一線を画すのはその瞳だろう。七色の銀が移ろう、摩訶不思議な瞳だった。
 美しいと、誰もが息を呑み。
 美しすぎると、誰もが戦慄し。
 そして、目が離せぬ女だった。
 唐突に、広間の扉が開け放たれた。
 着飾った女たちが動きを止める。扉の彼方の回廊には、この広間のある城に仕える女――女官たち十数人が、隊列を組んでいる。異様な雰囲気と驚愕に、貴族の女たちは息を呑んだ。
 女官たちはにこりと微笑み、皆一礼をして広間に足を踏み入れた。かつかつかつという早い靴音。それらは真っ直ぐに、広間の片隅で控えめに微笑む女の下へと集う。
 女官たちは美しすぎる女の前に立ち一礼すると、一斉に膝を地につけた。
「おめでとうございます」
 女官が一人、面を上げて、微笑む。
「新たなる我らが母、誕生の報、喜びの念に絶えません」
 別の女官が言った。
「我ら女官一同、この身終えるまで誠心誠意お仕えしていく所存にございます」
 女はゆったりと微笑んだ。
「ありがとう」
 そして視線を上げる。女官たちが入ってきた入り口に、一人の男が立っていたからだ。
 黒曜石色の髪に、暗い炎の色の瞳。簡素な、しかし誰よりも上質な布で仕立てられた衣服を身につけ、腰に剣を提げている。女は立ち上がった。男が、手招いていたからだった。
 男と女が歩く様は、美しい一枚絵のようだ。
 女官以外の女たちは皆、感嘆のため息を零し、我に返ったその刹那、愕然としながら一つの事実を知ったのだった。


