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4 門番



 水回りの掃除を終え、額を拭っていると、将軍から声がかかった。
「ヤヨイ、そろそろ行くぞ」
「あ、はい」
 水桶と布巾を片づけたヤヨイは、内側に毛を張った上着を取り上げ、将軍の待つ部屋まで急いだ。家具類に布がかけられたその空部屋には魔術の陣が敷かれている。遺跡につなげた、転移門である。
 転移の術は頻発すると負荷がかかる。ヤヨイの場合は肉体に。将軍には魔封じに。
 そういった負担を軽減する方策のひとつが、転移門だった。門の陣に組み込んだ術式がヤヨイたちの払うべき対価を肩代わりするのだ。将軍がわざわざ部屋を借りた理由も、この門の設置場所を欲してのことらしい。
 ふたりで陣の中に入り、呪を紡ぐ。景色が波形に揺らめき、砕け、再構築される。すべては、瞬く間だ。
 白と青の二色が生み出すある種のまばゆさに目を細めながらヤヨイは陣の外へ出た。
 近年まで遺跡は厚い氷の板と雪に埋もれて悠久のときを過ごしていた。その存在が明るみになった原因は畸形である。ことここ百年ほど魔術素養を持つ者が急速に減少しているせいだろう。氷越しだったにもかかわらず遺跡の魔に取り込まれ、畸形化する者が現れ始めたのだ。現在は発掘にかかわった協会が周囲を封鎖して、関係者以外は現場に近づけないようにしている――たまさか先日のように、阿呆な者も現れるようだが。
「さて、今日で三つ目か……いくつあるのかな。これ」
 行く先を阻む重厚な扉を眺めて将軍がため息を吐いた。
 遺跡の扉は二重三重と魔術で施錠され、余人には開けないようになっていた。その魔術自体にも容易に弄られぬよう錠がおりている。この開錠がヤヨイに与えられた仕事である。
 何を思ったのかひとりで遺跡に通うと主張した将軍だが、置いていくなと縋るヤヨイに折れる形で同行を許可した。そもそも彼はこの魔術を解呪できない。ヤヨイ抜きで調査を進めることは最初から不可能な話だったのだ。
 ヤヨイは肩をすくめた。
「がんばって今日中には開きたいとは思っていますけど……」
「うん、頼む」
「はい」
 扉の正面に腰を下ろして、ヤヨイはその表面に触れた。宙に瞬時に展開される幾何学模様の図形は、陣と術式。この扉を閉ざす魔術の構成である。
 ヤヨイは腕まくりをして作業に取り掛かり――頭に掛かった重みに、渋面となった。
「将軍」
「なに?」
 ヤヨイは視線を陣から下方へとずらした。
 ヤヨイの腰に背後から男の腕が回されている。背に密着する体温が心音を逸らせる。
 おちつけ、とヤヨイは自らに言い聞かせ、自分を抱きすくめる男に低く呻いた。
「邪魔です。何をしていらっしゃるんですか?」
「……えー?」
将軍がヤヨイの頭のてっぺんにぺたりと頬を付けて言った。
「ヤヨイが冷えないようにって思って」
「服に温熱の術は組み込んでいますと何度申し上げたら…! 集中できません邪魔です! その辺りを見回るなり街に行くなりしていてください!」
「そんなに邪険にされたら傷つくなぁ……」
「ここまで来て仕事せずに帰れとか言われた私の方が、よほど傷つきました!」
「ごめんって」
 謝罪した将軍はしぶしぶながらヤヨイから離れて立ち上がった。
「じゃぁ言われた通り、見回って、協会にも顔を出してくる。扉が開いてもひとりで中には入るなよ」
「わかっております。行ってらっしゃいませ」
 背後の扉へ歩き出す将軍を見送り、ヤヨイはほっと胸を撫で下ろした。
