終章 花嫁
『わぁ、きれい!』
衣装合わせの部屋に顔を出した三つ子が声を揃える。最後の確認をするべくヤヨイに花嫁衣装を着つけていた友人が、こら、と彼女たちを叱咤した。
「こっちへ来ちゃいけませんって言っているでしょう! だいたい、課題は終わったの? できるまで部屋から出ない約束でしょ!」
「やだわ、ねえさま、怒らないで」
「そうよ、ねえさま、けちんぼね」
「あのね、ねえさま、わたしたち、ヤヨイねえさまにわからないところを訊きに来たのよ」
ひとりが教科書を胸元に掲げ、残りのふたりが練習用の術式を展開する。彼女たちの表情に悪びれたところはいっさい見られない。
ヤヨイの友人がこめかみに青筋を立てて、深いため息を吐いた。
「いけません! ヤヨイは忙しいんだから、他のねえさまたちに訊きなさい!」
『えー……』
「私は構いませんよ。見ても」
「駄目よ今許したら。この子たち宿題を訊きに来ることを口実にまた支度の邪魔をしに来るわよ」
『ひどいわ、そんなことしないわ!』
「現に今しているじゃないの! ……ちょっと待っててヤヨイ。この子たち追い出してくるから」
『やだー!』
「だまんなさい!」
拘束用の魔術を展開した友人は、引き網漁よろしく収穫した三人を引きずって、部屋の外へと姿を消した。ぴしゃんと閉じた戸越し、遠退いて行く騒ぎ声につい笑ってしまう。
「元気だなぁ……」
「本当ですね……将軍?」
「うん?」
いつ転移して来たのだろう。隣に立つ男をヤヨイは驚きをもって見つめた。
将軍と顔を合わせるのは、アーヴソーウィルから戻って以来、ほぼ四カ月ぶりである。まだ半年にも至らぬというのに、まるで何年も会っていなかったようなひさしい気分に襲われ、ヤヨイは立ち眩んだ。
国に戻った将軍はかねて言っていた通り机仕事に精を出していたはずだ。こちらへ出てきたということは、終わったのだろうか。
「きれいだなぁ。これ、明後日の服か?」
将軍がひょいと衣装の裾を取り上げ、ヤヨイは我に返った。
「もう! さわらないでください!」
「あ、これ頭にかけるやつだろ。誰が織ったんだ?」
「将軍! ですから勝手に衣装かけから外さな……あぁ!」
「いいだろう減るもんじゃないし」
よくない。
ヤヨイの夫となる当人ならいざ知らず。
叱られても堪えた様子の全くない将軍は、手にしていた金糸の紗をヤヨイの頭に素早く被せた。そして物申される前に身を引き、ヤヨイの全身に視線を走らせる。
眩しそうに目を細めて、彼は言った。
「あぁ、きれいだ。……よく、似合うよ」
その声があまりに愛おしげな響きをしていて、面映ゆい。ヤヨイは視線を逸らして礼を述べた。
「……ありがとうございます」
「考えてみたらヤヨイがそういうきれいな格好してるの初めて見るな。いっつもつまらない服着てばっかだもんな」
「……つまらなくて悪うございました……」
ヤヨイは低く呻いた。油断するとすぐこれである。
将軍は楽しげな笑い声を立てた。
「……将軍は、これからどちらに?」
彼は旅装だった。動きやすさを重視した上下。腰には剣を佩き、外套を羽織っている。
「まだ決めてない。けど、しばらくはこっちに顔を出さないつもりだから、言っておこうと思って」
「それは……わざわざありがとうございます」
「なんだよ慇懃に。出発はいつも教えてることだろ?」
昔、ヤヨイは将軍に請うた。国から出るとき、長期間、里にも訪れないというなら、教えて欲しい。彼の旅の無事を祈りたいから、と。
つたない約束を、彼は律儀に守ってくれていた。
「悪いな。式には出ないよ」
ヤヨイの頬に触れながら将軍が宣言する。ゆるゆる輪郭を撫でる指に、ヤヨイはため息を吐いた。
「将軍、ですから」
「はいはい、触んなだろ。ヤヨイに冷たくされて悲しいなぁ……」
泣きたいのはこちらの方だ。もはや怒る気力も湧かない。
ヤヨイは将軍に向き直った。ヤヨイを見つめる彼の目は春の日差しのようにやわらかなぬくもりに満ちていた。
ふいに、悟る。
(将軍は、もう)
わたしの前に、二度と現れない。
彼の言うしばらくとは、ヤヨイが死ぬまで、という意味だ。ヤヨイという存在が消えるその日まで、彼が里に足を踏み入れることはないに違いない。
もしかしたら気まぐれにヤヨイの生を遠くから眺めてくれることはあるやもしれない。