 水の帝国ブルークリッカァに、正妃が立ったと正式に公布がなされた。
 ティアレ・フォシアナの立后である。


ひぐれのにわ


「お疲れ」
 奥の離宮の中にある広間。
 酒を手ずから持ってきたラルトが、琥珀の液体ゆたう瓶を軽く掲げながら言う。ティアレは彼が持ってきた玻璃の杯に、その液体を注がれながら笑った。
「ありがとうございます」
 今日、正妃査定が終了した。これから式典諸々はあるものの、文面上ではこれでティアレは正式に正妃である。
 そもそも査定とは、国外から正妃として輿入れすると内定した娘に対して行われる内々の儀式である。内定した段階から一年間、貴族として社交界の中に入りながら、この国の文化風習を学ぶということが、この査定の名目。
 だが実際は、長い歴史を有するが故に複雑怪奇と化したこの国の社交界を通じて、異物を排除しようという悪習だ。他国から正妃として立后しようとした娘が歴史上幾人もいる中で、よほどの大国の出自でないかぎりこの査定によって泣きをみた。
 ティアレは見事にその査定を終了した。大臣たちもしぶしぶといった形で、ティアレの魅力と才覚に抗えず、了承の判を押したのだ。
「ま、判がなくても強引にするけど」
「ラルト」
 酒に口をつけながら宣うラルトに、ティアレは思わず苦笑を漏らす。そして杯に唇をつけながら、ティアレはこの一年間を思い返していた。
 元は娼婦としてこの国に献上され、そして今は正式な后。この立場の変わりようもそうだが、何より査定というものを通じて知ったこの国の実体への衝撃のほうが大きかった。
 ラルトが、何故、命を懸けて、この国を変えようとしたか判った気がしたのだ。査定は十分すぎるほどに、ティアレにこの国の闇を見せた。
 この国は、暗い。
 才気溢れるものもいる。経験を積んだ猛者がいる。だというのに、誰もが暗いのだ。誰もが、暗い歴史を引きずっている。誰もが、陰鬱としている。
 そして誰も、前へ歩き出そうとしない。
 徹底した、保守。
 そして、貧困に喘ぐ民。彼らと貴族の、その意識の差。
 それら全てを、ラルトは背負っているのだ。
 心休まる暇もないだろう。それほど鬱蒼とし、複雑な、闇の網がこの国を覆いつくしている。
「ティアレ」
 ラルトの呼び声に応じて、ティアレは面を上げた。
「何か、ほしいものはないか?」
「ほしいものですか?」
「あぁ」
 頷いたラルトは、立后の祝いだ、といった。
 欲しい物と急に言われても、特には思いつかない。ティアレには元々物欲がない。現在ティアレの所有物となっているものは奥の離宮と古い書庫、そこに収められている本、そしてラルトが与えた衣類だ。衣類はティアレがこれ以上いらないと思っていても、立場上次々に新しいものが手に入る。豪奢な装飾品は鬱陶しいだけで無用だと思っている。この点についてはラルトも同意見のようで、美しく着飾るのはいいが、豪奢な装飾品はティアレの美しさを殺すのだそうな。簡素だが美しい装飾品は既に、ティアレの手元にある。
「では、庭を」
 思いついて、ティアレは言った。
「庭?」
 ラルトが怪訝そうに首をかしげる。ティアレは杯に満たされた琥珀の液体に視線を落としたまま、小さく頷いた。
「花でも植えるのか?」
「そうですね。そのつもりです」
 元々ティアレは農民の出である。そのせいか、土や植物に触れているとひどく落ち着くのだ。皮肉にも、そのようなことに気がついたのはこの国に来てからであるが――農民であるころは里親に辛くあたられていたせいもあって、農作業自体はあまり好きとはいえなかった。
「ならこの周辺の庭を全て」
 ラルトはあっさりと言った。
「奥の離宮の庭ですか?」
「そうだ。森の奥にも庭園がいくつかある」
「差し上げるというよりも、この周辺の庭は元々ティアレ様のものですけれどね」
 会話に口を挟んだのは、茶道具一式を台車に乗せて現れた女官長、シノだった。
「シノ」
「ティアレ様、元々奥の離宮の権利には、あの渡殿からこちらの庭は全て付随しているのですよ」
「そうなのですか?」
 ティアレは驚きを隠せずに声を上げた。“あの渡殿”というのは、本殿とこちらがわの間に横たわる川を繋ぐ橋のことだ。奥の離宮を取り巻く庭と林は、防衛上の都合もあって広大だが、まさかそれら全ての権利が、奥の離宮に付随するとでもいうのだろうか。
 確認の為に、ティアレはラルトに視線を送った。彼は小さく肩をすくめてティアレのそれに応じる。
 どうやら、本当にこの広大な庭全てが、ティアレのもののようだ。
「そんな目で見るな。何なら裏山にも荒れた庭がいくつかあるし、それもお前にやるけど」
「別に新しい庭をねだっているだけではありません。呆れているだけです」
 奥の離宮の権利がティアレに贈られたのは、査定が始まってからではない。正確に言えば、まだジンがこの離宮で療養をしている頃からだ。まだティアレの立場が不安定で、大臣たちにすら紹介を行っていないときである。
「貴方という人は、身分も何もない女に、こんな土地をあっさりと与えてしまって……」
 そんな時期に、ぽん、とこの莫大な広さの土地を自分に与えようと思った当時のラルトの心境が、ティアレには少し信じられなかった。
「正気を疑います」
「いいだろ。正妃にするつもりだったし、正妃になったんだから。結果論だ」
「それはそうですが」
 時折ラルトは、合理的を通り越して突飛なところがある。ティアレはこっそりとため息を零して、結局庭が手に入るのならよいかと納得することにした。
「この庭の手入れはどうしているのですか?」
 林近くの庭はともかく、奥の離宮から見える限りの庭は、最低限の手入れが行き届いている。そしてそれは、ティアレがこの離宮に初めて足を踏み入れた日から今日まで変わらない。だが、ティアレは今まで庭仕事をしている人間を、一度も見たことがなかった。
「何もしてない」
「…………え? 何もですか!?」
「あぁ」
 ラルトは、シノが用意した紅茶に口をつけながら頷いた。
「どうやら魔力が働いているみたいなんだ。雑草はあまり芽を出さないし、植木の茎の伸びる方向や茂る葉の量まで定められているらしい。花の位置は……そこまで計算はなされていないようだけどな」
「自然と皆、花開いているのではないのですか?」
「あぁそれはそうだろう。そこまで魔力は働いてないだろうよ。きちんと気候によって、早咲きだったり遅咲きだったり、花の量が少なかったりとかいろいろしてるだろう?」
「……そういわれれば、そうですね」
 ティアレも茶器を持ち上げながら頷いた。紅茶を口に含みながら、だが、と胸中で呻く。
 もし本当に庭の手入れを魔術で行っているというのなら、それはとてつもないことだ。ティアレが滅ぼしてしまったメイゼンブルには、そういう技術もあったのかもしれない。だが魔術師という才覚が徐々に人々の中から失われつつある現代で、半永久的に働いているだろうその魔術の構成は、おそらく総毛立つほどのものであるに違いなかった。
「では、この周辺は、私は触らないほうがいいのですね」
「いや? そんなことはないと思うけどな」
「そうなのですか?」
「俺の母上がこの周辺に花を植えたりなんかしてたけど、別に普通だったし」
 そういって、ラルトは窓から見える庭先の藤を指差した。今は少し茶けた幹、つると葉が見えるだけだが、あれは毎年美しい花を鈴なりにつける。
「よくは俺も知らない。植物の類にも、俺は詳しくないし、庭は今まで触ったことがなかったからな。ま、ためしに何でもやってみればいいさ」
「はい」
「植えたい花の種類はございますか? ティアレ様」
 シノが円卓に、焼き菓子の詰められた皿を置きながら尋ねてきた。
「植えたい花ですか?」
「苗などを、ご用意させていただきますので」
「……そうですねぇ」
 特に植えたい花があるというわけではなかった。奥の離宮の周辺をのぞけば枯れた庭が広がるので、寂しいと思ったのは確かだが。
「今すぐ植えられる花だとは、限らないんじゃないのか?シノ」
「それは花の種類を伺いしてから、こちらで判断すればよいことですよ、陛下」
「それもそうか」
「では、今から書き付ける花の苗を、用意できますか? シノ」
 ティアレは面を上げて、シノに請うた。女官長は承知しましたと、微笑んで首を縦に振った。


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