(……何だっていうのかしら)
 調査を始めてからというもの、将軍は何かにつけてべたべた接触を図りたがる。離れようとしない。初めこそ従者の分を守って穏やかに彼を諭していたが、十日も過ぎれば堪忍袋の緒も切れるというものだ。
 肝心の将軍は怒鳴りつけられた方が嬉しそうなのだから始末に負えない。
(そりゃぁ下手を打ちましたけれど、あれはお酒のせいで……)
 魔術を同時展開させる間、意識が散漫になりがちだった原因はあの自棄酒だ。それを将軍もわかっているらしく、ヤヨイを仕事から外そうとした理由が実力不足にあるとは述べなかった。
 それでも遺跡では不測の事態も起こりうる。将軍がヤヨイを案じているというだけなら理解できる、にしても、度を越していた。
 うるさい心臓をたしなめる。おちつけ。おちつけ。彼は――遊んでいるだけだ。
 集中力を取り戻し、ヤヨイは改めて陣に向き直った。
 内部に滞留する魔の質や密度から判ずるに、遺跡の建造が神代であることは間違いない。生きとし生ける者すべてが魔術師であった頃。意図的に陣を引いて術式を組まずとも、願いを口に載せるだけで叶えられたという時代。
 故に扉を閉じている魔術の術式も体系化された現代のそれより子どもの落書きじみていて、だからこそ厄介だった。その上、苦労してこじ開けてみても広さの縮小された同じ間取りの部屋が続くばかりだ。入口からまっすぐ並列する彫像たちと、次の部屋につながる扉、そして奇妙なほどに高い天井。それだけだ。ほかには何も見当たらない。
遺跡を形作る材質は一見すると氷河を切り出したもののように見える。けれど高熱にさらされても熔けず、おそろしく硬い。したがって壁を破壊して行くことは不可能であり、地道に扉に挑んでいくことだけが先へ進む唯一の方法だった。
 かつて将軍は魔術をいっさい使えなかったという。彼は呪われて初めてその持て余す魔力を制御するべく訓練を受けたのである。それも初歩的なものがほとんどだ。今の将軍は便利な術を丸暗記して行使しているだけで応用が利かない。彼に法則性のない術式の解読など土台無理な話だ。遺跡の調査はほぼヤヨイの肩にかかっていると言ってよかった。
 することのほとんどない将軍は、今日に限らず、街へと出ることが多かった。遺跡の今後を協会の上層部と話し合うためである。
「危険性を考えると凍結したほうがいいって、俺は言ってるんだけどな」
 昼を過ぎてから戻ってきた将軍が、説明しながらヤヨイに湯呑みを差し出す。銅製のそれの中では、山羊の乳で煮出した紅茶が湯気を上げていた。
「でも稀有な史跡だし、王が保存したがっているみたいだ……。やれやれ」
「私たちが調べていることを国府の方々はご存知なのですか?」
「あぁ。協会が調査員を派遣しているってことになってる。国から誰かを付けたいみたいだけどなぁ……魔術師がいないらしい」
「人材不足ですか……。深刻ですね。どこも」
 何が原因なのだろう。このままだといずれ魔術師は、伝説で語られるのみの存在となってしまう。
 ヤヨイは未来を憂いて頭を振り、湯呑みの縁に口を付けた。
 部屋に戻って淹れてきたらしい紅茶は舌が焼けるほどに熱く、たっぷりと砂糖が入っていた。蒸気に乗って鼻腔を掠める茶葉の香りが芳しい。思わず顔を綻ばせていると、将軍の指が前髪を梳いた。驚きに、湯呑みを落としかける。
「しょうぐん?」
「あぁ……いや。俺にはヤヨイがいてくれてよかったなって思ってさ」
「……お役に立てているのなら、嬉しいです」
