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2 便利屋


 昨年にアーヴソーウィルで発見された遺跡の調査。その助手が、ヤヨイに持ち込まれた仕事である。
 かの国へ向けた出立は、ヤヨイが指南書の件にひと区切りを付けた春先となった。
 転移陣は隣国への越境に用いるに留めて、後は徒歩や馬で行こうというのだから、将軍は本当に急いでいないのだろう。現世では扱える術者は皆無といわれる空間転移だが、将軍もヤヨイも、問題なく行使できる。仮に至急ならば直に現地へ飛ぶはずである。
 アーヴソーウィルまで何事もなければふた月。のんびり進めば三月(みつき)ほどか。帰路も転移しないなら往復で最大半年。
(ううん……帰りはともかく、行きから急がないって、どういうことなのかしら)
 神代に建築された可能性もあるという件の史跡には、将軍の呪いを解く鍵が存在することもありうる。そう考えるとヤヨイとしては早めに調査に移りたいところなのだが。
 幌を張っただけの座席もない乗合馬車の片隅でヤヨイは隣に座る将軍を盗み見た。彼は地図を開いて、あそこに行こうかこっちに寄ろうか、と思案を口にしている。ほかの乗客たちからの視線を意に介することもなく、くつろいだ様子だった。
「なぁ、聞いてるか? ヤヨイ」
「え?」
 瞬いて訊き返したヤヨイを見下ろす将軍の目は呆れていた。
「あのな、さっきから相談してんのに、どこに意識飛ばしてるんだ?」
 独り呟いているだけなのかと思っていたが、将軍自身はヤヨイに話しかけていたつもりらしい。
「申し訳ありません……相談、ですか?」
「だから、アルマースからはどっちの街道を行こうかっていう話だよ。一度、北に登る? それとも東から入る? 北からだと少し寒いだろうけどレヴィアやロストアでミモザの祭りにかち合うし、東なら最近は道沿いにいくつか新しい街ができているから、そっちぷらぷらしても面白そうだしさ」
「将軍にとってご都合のよろしい方で」
「俺はその気ならいつでも行けるから、ヤヨイに訊いているんだよ」
 将軍が眉間にしわを寄せて唸る。ヤヨイは当惑しながら抗弁した。
「そんな……だって、物見遊山みたいじゃないですか」
「現地に着くのはぶっちゃけるといつでもいいんだから、物見遊山でいいんだよ」
 ヤヨイは唖然と将軍を見返した。行きを急がない訳は、観光をするためか。
 将軍は苦笑し、地図を畳み始める。
「それとも早く帰りたいか?」
「いえ……そうでは、ないのですけれど」
 ヤヨイは抱き寄せた膝の上に顎を載せた。
「私は仕事で外に出させていただいているのに、こう、遊びの算段を真っ先にたてるというのは、気が咎めるといいますか……」
「昔だって仕事がてら観光もしてたろ。ダッシリナじゃ……」
「あれは現地について下準備も終わって待ち時間が長かったからです!」
 ダッシリナは他大陸にある国家だ。湾港を首都とするそこでヤヨイは将軍と半年ほど共に暮らした。当時のヤヨイは十三歳。小間使いめいた業務がほとんどで留守番も多く、ひとりのときは初めて目にする異国の文化に胸ときめかせながら街をそぞろ歩いていた。幼かったのだと主張したい。
「今の私は妹たちに修行と勉強をしろってお尻を叩く役なんですよ。その私が、仕事にかこつけて怠けるなんて、ずるいじゃないですか……」
「怠けるってどこがだ? 俺と一緒にいるのが仕事だろ? 何もずるくない。どうせ同じ仕事なら楽しめる方向に持っていった方がいいじゃないか。俺がのんびりしたいって言っているんだ。付き合うヤヨイが後ろめたく思う必要はないんだよ」
 将軍は後ろに両手を突くと上半身を軽く反らした。
「まぁ、ヤヨイが急ぎたい理由とか、帰って何かしたいことがあるとか言うなら、考えるけど。俺は時間があり余っているけど、ヤヨイはそうじゃないもんな」
 ヤヨイは下唇を噛みしめて将軍を見た。言わせてしまった、と思った。互いの命の長さについてを。
「ごめんなさ……」