けれど、その生の軌跡が重なることは、もう、決して。
「……将軍」
「なんだ? ヤヨイ」
ヤヨイの呼びかけに、将軍が昔から変わらぬ温度で答えた。そこにたとえようのない幸福を覚える。
ヤヨイは将軍に微笑みかけた。
「将軍。私は、あなたに出逢えて幸せでした。あなたに使われて幸せでした。……これからも、きっと幸せです」
なぜならヤヨイは将軍の為に生きよと教えられる里の子なのだから。夫を得ても、その生き方を変えなくともよいのだから。夫を大切にすることと将軍を想うことを共存させても、咎められることはないのだから。
「どうかお元気で」
将軍は何も言わない。
ヤヨイは彼の前に跪(ひざまず)いて、彼の外套の裾に口づけた。
頭に被っていた金糸の紗が肩口からさらさら零れていく。端を飾っていた鈴が妙なる調べを奏で――そこに、遠くから響いた三つ子たちと友人の叫び声が割り込んだ。
どうやら友人に手を貸しに向かった方が、良さそうだ。この身なりではたいしたことはできないけれども。
ヤヨイは苦笑して立ち上がった。将軍に一礼し、衣装を翻す。
戸を開けると外は光に満ちていて、遠い昔、将軍の手で抱き上げられ、初めて寝所から出た日のことを、ヤヨイに思い起こさせた。
***
「よくちゃんと生まれてくることができたなぁ。頑張ったんだな、ヤヨイは」
その人は褥に仰向けで横たわるわたしを眺め、えらい、えらい、と繰り返し、おおきな手でわたしの額を撫で続けた。そんな風にして触れてくる大人たちはこれまでひとりとしていなかったので、わたしはとても驚いてしまっていた。わたしの排泄や着替えを手伝う大人たちはわたしに触れると決まって苦痛を堪える顔をした。実際、安定していなかったわたしの魔はまさしく毒だったのだ。針で刺すような痛みを接触したものに与えていたとはうんと後で知った。
労りに満ちた手のひらの感触に押されて、わたしはほたほたと涙をこぼした。
生まれてきたはいいけれど、苦痛と熱にあえぐばかりの日々に、なんの喜びも見いだせなかった。ただ辛かった。大人たちの同情の目。生存を絶望視する空気。畸形になる前に屠るべきだと、誰かが言った。意味はわからずとも理解はできる――他者の手をわずらわせるばかりのわたしは、きっと、もうすぐ。
拒絶に暴れたくとも体力はなく、抗議の声をあげたくとも渇いた喉は掠れた音しか生み出さない。
どうして生まれたの。どうして生んだの。どうしてまだ生きているの。どうして。
辛いのは、これ以上、もういや。稚拙な感情がこみ上げて涙となってあふれ出る。
その人は、わたしの眦を指の腹で拭い、わたしを褥から抱き上げた。
「あぁ、よしよし。つらいな。つらかったな」
わたしは不明瞭な視界の中でその人の顔を探した。わたしを膝の上に乗せた彼はわたしの肩を抱き、もう一方の手でやさしくわたしの髪を梳き続けた。いたく、ないのだろうか。つらく、ないのだろうか。不思議なことにほかの大人たちと違ってわたしに触れる彼の顔には渋い表情などいっさい浮かんでいなかった。
「もう大丈夫だ。間にあってよかった。大丈夫。すぐに元気になる」
「げんき……」
「そうだよ。……よっと」
その人はわたしを抱いたまま立ち上がり、寝所を離れた。わたしは骨と皮ばかりの腕を彼の首にまわして、生まれて初めて体感する高さに慄いた。彼は戸を足で開けた。その足で板張りの廊下を越えて庭まで下りる。
ひかりが、満ちていた。あまりのまぶしさにわたしは直視できなかった。冬の庭の緑はくすんでいたにもかかわらず。空だってのっぺりとした灰色の雲に覆われていたというのに。
ただ雲と雲を切り裂く数条の光が天地を繋いでいたことを覚えている。
なんてことのない雨上がりの庭が、寝室の天井しか知らぬわたしには、ひどくうつくしくまばゆく見えた。
「すぐにこうやって自由に外へ出られるようになる」
その人は言った。
「これまで頑張ってくれてありがとう。会えてうれしいよ。このままさよならなんかしたくないだろ? だからもうすこし、頑張ってくれ、ヤヨイ」
その人は笑って、自分の額をわたしのそれとこつりと合わせると、「な?」と同意を求めた。
はい、とわたしは頷いた。がんばります。わたし、がんばります。わたし、さよならしたくない。
いっしょにいたい。
あなたと。
それはわたしが最初にして最後に抱いた生きる希望だったのだ。