 将軍が目元を緩める。彼は剣を腰から抜きながら、ヤヨイの隣に腰を降ろした。
「本当にそう思ってるよ」
 彼は展開されている陣に手を伸ばして引き寄せた。そこに描かれた図形や文字を眺めてため息を吐く。
「ヤヨイがいなきゃ、どうにもならないことばかりだ」
「ですが私だっていつでもお手伝いできる身分ではなくなりますからね。来年にでも子を持つかもしれないのですから。そうしたら今回みたいに長くお手伝いすることは、もう無理でしょうし」
 婿を得るとは、つまりそういうことである。
 奇妙な沈黙が落ち、ヤヨイは将軍を見た。彼は大きく開いた深緋の双眸にヤヨイを映していた。
 愕然とした顔だった。
「そうか……」
 そうなるんだな、と、将軍が正面に向き直りながら独りごちる。
 ヤヨイが紅茶を飲み干して術式の解読を再開しても、彼は動かなかった。立てた片膝に頬杖をついてヤヨイの作業を眺め続けている。
 彼はどうしたというのだろう。まさか予想していなかった、とでも言うのだろうか。
(……ひとこと、言ってくださればいいのに)
 ひとりでいろ、と。
 それが便利屋を惜しむ意味だけで吐かれた言葉であっても、自分は喜んで従うというのに。
 だが将軍は言わないだろう。彼は他者の選択に口を挟まぬ男だ。
 ふたり以外に動くもののない遺跡の中は耳に痛いほど静かだった。青褪めた世界は透明で、うつくしく、そしてどこかかなしい。徐々にヤヨイは作業が苦痛になり始めた。将軍の沈黙と視線がヤヨイを息苦しくさせた。
 今日はもう店じまいにすべきかもしれない。
 そう思った矢先だった。
「あ」
 ヤヨイの触っていた陣が突如として明滅し、回転しながら消えた。展開していた他のものも連動しながら次々と姿を消していく。
 ぎ、と、扉が哭いた。
「さがってろ」
 将軍が剣を手に素早くヤヨイの前に立つ。その背の陰に入りながら、ヤヨイは結界を組んだ。扉は焦れるほど緩慢な速度で開いている。その動きが止まったとき、門番が飛び出して来ないとも限らない。用心に越したことはない。
 しかしいくら待てども、何もなかった。
「ヤヨイは結界を維持していてくれ。とりあえず覗いてみよう。……また、同じ部屋かもな」
 冗談めかして言う将軍に、ヤヨイは笑って頷いた。
 部屋は予想通り、同じ内装だった。高い天井。さらなる地下へ潜るための扉。それに向けて真っ直ぐに並列する彫像たち。空間を満たす青と白の混成と静寂。
 ヤヨイは将軍に目配せした。彼は笑って首肯した。
 明日も同じ作業の繰り返しだ――……。
 背後で、扉が唐突に閉じた。
 ドゥン、と、大砲めいた音が響いて床が微細に振動する。将軍の顔に緊張が走り、ヤヨイも息を呑んで扉まで駆け寄った。人の胴体ほどの厚みを持つそれは髪ひと筋の出入りすら許さぬといわんばかりに閉じている。触れた表面は虹色に波打ち、ヤヨイを拒絶した。
 魔の、防壁が作動しているのだ。
 将軍を振り返ると、彼は広間の中央を睨み据えていた。その視線の先を追って、ヤヨイは驚愕する。
「……最長老、さま……?」
 彫像の脇に、里の最長老が佇んでいた。トビア。盲いた目を持つ老女。
 彼女だけではない。ひとり、ふたりと、ヤヨイの見知った顔がそこかしこから現れ始める。転移してきたわけではあるまい。異様な気配にヤヨイは息を呑み、将軍の様子を窺った。動きの指示があるかと思ったのだ。しかし彼はひたりとも動かず、その目は部屋の最奥に釘づけられたままだった。
 長剣を手にした、ひとりの女が、立っていた。
(……だれ……?)