「にいさん」
 謝罪に口を開きかけたヤヨイを遮ったのは、対面の席に腰を下ろす壮年の男だった。
「何を話しているのか知らんが、あんまり彼女をいじめなさんな。泣きそうになってるじゃないか」
 そうだそうだ、と周囲の客たちが声を揃える。とはいえ口調に深刻さはなく、からかいの響きを含んでいる。
 将軍もその程度で狼狽えるような男ではない。男たちに悠然と笑み返して、ヤヨイの肩を抱き寄せる。
「ひっ」
 ヤヨイは悲鳴を寸でのところで呑みこんだ。
「仕方ないだろ、泣きそうな顔がかわいくてさぁ。ついつい、いじめたくなるんだ」
 なぁ、と同意を求めて顔を覗き込んでくる将軍を、ヤヨイはぱくぱく口を開閉しながら睨めつける。集まる衆目と頬に触れる男の体温と彼の発言のあんまりさに、顔が火を噴きそうだ。
 幌の中がどっと笑いの渦に包まれる。
「泣き顔がかわいいのはわかるが、そいつを引き出すのは閨の中だけにしとけ」
 最初に将軍へ忠告を述べた男が腹筋を引き攣らせながら発言した。
 将軍が生真面目な顔を作って重々しく首肯する。
「そうしとく。ほかの奴に見せるのもったいないもんな」
 ふたたび、笑いが弾けた。げらげらと腹を抱える男たちの影では、彼らの夫人らしき女たちが口元を押さえている。初めこそヤヨイに同情の目を向けていた彼女たちも、笑いを堪えきれなくなったらしい。
(い、いますぐきえたい)
 どうしてこんな辱めを受けなければならないのだ。転移して里へ戻りたい。
 せめて人の視線からだけでも逃れられればと、ヤヨイは戦慄きながら将軍に目元を押し付けたのだった。



「怒るなよ、ヤヨイ」
 宿の部屋に到着する頃になると、将軍の声は困り果てていた。
 ヤヨイはすかさず主張する。
「怒っていません」
 とはいえ、背負っていた合切袋を置く手つきに加減を利かせることは難しかった。どさっ、と荷は大きな音を響かせる。その前に膝を突いて縛り口の紐を解かんとする手もこの上なく乱暴だった。
「はずかしかっただけです! それにあの人たち、ものすごく誤解しておいででしたよ!」
 あれからというもの馬車の乗客たちは気さくに声をかけてくるようになった。特にご夫人がたは旦那を尻に敷く方法やら夫婦円満の秘訣やらを、こと細かくヤヨイに耳打ちすることに余念がなかった。どう考えてもヤヨイと将軍を新婚夫婦と勘違いしていた。
 将軍との関係性を否定することもできず、かといって女たちの話を差し止めることもできず。語られる赤裸々なあれこれにヤヨイはちいさくなって馬車の旅をやり過ごしたのだ。
 ヤヨイは下唇を噛んで目元を手の甲でこすった。雑に引っ張ったせいで紐が絡み、うまく荷を解けないのだ。視界が白く滲み始めたのも、きっとその焦りから。
 作ってしまった不要な結び目と格闘していると、背後から将軍の手が伸びてきた。
「貸してくれ。俺がしよう。……悪かった。謝るから。な? どうしたら機嫌直してくれる?」
 許すも何もない。将軍はヤヨイの主人である。彼がヤヨイを悪いように扱っているということではないのだから、堪えるべきなのだろう。
けれど主張せずにはいられない。
「あぁいうのは……人前でやめてください」
 ヤヨイは固く目を閉じた――これは、甘えだ。
「わかったわかった。……ほら、解けたよ」
 袋の口を開き終えて退く将軍に、ヤヨイはか細い声で礼を述べた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
 将軍は嬉しそうに笑っている。
 ヤヨイもどうにか微笑み返し、荷の整理を再開した。
 たいしたものは持ち歩いていない。整理といっても汚れ物の選別だ。あとは短剣など、細々とした道具の確認。
 部屋と手洗い場を往復していたヤヨイの耳に不意に激しい雨音が届いた。雨脚がまた強まったのかと、ヤヨイは思った。ヤヨイたちが早々と宿を決めて引き上げた理由がこの雨なのだ。
「ヤヨイ」
「はい」
 ヤヨイは訊き返しながら将軍を見た。彼は窓辺近くの椅子に座り、外を注視していた。
