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3 祝祭


 里を出る直前の話だ。
「ヤヨイ、本当によいのだね?」
 出立の報告に占所を訪れたヤヨイに最長老が念押しする。もちろんです、とヤヨイは答えた。返答を耳にした長老たちが細く息を吐く。同情か。安堵か。あるいはその両方か。ヤヨイにはわからない。
 光を失って久しい最長老の目は、退化して落ち窪んだ眼窩の奥からヤヨイを真っ直ぐに見ていた。長老はヤヨイを、まばゆい子、と呼ぶ。ヤヨイを構成する圧倒的な魔が、老女のもはや用をなさなくなったはずの網膜に、闇夜に浮かぶ金色の輪のような輪郭を浮かび上がらせるのだという。彼女の瞳は白濁こそしているものの、その眼差しは常に透徹したものであり、最高級の煙水晶のような温かみを湛えていた。
「ではお前が留守の間に決めて、外に打診しておくよ。お前が戻り次第、顔合わせをし……」
「必要ありません。そのまま支度へと進んでください」
 昨年に外出した折、候補者たちの姿は遠目で確認した。その中からよさそうな者を直感で絞った。あとは彼らの中から里にとって都合の良い者を選んでくれればいい。
「……よかろう」
 最長老が諾と頷く。
「何事もなければ戻り次第に婿を迎えると心得よ、ヤヨイ」
「はい。よろしくお願いいたします。それでは……私はこれで」
 ヤヨイは床板に額を付けて挨拶し、席を立った。
 占所はどこかしこも金の日差しに温められ、外へと向かう裸足にひどく心地よかった。




