第六章 願望
夜が明けると将軍はいつもの彼に戻っていた。以前と変わらぬ態度だった。次の日も。その次の日も。次の次の日も。
適当にヤヨイをからかうし、気遣う。わがままを言って、ヤヨイを困らせる。だからヤヨイも思い煩うことなくごく普通に応じることができた。遺跡の調査と、家事と、里から持ち込んだ研究に追われるヤヨイの日常に変化は訪れなかった。
夜が来なければ――将軍がヤヨイを寝室に引き入れて、組み敷くことさえ、なければ。
「どうだ?」
街から戻ってきた将軍がヤヨイの背後に立って肩越しに陣を覗き込む。もう少しです、と答えかけたヤヨイは、あまりに近い彼の顔に喉を鳴らした。吐息の触れる耳が、熱を持つ。
「ヤヨイ?」
返答しないヤヨイを訝しんで将軍が首をかしげる。ヤヨイは密かに距離をとりながらそしらぬ顔で答えた。
「すみません。集中していたので……もうすぐです」
ヤヨイがすべての術式を書き換え終えると、陣は虹色の光を零しながら自動で閉じた。
扉が固く閉ざしていた口を震えながら開いていく。数えて七つ目になる扉の大きさは最初に比べてかなり縮小され、幅は人がふたり並んで歩ける程度。高さも将軍が悠々と手を届かせられるほどにまで低まっていた。
「ヤヨイはそこにいてくれ。俺が様子を見てくる」
将軍が鞘から剣を抜いて、次の部屋へと歩いて行く。今では彼がヤヨイに先行して安全を確認するようになっていた。罠はこれまで一度きりだったが、警戒するに越したことはない。ほどなくして扉の影から閃いた将軍の手が、ヤヨイを招いた。手回り品を手早く纏めて背負い、隣室へと急ぐ――しかしながら扉をくぐった先は、これまでのような部屋ではなかった。
目にしているものを信じるか迷って、扉の側で待っていた将軍を仰ぎ見る。彼は剣を鞘に収めながら、ヤヨイに問いかけてきた。
「念のために訊くけど、ヤヨイにも丘が見えているか?」
ヤヨイは首肯した。ヤヨイの目はしかと同じものを映していた。
果てなき蒼穹。天と混じり合う緑の大地。ゆるやかな丘陵にはところどころ木立が見える。
将軍が歩き始める。ヤヨイは後に続いた。靴は柔い草に覆われた肥えた土を踏みしめていた。
「きれいなところですけれど……植生は南の沿岸部あたりのものに見えますね。……幻覚?」
「いや、多分違うだろう。こういう場所を俺は一箇所知っている。場所を特殊な術で閉鎖して、そこの過去を再生しているんだ。この間は俺たちの記憶から知り合いを引きずり出してきた。あれと同じだよ。ここでは多分……その土地自体から過去を読み取っている。土も草も何もかも、本物と変わりない」
遥か以前に廃れた術なのだと将軍は述べた。その知識があったからこそ、四つ目の部屋で作動した罠の原理を、彼は即座に見破ることができたのだろう。
「アーヴソーウィルが昔このようなところだったと? それとも潜ってきた扉は転移門で、ここはどこか遠い別の土地なのでしょうか?」
「どっちかっていうと後者な気がするな……」
丘を越えると、村があった。燻した丸太を組んで作った高床式の集落だ。細い煙を上げるかまど。編みかけの縄。半端な位置で杼の止まった折り機の横では、籠いっぱいに盛られた染糸が黙している。井戸の側に投げ出された木桶。その中に張られた水が通りかかるヤヨイたちの影を過ぎらせる――……。
人の姿だけが、見られない。
集落の最奥には集会所と思しき庵があった。その正面に据えられた階段を、将軍は躊躇いもせず登り始める。
「入るのですか?」
「この集落以外は何もなさそうだからな。ここ」
周囲を警戒しつつヤヨイも階に足を掛けた。ぎ、と、床がたわんで軋んだ。
縁側に立ったヤヨイたちを迎えたものは、木目の艶やかな板の間である。ただ床を除いて、壁も、天井も、すべてが絵で埋め尽くされていた。
「神話」
ヤヨイの呟きに将軍が頷いて、止めていた歩みを再開した。
部屋を埋めるどの色もつい今しがた彩色されたばかりのように鮮烈で、圧倒的である。絵柄を縁取る金箔が開け放たれた入口から差し込む斜光に照り映えていた。神々しい。その一言に尽きた。
中でも一等うつくしい正面の絵は、中央に棚引く雲を境界として、上下に分けて描かれている。
上段ではむせ返らんばかりの緑に囲まれた女が、四匹の獣を足元に従えて雲下を見据えている。下段には今しがた通過してきた集落と、そこから天を仰ぐひとりの男の姿。睨み合う両者は互いと――将軍に似ていた。