 街道の中継都市、それもそこそこ良い宿とあって、窓には澄んだ玻璃がはまっていたが、しきりに叩きつける雨水が滝を成して、映るものは室内の調度と将軍の影ばかりだ。この街の売りとなっている鮮やかな色調の家々も突然の豪雨に隠され見えない。
 止む気配のない雨を忌々しげに見つめたまま将軍が請うた。
「〈魔封じ〉、強めてもらっていいか?」
「〈魔封じ〉を?」
「この辺りでこんな雨が降ることはまずないんだよ。……多分、俺のせいだろ」
 窓から視線を外し、ヤヨイに向けて彼が微笑む。
「頼む、ヤヨイ」
「……かしこまりました」
 ヤヨイは承諾して荷を漁り、専用の筆と墨壺をひっぱり出した。素焼きの小さな壺は油紙と皮と魔術の陣を刻んだ絹で厳重に梱包されている。中に入っているものは〈魔封じ〉に用いる特殊な朱墨である。
 筆と壺を手に立ち上がると、将軍はすでに上半身の衣服を脱ぎ終えていた。
 彼の鍛え抜かれた裸身は彫刻家が掘り出す理想をそのまま体現していた。呪われる前にはいくつもあったという切傷の名残は微塵もなく、強靭な筋肉を息づかせた皮膚はただなめらかだった。目にした者は老若男女問わずに誰もが見惚れるに違いない。
 その背に刻まれた、禍々しさ漂う、紅の紋様さえ、なければ。
 ヤヨイは作業台として引き寄せた卓の上で壺の口を開けて筆先を浸した。柄を持ち上げると、やわらかな栗鼠の毛には赤黒い液体が絡みついていた。
 星の河のように艶めく墨は、膠と丹と銀とスグリの汁と、魔術師の血でできている。
 ヤヨイは古い言葉で呪(しゅ)を唱えながら、将軍の背に筆を置いた。その先を紋様の隙間を埋めるかたちで走らせる。瞬く間に朱墨は将軍の肌に染み、同化して、魔の光をほのかに発した。
〈魔封じ〉は文字通り、個人の魔力を封じる術である。
 将軍の魔力はあまりにタダヒトの分を超越し過ぎていた。彼は畸形を生み出す高密度な魔の溜まり場と同然なのだ。結界である里や彼の国から出る場合は一定量まで魔を落としてしまわねば世界そのものに影響が出た。たとえば、今宵の豪雨のように。
 この術は誰もが扱えるものではない。ヤヨイと将軍自身を含めても指折り数えられてしまう。自分で自身の魔を封じることは難しいため、将軍の肌に術を刻む役割はいつもヤヨイのものだった。
 けれど、それも、もう。
「ヤヨイ?」
 将軍と目が合って、ヤヨイは驚きから退いた。椅子に腰かけたまま、彼は訝しげにヤヨイを仰ぎ見ている。
「終わった?」
「終わりました」
 将軍が着替えやすいように距離を置き、壺を厳重に密閉する。筆は墨を丁寧に落としてから葦の筆巻きに包んだ。それらを緩衝材である綿入りの布でまとめてしまう。
 片づけを終えて面を上げると、将軍は裸身を晒したままだった。彼から真っ直ぐ目を向けられ、ヤヨイは思わずたじろぐ。
「どうかなさいましたか? 服をお召しにもならず……風邪を引いてしまわれますよ」
 床に落とされた将軍の衣服を拾い上げて忠告する。だいたい、早く袖を通して欲しい。男に対して言う言葉ではないが、目の毒なのだ。
 けれど将軍はヤヨイの心中などさっぱり知らぬ様子できょとんと瞬きを繰り返している。そしてふいに、声を上げて笑いだした。
「あはははっ、その台詞(せりふ)、ひさしぶりに聞いたなぁ!」
「……え……え?」
「風邪を引くってさ。俺はそうじゃないのに」
(そうだった)
 いつも失念してしまう。将軍が病を得ることはもはやないのだと。
 ヤヨイは唇を引き結んで立ち尽くした。ため息しか出てこない。
 将軍が身を乗り出して、ヤヨイが握りしめる衣服の裾を軽く引いた。
「俺は怒っているんじゃない。責めてもいない。泣きそうな顔する必要はないよ」
「泣きそうな顔なんてしていませんよ」
「してるって。ヤヨイはこの頃、いつもしてる」
 将軍はヤヨイの手から引き抜いた服に袖を通した。面倒がってか前をはだけさせたままの彼は、右の足首を左の膝の上に乗せて卓に頬杖を突く。