 妻を得て、あるいは、夫を持ち、子を生み育て、技術と研究を次代へ受け継がせることは里の者すべてに課せられた義務である。ヤヨイと同年代の魔術師たちは皆すでに伴侶を持つ身だ。ヤヨイは単純に、目こぼしされていたにすぎない。
 しかしながらここ百年は魔術素養のある者の数が明らかに減少している。里の存続を考えれば子を生むことはヤヨイにとっても急務であった。
 此度が将軍に同伴する、最後の旅路となるだろう。
 だから今回は里の術者として、後世まで誇ってもらえるよう、とりわけしっかりと仕事に励む。
 そう思っていた、はずなの、だが。
(どうしてわたし、鏡の前で必死に髪の毛を編んだりしてるの……)
「ヤヨイー? 終わったか?」
 ヤヨイは手水場の扉を振り返り、外で待つ将軍へと叫んだ。
「も、もう少しです!」
 ところが鏡は歪に編み込まれてもっさりと膨らんだ黒髪を映している。まとまっていると呼ぶには程遠い。
 ヤヨイは肩を落として、髪を解いた。いつもはひとつにまとめて団子に結ってしまうだけだから、突発的に編もうとしたところで上手く要領を掴めないのは当たり前だった。
 新しい街を観光することはいつでもできるし、せっかくだからミモザの祭りを見物しよう。
 最初に宿泊した街で将軍がそんなこと言い、ヤヨイたちは大陸西部の縦貫道を北に登って、祭りの只中にあるロストアに来ていた。
 ロストアはとりたてて特徴のない、街道沿いの小さな町である。けれどこの時期は広場に立つ大きな市と、無償で振る舞われるひと椀の花酒を目当てに、近隣から多くの者たちが集うのだという。
 田舎町の春の賑わいを楽しむべく、滞在を延ばす旅人も多いとみえる。町人たちはおろしたての衣服を身に着け、旅人たちもできる限り身ぎれいにして、花や房で飾りたてられた通りを練り歩き、辻に立つ大道芸に喝采を送っている。
 彼らを一目見るなり将軍は言った。
「ヤヨイもせめて髪ぐらいもうちょっときれいに結っていこう。団子みたいなつまんない髪型じゃなくて」
 そして近くにあった食堂の手水場に押し込まれ、現在に至る。
(つまんないって。つまんないって何なんですか! どうせいつもつまらない髪型ですし!)
 自分だってやればできる――と、意地になったのは初めだけ。
 四苦八苦して編んだ髪は端から次々に解けていく。少しでもまとめやすいようにと湿らせたことが悪かったのか、妙な型まで付いている始末。蛇のようにうねった髪を手櫛で伸ばしつつため息を吐いていると、背後で扉が突然に開いた。
「ヤヨイ」
「ひっ!」
 痺れを切らしたのか、将軍が顔を出す。彼はヤヨイをひと目見るなりすべてを悟った顔になった。
「……苦手なら素直にそう言ってくれればよかったんだぞ……?」
「申し上げる前に押し込んでくださったのはどこのどなたですか! もう!」
 ヤヨイは手早く髪をいつもの形に纏めてかんざしを挿し、将軍の脇をすり抜けて手水場を出た。
 食堂は昼を待たずして満員になりつつあるらしい。空きの見当たらなくなった客席を給仕たちが慌ただしく巡回している。
 ヤヨイが店内の様相に目を細めた、その瞬間。
「あぁ、待てって」
 ヤヨイは将軍に腕を掴まれて元の場所へ引き戻されていた。
 悲鳴を漏らしたヤヨイを鏡の前に再び立たせて、将軍は手水場の扉を素早く閉じる。
「こっちに立って。じっとしてろよ。それ貸して」
 彼がヤヨイの手から櫛をもぎ取って背後に回り込んだ。陶製の流しの縁に腹部を圧迫されるかたちとなって、ヤヨイは顔をしかめながら訴える。
「せ、せまいのですけれど……」
 ひとりでさえ窮屈な場所だ。ふたりならなおのことである。
「あぁごめん。こっちも狭いから我慢してくれ。ほら、顔を上げて。かんざしは持ってて」
「な、何をなさるおつもりなのですか……?」
「髪を結うんだよ」
 できるのか、と思わず振り仰いだ拍子に将軍の顔が眼前に現れ、ヤヨイは目を剥いた。ぶつかってしまうところだった。
(ちかい……)
 背中は密着しているし、息遣いは聞こえるしで、緊張から眩暈がする。子どもに戻りたい。あの頃は将軍に対する恋情なんて抱いてはいなくて、その背に負われることが楽しみだった――今となっては恐れ多い。
 壁面に吊られた鏡は枠ぎりぎりまでヤヨイの顔だけを映している。将軍の挙動は気配から探るしかない。
 彼は鼻歌なぞを弾ませながらヤヨイの髪を梳(くしけず)っては小分けにしていた。
「お上手ですね……」
 ヤヨイは素直に感心した。それぞれの房を編む手つきも非常にこなれているようだった。ヤヨイの技量とは比べるべくもないと完成を待たずしてわかる。
「あぁ。でも俺も最初はヤヨイみたいにへたくそだったよ」
「……申し訳ありませんでしたね、へたくそで」
「すねるなよ。ヤヨイ、かんざし」
 耳の横から突き出た男の手に、ヤヨイは慌ててかんざしを握らせた。髪が絡みやすいよう、らせん状に溝の掘られた黒塗りのかんざしだ。溝とは逆回転のらせんが孔雀石色で引かれただけの簡素な造りをしている。将軍はそれを無造作に結口へと差し入れた。
「よし、できたぞ」
 将軍が横に並び、背後の空間に余裕が生まれる。ヤヨイは一歩しりぞいて鏡を覗いた。枠の外でこれまで目にできなかったヤヨイの頭部が映っていた。
 髪の生え際をくるりと囲む大きな三つ編み。おそろしく細かな編み込みが両の耳元から左側頭部にかけて走り、小さな団子を作っている。
 文句なしに、華やかな髪型だった。
「……おっと、仕上げを忘れてた」
「しあげ?」
 将軍が手を虚空でひと振りし、どこからか花冠を喚び出す。黄色の花の束を空色の紐で編んだそれは、花かごを提げた少女たちが配り歩いていたものだ。
 花冠を恭しくヤヨイの頭に載せた将軍は、満足げに頷いた。
「いい感じだ。……それじゃ、行こうか」
 将軍はさっそくとばかりにヤヨイの手を取った。ふたり分の呼気がよどむ狭い空間から、焼けた肉の脂と香辛料の香り漂う店内へ飛び出す。
「将軍? い、行くって、どちらへ……」
 ヤヨイは困惑しながら問いかけた。
「うん? 決まってるだろ?」
 ヤヨイの手を引いたまま店外へと躍り出た将軍が、不思議そうな面持ちで振り返る。
「祭りを、楽しみに行くんだよ」