 玲瓏な、美女だ。
 滝のように流れる黒絹めいた髪。染みひとつない象牙色の肌。女なら皆が羨む曲線を描いた肢体は優美の一言に尽きた。知った女だと将軍の目が語っている。女は薔薇色の濡れたような唇に薄い笑みをのせて、将軍を見つめ返していた。
 女が、一歩、踏み出す。
 将軍が、剣を鞘から抜いた。
「ヤヨイ、来るぞ!」
 その警告を合図に、全員が動いた。
 最長老たちが一斉に手を掲げて陣を展開する。空中に花火のように閃く術式を読み取り、ヤヨイは戦慄しながら防御を編み上げた。銀の網と青い炎が衝突し、耳障りな炸裂音が鼓膜をつんざく。雷光が虚空を亀裂のように走り抜けた。
(どういうことなの、これは!?)
 外見のみならず行使する術の癖もヤヨイの知己のものだ。けれど本人ではありえない。あるはずがない。
 ヤヨイは懐から人型に切り出した紙を引き抜き、地に並べ置いた。短く、呪を唱える。紙面が魔をまとい、生み出された肉が盛り上がり――等身大となったところで、ヤヨイは命じた。
「行け」
 銀鼠色の人形たちは雄叫びを上げて、長老たちの姿を模した何者かに齧り付いた。
 人形たちは使い魔の一種だ。ヤヨイに代わって接近戦を務める。里の住民の偽者たちはいずれも強力な魔術師には違いないがヤヨイと同様に体術は得意でないようだった。人形たちの牙にかかり、あっさり倒れている。
 裂かれた喉元から血が吹き出し、半透明だった床が赤黒く濁り始める。
 それが、ヤヨイを動揺させた。
(ひと、なの?)
 偽者たちは喉をかきむしり、海老ぞりになって痙攣しながら息絶える。
 人の死ぬ姿、そのものだ。
 苦悶に見開かれたままの目に射抜かれて、ヤヨイは震えた。瞳孔の開いた顔は、ヤヨイの里の、ヤヨイの、知人の。
(……なに、これ)
 使い魔たちをかいくぐって現れたひとりに向けて、ヤヨイはとっさに火柱を生み出していた。ぎゃぁ、と、断末魔が上がる。よく知る者の声だった。炭化した死体がヤヨイの足元にどうと倒れ、焼けた脂の臭いを漂わせる。その指にはまった銀の輪は友人が好んで身に着けているもので――……。
 彼らははたして本当に、偽者なのだろうか。
 脳裏を支配した疑問に、ヤヨイは動けなくなった。
「ヤヨイ!」
 将軍が、ヤヨイの腕を掴んで引き寄せる。彼の身体に縋りかけたヤヨイは、その衝動を堪えて魔力の盾を自分たちの前に生んだ。金属を掻く不協和音が甲高く響き、神経を逆撫でる。
 盾に剣を弾き返されたあの美女が、後方転回しながら間合いを取った。
「ヤヨイ、安心しろ。あれは偽者だ」
 将軍がヤヨイの耳元に囁いた。
「俺たちの記憶を読んで、俺たち自身が強いと思っている人間を選んで似せた人形だ。本物じゃない」
 女が一瞬で間合いを詰めてくる。剣を、振りかぶる。将軍が下からそれを跳ね上げて往(い)なす。女が即座に手首を返し、突き込んでくる。
 彼は女と片手で攻防を繰り広げながら、大丈夫だとヤヨイを励ました。
「全員殺せばきっと終わる。悪いけどこっちは手いっぱいだから……頼む」
 将軍がヤヨイを押し出し、両手で女の刃を受ける。女はうっすらと笑って将軍の脚を払いにかかった。跳躍してそれを避けた彼は、着地ざまに回し蹴りを繰り出して――女がそれをまた避ける。
 ヤヨイの目ではふたりの攻防を追いきれない。彼らの途轍もない身軽さに驚愕する。
 ふつ、と使い魔たちの気配が途切れ、ヤヨイは気を引き締めた。床は死屍累々。知らぬ間に、ヤヨイと最長老のふたりだけとなっていた。
 退化し落ち窪んだ眼窩の奥で、殺意だけがぎらついている。