「昔はいろいろ小言も言っていたけどさ。……何に対してもころころ笑ってたのにな、ヤヨイは」
 ヤヨイは将軍に微笑んだ。
「もう……子どもではないだけです」
 きちんと仕事を手伝えていたかはわからない。彼の旅に付いていける。それだけのことが嬉しかった。将軍の傍にいられることが、ヤヨイにとっての無上の喜びだった。
けれどそれ以上を一瞬でも望んでしまったとき、ヤヨイは無邪気でいられなくなってしまった。
――里の者たちは将軍から平等に愛される。彼に従う者として。
彼の愛がそこから逸脱することはない。
「そっか。ヤヨイも大人になったなぁ」
 ヤヨイの主張が背伸びをする子どものそれだといわんばかりの口ぶりだ。
「ほんとうに、わたしはこどもじゃないんですよ」
 苛立ちながらヤヨイは将軍に手を伸ばした。
「わかっていらっしゃいます? 女性の前でそういう格好をされるのは礼節としてどうなんですか? もう」
 はだけたまま放置された彼の襟元を正して釦をはめる。将軍は驚きの表情を浮かべたがそれも一瞬だ。ヤヨイにされるがままとなりながら楽しそうに目を細める。
「はずかしいの?」
「ちがいます!」
 即座に否定したが、説得力には欠けた。手元は震えているし、頬も熱を持っている。
 くすくすと笑う将軍に、ヤヨイは反論を重ねた。
「だらしのないのがいやなだけです……」
「はいはい。ありがとな」
その愉快そうな顔が妙に腹立たしい。
 全ての釦を留め終えて将軍の前から退いたヤヨイは、寝台の上に投げ出された外套に気が付いた。彼はまだ片づけていなかったようだ。
「将軍」
「なんだ?」
「……今回の旅は……本当に、お仕事ですよね?」
 外套の埃を払いながら、ヤヨイは将軍に尋ねた。彼はもちろん、と首肯した。
「仕事だ。アーヴソーウィルにある遺跡の調査を手伝って欲しい……そう言ったろ?」
「はい。ですが……」
「はっきり言っていい。ヤヨイを里から連れ出す口実だったんじゃないのかって訊きたいんだろ? まぁ……おおかた当たりだ」
 外套を壁の衣装掛けに吊るし、ヤヨイは将軍を振り返った。彼は椅子の背に重心を預けて浅く座り、長い両脚を無造作に投げ出してヤヨイを見つめ返していた。
「なんだか会うたびに、いまにも泣きそうな顔されるし。里にいると色々と考えすぎることもあるんじゃないかって思ってさ」
「……それで、今回の仕事を?」
「アーヴソーウィルでヤヨイの助けがいるなって思ったのが先だったけど、そっちは別に急ぎはしないんだ。のんびりするのもいいだろ? ヤヨイはもうちょっと息抜きや遊びを覚えた方がいいと思うよ」
「息抜き……」
「二六時中、里の仕事をこなして、下の面倒見て、研究して」
「それは私だけではありません。里の者、皆そうです」
「そうか? 必要に迫られないと外に出ようともしないのは、ヤヨイぐらいだって聞いているけど?」
「それは……」
 事実だ。
 許可なしに街の外へ出ることは決して許されない。しかし許しそのものは仕事でなければ下りないというものでもない。節度を守りさえすれば難しいものではなく、近場の町へ遊びに出かける者も多かった。
 ヤヨイが外出を申請する理由は、買い出しか、仕事か、術の研究のためだ。それも用件のみを済ませて戻ることが常である。
 ヤヨイは幼少時より遊ぶ余裕を持てなかった。持たなかった、という表現が正しいかもしれない。ヤヨイは必死だった。少しでも早く、将軍の役に立てる魔術師になりたかったから。役に立つ術者であることが、彼の傍にいられる条件だったから。
「……ヤヨイにだけ言えることじゃないんだが……」
 将軍は珍しく躊躇を滲ませてそう前置いた。
「辛いなら、俺たちという存在に縛られる必要はないんだ」
「……どういう、意味ですか?」
 ヤヨイは低く呻いた。将軍が顔を上げて微苦笑を浮かべる。
「先祖の意思を継いで、俺たちの助けになろうとしてくれていることは本当に嬉しい。救われたことも多くある。けれどもう五百年だ。充分だよ。選びたい道があれば進めばいい。里の皆はもっと自由に生きていいんだ……」