 将軍がヤヨイをまず連行した先は、町の教会を中心とした広場だった。
「はい、これ」
「……ありがとうございます……」
 将軍から受け渡されたものは、町の婦人会が配る花酒だ。ほんのりと黄味を帯びた透明な液体に花の砂糖漬けが浮かんでいる。椀を両手に持って硬直していると、将軍が訝しげに首をかしげた。
「飲まないのか?」
 ため息を吐いて、ヤヨイは告白した。
「……わたし、お酒を飲んだことがないんです」
「は!? 年始の祭儀じゃ飲むだろ!?」
「……毎年、お世話の係ですから」
 十五を超えた者たちは年明けに設けられる祝いの席で酒を飲み回す。だが毎年ヤヨイは裏方に従事するのみだった。儀式を取り仕切ることはもちろん、料理の支度や後片付け。悪酔いする者たちに薬を準備し、年下の者たちが羽目を外さぬよう監督もする。酌を受ける暇もあったものではない。
 将軍が呆れた視線をヤヨイに注いだ。
「ったくさぁ……ヤヨイはやっぱり、もうちょっといろいろ覚えたほうがいいな」
「……いろいろ?」
「そ。いろいろ。……そんなにきつくない酒だから大丈夫だよ。ちびちび飲みながら行こう」
 かく言う将軍はさっさと椀を空にして返却している。露店の並ぶ通りを目指して歩き始める彼を、ヤヨイは慌てて追いかけた。
 皆が食堂に入る昼どきのせいか、ヤヨイたちが広場を目指していたときよりも、通行人の波は途切れがちだ。視界がひらけて飛び込んできた光景に、ヤヨイは感嘆から思わず目を細めていた。
 ミモザの祭りとあって、町や人はその黄金の色であまねく飾り立てられている。天も、例に漏れず。綿玉に似た、黄色あざやかなその花が、晴れ渡った空高くに吹雪いていた。釉薬(ゆうやく)を刷いて焼いたような鮮烈な青に、花の可憐な黄が金色に萌えかがやいて眩しいほどだ。市場に繰り出す親子や、花酒を配り歩いていた少女や、小間使いの少年、うす汚れた身なりの旅人たち、行き交うだれもが、この春の訪れを告げる花の舞に、歩きながら陶然となっている。
「きれい……」
 日頃であれば苔の斑(ふ)をまとっているだろう家々はどこも洗い清められていて、陽光に照り映えるほの白い壁面や銀鼠に艶めく屋根が、舞い踊る花々の下でどこか誇らしげに見える。
「うん、きれいだな」
 いつのまにか隣に並んで歩いていた将軍が同意した。
「ミモザの花吹雪はこの辺りの、この祭りのときにしか見られないからなぁ。いつか見せてやりたいと思ってたんだ。来られてよかった」
「見せてって……わたしに、ですか?」
 彼はヤヨイの問いに口先を尖らせる。
「他に誰がいるんだよ。いろいろ下見もしたって最初に言っただろ? 連れて行ってやりたいところとか、見せてやりたいものとか、結構あるんだよ」
 将軍の思いがけない発言にヤヨイは唖然となるしかなかった。告ぐべき言葉が見つからない。
 あーぁ、と将軍は呻いた。
「最初から、旅行しようって誘えばよかったか」
「困ります」
 ヤヨイは反射的に呻いていた。思いがけず強まったその語気に、発言したヤヨイ自身が当惑して、誤魔化すように目を伏せる。
「あ……そ、そんな誘いを、私ごときに、安易に口にするものじゃありません。困るのは将軍ですよ」
「俺が困るの? ……まぁ、そんな風に言うだろなって思ってたよ。お堅いもんなぁ、ヤヨイは」
 将軍はおかしげに笑って、ヤヨイの手を取った。
 今度は、握るだけではない。
 彼の五指が、ヤヨイのそれに、絡む。
 血液が、一瞬にして沸騰した。
「本当はあんまり遊びたくないんだろうけど、今回は諦めて俺に付き合って」
 そして熟した果実のようにとろけた将軍の声がヤヨイの耳たぶを掠めた。
「たくさん、楽しもう?」




 将軍が、おかしい。
 広場を出て以後を省みながらヤヨイは確信した。将軍が、やはりおかしい。
 彼は道を行きつ戻りつして、並び立つ露店をひやかすことに余念がなかった。店先に積まれた籠の中から興味の引かれたものを手にとっては、けたけたと笑い声をあげていた。吟遊詩人には茶々を入れ――なにせ彼が将軍の若き日を謳っていたものだから、口を挟まずにはいられなかったらしい――、絡んできた酔っ払いと軽く遊び、買い食いをしてはうまいうまいと顔をほころばせる。そこまでは、普段通りの彼だ。
 ただ繋いだヤヨイの手を、片時も放そうとしない。
 馬車内で起きた一件の際も思ったのだ。将軍のヤヨイに対する扱いが平時と異なっている。ヤヨイの機嫌を取ることに心を砕き、不意を突いては甘くささめく。
 たとえば、だ。