黒曜石色の髪。夜に焚かれる炎のような、深緋の双眸。似通った面差し。
それは、何を、意味するのだろう。
「読めないな」
ヤヨイの物思いを将軍の呟きが中断した。壁を眼前に望んで立ち止まった彼は絵の一角を睨んでいる。薄墨色の文字があった。
「文字が古い。見覚えのある文字だけど」
と、将軍は愚痴た。
「見せてください」
ヤヨイは将軍と場所を入れ替わった。確認した文法と書体は将軍の言う通り古代のものだった。ただし読めないかと問われれば、答えは否である。
「……失われしふるさとの記憶をここに刻む。いとしき神よ。怒りを収められよ。これはいっときの別れに過ぎず、幾度もあなたと共にある……」
「わかるのか。すごいな」
「……何をおっしゃっているのですか、将軍。魔術の呪や術式に用いる言葉ですよ、これ」
現代で魔術のために学ぶ言語は、古代の人々が用いていたもの、そのものなのだ。それを、見覚えのある、で終わらせるのだから、将軍は本当に魔術を習熟していないのだろう。
ヤヨイは続きを読み上げた。
「神よ。あなたに鎮魂を捧ぐ。誰もあなたを憎んではいない。あなたも憎んではならない。いつかわたしたちはあなたに辿り着く。あなたはわたしたちの息子。あなたはわたしたちの兄。あなたはわたしたちの弟。あなたはわたしたちの朋……」
連なる言葉はすべて神と呼ばれる存在への愛に満ちていた。
ただし、それだけであった。
絵も言葉も何もほんのひと欠片すら、将軍の呪いを解く術の手がかりにはなり得るものは存在してはいなかった。
念のため集落をつぶさに見て回り、丘や山林へも足を運んだ。だが新しい発見は何もなかった。
「本当に、過去を呼び出しただけの場所なんだろうな」
将軍は苦笑しながら焚き火に薪を押し込んだ。新たな餌を頂戴した炎が歓喜に背伸びする。強まった明かりが集落と将軍の横顔を照らし、そこかしこで影が身をくねらせた。
空には、夜が訪れている。
西の彼方に熔け墜ちる融鉄色の夕日をヤヨイは将軍と並んで見た。ずんずん陰って行く丘を歩いて集落まで帰り着いてのち、将軍がここに一泊しようと提案した。闇に閉ざされた道なき道を引き返すことは危うい。明日になれば東からまた日が登るだろうからと。
集落には薪も、ついでにいえば寝具もある。水や食糧を携帯してはいたので、腹を満たすに不足はなかった。
眠る支度を整えさえすれば、すべきことはほかに何もない。こんな夜はひさしぶりである。
ヤヨイは火の番をする将軍を、膝を抱えながら眺めるに終始していた。
「家の中で寝てていいんだぞ?」
将軍がヤヨイを見ずに言った。彼は火から転がり出た燠を太い枝で突いて押し返していた。
「将軍は、中に入らないのですか?」
「気が向いたらな」
と、彼は笑って言った。
ヤヨイは膝の間に顔を伏せ、目を閉じた。これからのことに思いを馳せる。
遺跡の調査が終了した。あとは報告書を起こすだけという段階だ。アーヴソーウィルに留まる理由はない。早晩には借りていた部屋を引き払って里へ戻ることとなるだろう――おそらく、転移を用いて。
婚儀の準備を、始めなければならなかった。
(だけどわたしにそれができるだろうか)
この身体を既に将軍へ譲り渡してしまったのに。
ここのところ、夜ごとに男の腕の中にいたことを思いだし、今ひとりでいることの寒さが急に染みて、ヤヨイは震えた。
それを将軍は、目ざとく見ていたらしい。
「ヤヨイ」
呼び声に応じて面を上げると、将軍が腕を広げて待っていた。来い、と、彼は命じた。ヤヨイはのろのろと這い寄って、求められるまま彼の懐に収まった。
「寒いのか? 熱はないよな……」
将軍が憂慮の表情でヤヨイの額に触れた。間近にある端整な顔につい頬が赤くなる。
将軍がにやにや口角を曲げた。
「やっぱり熱? それとも恥ずかしいの?」
「……慣れないだけです」
「まだ? 小さい頃は膝の上によく乗ってきてたろ? 昨日だって俺の上にいたじゃんか」
「どうしてそういうことをおっしゃるんですか!」
ヤヨイが半泣きで叫ぶと、将軍はおかしそうに笑い声を立てた。
将軍は、まだ、という。まだ、慣れないのか、と。
そうではないのだ。ヤヨイはこれを当たり前だと思いたくない。
これは、当たり前ではない。
(そうでしょう?)