「そんなこと、おっしゃらないでください!」
 ヤヨイは思わず叫んでいた。血の気が、津波を控えた潮のように引いていた。どうして――……ヤヨイの生の在り方を否定する発言をするのだ。
「別の生き方を望む者もいるかもしれません。ですけど……私にはそんなことをおっしゃらないでください!」
自分は義務で将軍に仕えているわけではない。強要されてもいない。決して。
「ヤヨイ」
 椅子から立ち上がった将軍がヤヨイに駆け寄る。ヤヨイは反射的に距離を置いた。背が壁に突き当たった。
間合いをとって佇む将軍を、ヤヨイは恨めしく見据える。
「わたしは、そんなことが、つらいんじゃないんです」
「じゃぁ、何が辛い?」
あなたの、その、やさしい手が。
自分に伸ばされる男の手から顔を背ける。その指先はヤヨイに触れる寸前で震え、遠退いていった。
落胆と安堵、両方がないまぜとなって吐息となる。
「……私を泣かせるお人は――あなただけです。将軍」
 ヤヨイの感情を揺さぶる人間はこの男だけだ。ほかにはいない。
しじまに代わって、雨音が部屋を満たす。
一時は桶をひっくり返した勢いで樋(とい)を叩いていた雨も激しさを収めつつあるらしい。しきりに耳朶を打っていた水音はやや穏やかなものとなっていた。
 ヤヨイは肩から力を抜いた。冷静さが戻り始めていた。
「……馬車の中でも、すごく泣きたかったんですから、私」
 ヤヨイが今朝の件を持ち出すと、将軍は緊張をふいに緩めた。話を深刻なものにしない意図が伝わったのだろう。悪かったよ、と彼は呻く。
「……でもそんなに嫌だった? それはそれで傷つくなぁ……」
 どんな女もこの男に恋人として扱われれば普通は舞い上がる。その場限りだとわかっていてもだ。
 けれど残念ながらヤヨイに状況を楽しむ余裕はなかった。
「関係を説明するにも、もっと他の言い方があったはずです」
 ヤヨイが狼狽するとわかっていて将軍は周囲を誤解させたのだ。意地の悪い。
 ヤヨイの主張を聞いて将軍が首をかしげた。
「……じゃぁどんなふうに説明したらよかった?」
「どんなふうにって……正直に話したらいいじゃないですか。将軍が主人で、私はお仕えするもので」
「するとなんだか俺が偉い奴みたいじゃないか」
 心外だといわんばかりの将軍をヤヨイは呆れた目で眺めた。
王だろう。まがりなりにも。それでも偉くないと言うつもりか。
 指摘をぐっと堪えて、ヤヨイは別案を提示する。
「……それがお嫌でしたら……兄妹とかでもいいと思いますけど」
 将軍とヤヨイの面差しは似通っている。民族的には近いからだ。瞳の色こそ空色で将軍の深緋とは異なるものの、ヤヨイの髪色は黒で肌も乳白色。昔は将軍と親子で通じた。
 ヤヨイの提案に将軍は面白くなさそうだった。
「……なんか、そこまで徹底して嫌がられると、ホントに傷つくな」
「……嫌、とかではなくて……」
 困るのだ。
 立場を、錯覚しそうになる。
 しかしそれを将軍に説明することは憚られた。
 言葉に窮するヤヨイを将軍が軽やかに笑った。
「いやいや大丈夫だって! ……かわいいなぁ、ヤヨイは」
 彼は一歩踏み出して手を伸ばし、ヤヨイの頭をぐりぐり撫でる。ヤヨイはそこでようやっと将軍の性格を思い出した。
(そうだった……)
 人が困ると嬉々とする性質(たち)なのだ、この男は。
 深刻そうな顔をしながら内心はヤヨイの感情の起伏を楽しんでいたのかも知れない。俄かに腹立たしさがよみがえり、ヤヨイは唇を曲げた。将軍の腕の下をかいくぐる。
「あ、あれ?」
 そして強い歩調で扉へ向かい、取っ手を握って振り返った。
「食事に行って参ります!」
 扉を力任せに開き、半ば叩きつけて閉じる。
「ヤヨイ!」
 背を追ってくる呼び声に無視を決め込み、ヤヨイは食堂へ続く階段を憤然と下りた。


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