「ヤヨイ、ヤヨイ。見てみろよこれ。誰だろうな。こんなくだらないの考えたやつ」
 市場をぐるりと見て回るさなかのことだ。将軍は唐突に立ち止まって、雑貨の詰め込まれた籐の籠から湾曲性のある薄っぺらな銀板をとりあげた。一応、鏡であるらしい。
 人の顔が映るべき箇所に、異様に長いまつ毛だの、珍妙にねじけた口ひげだのが描かれていて、その鏡面を覗き込むと顔が落書きされて見える。さらに板自体を捻じ曲げれば、輪郭までも滑稽なものとなって笑いを誘う。将軍はヤヨイから手を放して鏡をぐねぐね波打たせた。そこに映り込む顔の変化にひとしきり笑い声を立てる。
ヤヨイが下唇を噛みしめていると、将軍は表情を消して肩をすくめた。
「つまらない?」
 ヤヨイはゆっくり頭を振った。
「そうではなくて……申し訳、ありません」
 手を繋いで歩く間、将軍はおもしろいと思ったひとつひとつを取り上げて、ヤヨイに示した。けれどヤヨイは顔を強張らせることしかできなかった。同調の言葉を口にしたとしても白々しく響いて、こんなにも将軍が心を砕いてくれているのに、上手く楽しめずにいることを、ヤヨイは謝るしかなかった。遊びを優先させているというこの状況に、気分がどうにも落ち着かないのだ。
 一方でほんのわずかでも将軍と共にいる時間を長引かせたいと願ってもいた。なのに将軍の体温が手になじみ始めると、反射的に振り払いたくなってたまらなかった。
 ――彼の熱なしで、生きられなくなってしまう。
 俯くヤヨイに将軍は何も言わない。
 鏡を元の箇所に戻す気配が感じられた。
「ヤヨイ」
 明るい声に呼ばれてヤヨイは顔を上げた。はい、と応じると、将軍は嬉しそうに相好を崩し、知らぬ間に両手に広げていたひと巻の布を、ヤヨイの髪から右肩にさっと掛けた。
 繻子に似た光沢のある布地だ。黄色の花がびっしりと刺繍されている。正直、このような場所で安く買い叩かれていいものではない気もした。繊細な透かし織りの縁が風にそよぐ。
 将軍はその布ごとヤヨイを引き寄せた。彼の深緋の双眸が夕日のように融ける。
「うん、……かわいい」
 吐息のかかる距離でささやかれ、体中が総毛立ち、頬に朱が差した。将軍が愉快きわまりない様子で破顔した。
 また、からかわれた。
 今度は、怒りで震える。
「将軍!」
 拳を振り回すヤヨイにいっそう高く笑い声を響かせて将軍は身を翻した。




 夕暮れの斜光が町を差し染める頃合いまで、将軍は終始このような按配だった。
 恋人をあまやかすような将軍の態度は、とにかくヤヨイを翻弄した。かつてない疲れにヤヨイは今すぐ寝台に倒れ込みたかった。隣を上機嫌で歩く将軍を心の底から恨めしく思う。
 今日の将軍のふるまいはヤヨイのこれまで押さえつけてきた望みを引きずり出すものだ。
 これからも特別でありたい。傍にあり続けたい。
 愛されたい。
 そんな、欲望を。
 ――物になりたい、と、ヤヨイは思った。
 たとえば、将軍の腰に佩かれる剣。心も何もない純然たる道具として、使い潰されるときまで役に立てる。共にいられる。何百年でも。何千年でも。
 と、人が深刻に考えているのに、だ。
「ヤヨイー、そろそろ晩飯にしよっか?」
 間延びした声で問いかけてくる将軍の表情は実に能天気である。
「将軍……」
 ヤヨイはこめかみを押さえながら唸った。
「さっきまで延々と食べていらっしゃったではありませんか!」
 あれを食べろこれがうまいと、しきりにヤヨイに勧めてもいた。
「あ、ヤヨイは腹減ってない?」
「そういうことを申しているのではありません!」
 この会話の噛みあわなさは、どういうことなのだろう。
 ヤヨイは唖然となって将軍を見上げた。彼は店のものらしき名を指折り呟いている。晩餐をどこでとるべきか思案しているらしい。
 しばらくすると将軍はにっこり笑ってヤヨイに言った。
「あんまり食べないとなると、酒場でいいよな」
 続けて彼はヤヨイの頭上を指す。
「花冠(それ)被ってる女の子連れてると、割引になるしさ」
 ヤヨイは無言で微笑み返し、将軍のつま先を、力いっぱい踏み抜いた。


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