明日には終わる。彼の腕の中で眠る時間も。仕事も。将軍に重用される術者という立場も。
彼次第だが、顔を合わせることも。
全部おしまいだ。
なのに将軍はヤヨイの前髪を優しく梳いて、あまやかに笑うのだ。
「かわいいなぁ、ヤヨイは」
その言葉が愛玩動物を愛でるときのそれと大差ないと知っていてさえ、ヤヨイは幸福になれた。
「……将軍は、わたしを、どうなさりたいのですか?」
ヤヨイを仕事の、あるいは、遊びの道具として留め置くつもりならば、将軍が縁組の話を差し止めなければならない。彼だけには、それが可能だった。
将軍はヤヨイの問いに答えなかった。予想通りの反応だった。
ヤヨイは自嘲に嗤って、質問を変えた。
「将軍は……これから、どうなさるおつもりなのですか?」
将軍が咥えかけていた煙草を口から離す。今度は答えてくれるつもりらしい。
「そうだなぁ……国に戻ってしばらくは、事務仕事だ。そろそろ片づけないと危ないやつがけっこうあるんだよ。……後は、適当にふらふらする。あちこちにこの遺跡の件の報告もしておかなきゃいけないしなぁ……」
「報告」
「うん。やっぱり、呪いに関わるものは、何もなかったってさ」
将軍は火のない煙草を咥えるとヤヨイを放して立ち上がった。そのまま集会所へと歩いて行く彼の後を、ヤヨイは慌てて追いかける。
焚き火の明かりは集落奥の庵まで届かず、絵画すべては闇の中に埋没している。張られた金箔だけが星屑のようにほの煌めいて存在を主張する板間の只中で、将軍とヤヨイは立ち止まった。
「……将軍は……最初からこの遺跡に、期待されてはいらっしゃらなかったのですね」
思い返せば将軍はこの仕事について、神代の遺跡の調査と述べただけだ。解呪の手がかりを期待させるようなことはひとことも漏らさなかった。
「何かがわかればいい、ぐらいだったよ。これはこれで興味深いとは思うけどな」
将軍は視線を四方の絵画に巡らせた。
「そう簡単に解けるわけがないし、手がかりが見つかるはずもない。いつだったか言われたな。方法はどこかにあるのだろう。けれど時が来なければ出会えない。その時を、待つしかない」
あがいても無駄だ。与えられた悠久の時を快楽に費やして、怠惰に時を待つべきだ。そう諭されたこともあるという。
「……けど、こうやって、思ったところをしらみつぶしに見ていくのも、悪くはないさ」
将軍は笑いに軽く肩を揺らした後、探るようにヤヨイの手を握った。まるで迷子の子どもが大人に縋るかのように。
「不老不死であるだけだったなら待っていてもよかった。でも俺には無理だ。眠りのない一日は長く、俺は膨大な時間を持て余している。〈魔封じ〉は常に気だるさが付きまとう。でも、国には長居できない……。帰るたびに考えずにはいられない。俺は次に誰を殺せばいいのかと」
彼の生は苦痛と常に隣りあわせだ。静穏はない。
「だから俺は無駄足を踏み続ける。然るべき時への距離を、少しでも詰めている気になるだろ?」
――……ヤヨイたち里の者が行う研究も、つまりはそういうことなのだ。
里の始祖はかつて宣言した。わたしたちの血と惜しみなき研鑽が、いつか呪いに没した国の門戸を再び開く日への道となる。
ヤヨイはこれまであまたの魔術について研究した。それを引き継ぐ者が、ひとりでも多く必要なのだと、ヤヨイは思った。ヤヨイの生む子がそうなるとは限らないし、高い魔術素養を示すかどうかもわからない。それでも、可能性は広げられる。将軍の言う然るべき時を引き寄せる、か細い糸ぐらいにはなるだろう。
最長老はヤヨイに言った。お前だけは、将軍の傍に侍り続けて構わない。血筋ひとつを絶やしたところでたいして変わらぬ、と。
けれどきっと、そうではないのだ。
「将軍」
ヤヨイは将軍の手を握り返して呼びかけた。彼は微笑んでヤヨイを見た。どうかしたのか、と目が言っている。やさしい眼差しだった。
「将軍が、今、この瞬間、願うことは、何ですか?」
将軍は正面に描かれた一対の男女に視線を戻して答えた。
「呪いを解くことだ」
愚問だった。彼がそう答えると知っていた。ただの確認だった。
冗談でも、わたしを望む言葉を、吐いて欲しい。
それは、ただの未練だ。最初から結末はわかっていた。
だから――惜しむな。この、関係を。
「でしたら私はそのために、私にできうる限りのことを致しましょう」
ヤヨイは笑って目を伏せた。
「あなたのお役に立てることが、私の誉れです」