 最長老は今でこそ占所の座敷を温めるに留まっているが、魔術師としての腕は里の誰よりも抜きんでていた。ヤヨイに魔術の基礎を叩き込んだ人間が、他ならぬ彼女である。それを模したという人形は、魔術発動の手癖も本物と全く同じだった。
 平生は慈愛に満ちる口元を真横に引き結び、しわによれた手で虚空を慈しむように撫でる。燐光が躍り、陣が花開いていく。それだけならば、見惚れるほどにうつくしい。
 ただ生み出されたものは、癒しではない。灼熱の炎だった。
 高温の青い炎が蛇の舌のように床を舐め往き、血だまりに沈んでいた遺体をすべて灰燼へと帰す。ヤヨイは氷雪の壁を組み上げた。炎を防ぐその陰で予備の使い魔たちを目覚めさせる。
 そしてその二体の人形たちを、壁の両脇から跳び出させた。
 人形がみるみる最長老に肉薄する。十数えるか否かの時間。そのわずかな間に老女は術を展開した。地に雷柱が幾本も突き立つ。驚異的な術の行使速度だった。
 稲妻に足を貫かれて人形が前傾に倒れる。
 ヤヨイはその背から飛び降りた。
 着地と同時に、風の刃を放つ。
「婆さま、ごめんなさい……!」
 肉を、裂く音がした。
 鮮血が、その軌跡に沿って散る。死にもがく悲鳴の響きもまた、本人のものと寸分も違いない。ヤヨイは血を噴きだしながら踊るばかりの遺体から目を背けた。
 しかし感傷に浸っている暇はない。呼吸を整えながら剣戟の音源を探す。
(将軍は……?)
 彼もまた、戦いを終えるところだった。
 将軍の長剣が女の背から生えていた。引き攣る女の手から落ちた剣が床の上でかたかた震えている。将軍は剣を引き抜きざま、さらに片手に握った短剣で女の喉を裂いた。血が、彼を頭から一気に濡らした。
「しょうぐん」
 ヤヨイの呼びかけに、将軍は応えなかった。
 戻りの出口が開いたその後も、彼は血をしたたらせたまま、微動だにしなくなった女を長きに渡って見つめていた。



 疲れた一日だった。
 部屋に引き上げて真っ先に湯浴みする。ひと息吐いたあとは念のため里へと使い魔を飛ばした。皆に、大事はないか、と。返事はすぐにあった。無論、と。
 ヤヨイは胸を撫で下ろした。
 ヤヨイたちが部屋を出た一瞬のうちに、〈紛い物〉たちは姿を消していた。血も何もかも、戦闘の痕跡は根こそぎ拭われていた。出入りを繰り返しても何もなかった。身体が血まみれのままでなければ、幻覚を疑うところだ。
 あれは一度きりのはずだ。将軍の見解に、ヤヨイは祈りを込めて頷いた。そうであって欲しい。二度目があっても戦える自信はない。
 食事も進まず、早々に寝室へと引き上げた。
 が。
(……眠れない……)
 毛布に包まって一刻を過ぎている。しかし先の戦闘の余韻を曳いてか神経の端々は張りつめたまま休まる気配を見せない。ヤヨイはため息を吐いて、上半身を起こした。山羊の乳でも温めてみよう。そう思い立った。
 燈明皿の紙燭に火を入れて寝室を出る。もとは家族向けだという貸間は広く、炊事場へ続く細い廊下には寝室が三部屋並んでいる。室内履きの踵を鳴らさぬように注意深く歩き――……将軍の部屋の前に差し掛かったところで、ヤヨイは足を止めた。
 気配が、なかった。
 逡巡ののちに扉を叩くも、返事はなく、中を覗いても主の姿は見られない。
 窓から差し込む月のおぼろな光の陰で、しわひとつなく整えられたままの寝台が夜気に冷えていた。


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