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1 将軍


「ねえさま、ねえさま」
 書斎で文机に向かっていたヤヨイは呼びかけに戸口を振り返った。花模様の刺繍鮮やかな戸布を掻き分け、三つ子の童女たちが顔を覗かせている。生成りを紺で縁取った揃いの法衣をまとう彼女らは、ヤヨイの妹たちである――母を同じくしているという意味ではなく、年上の女子を姉、逆を妹と呼ぶ習いが、この里にはあった。
「あら、どうしました? こちらまで来るなんてめずらしい」
 ヤヨイは筆記具を真鍮製の皿に置き、跪坐の姿勢で妹たちに向き直った。彼女たちがこちらを訪うことは稀である。この〈学びの棟〉に並ぶ部屋は、年長者の書斎に書庫に、自習室、瞑想室、折檻室――遊びたいざかりからは、倦厭されがちな場所なのだ。
 妹たちはヤヨイの問いに答えなかった。意味深な笑みを浮かべてひそひそ囁きあっている。
 ヤヨイは不快さに眉をひそめ、腰に手を当てて叱りつけた。
「何ですか? 用件があるならきちんと言いなさい」
 三人が団子になって飛び跳ねた。順繰りに口を開く。
「やだわ、ねえさま、怒らないで」
「そうよ、ねえさま、報せにきたのに」
「きいて、ねえさま、将軍がおいでなのよ」
「……将軍が?」
 ヤヨイが鸚鵡返しに呟くと、妹たちは大きく首肯した。
「いま、長老さまのところにいらっしゃるって」
「さっき、占衆(うらしゅう)の子たちが言っていたの」
「これから、しばらく城を留守になさるのですって」
「そう」
『将軍に会いに行かれないの? ねえさま』
 きれいに声重なった詰問にたじろぎながら、ヤヨイは首を横に振った。
「もちろん後でご挨拶には伺おうと思うけれど……。婆さまのところにおいでなら、何か話し合うことがおありなのでしょう。……私にもまだ、することもあるし」
 抗弁しながら机に広がる紙を一瞥する。この半月ほどかかりきりで書いている魔術の指南書だ。もう少し進めれば区切りがよい。
「教えてくれてありがとう。あなたたちはもう行きなさい」
 妹たちに手を振ってヤヨイは文机に向き直り、取り上げた筆記具で墨壺の蓋を押し上げた。紙面を丁寧に伸ばし、過去の賢人が記した資料を見やすい位置に配して、いざ――……。
「将軍、さびしがられるわ、ねえさま」
「将軍、かなしまれるわ、ねえさま」
「将軍、がっかりなさってよ、ねえさま」
 すぐ背後を陣取った気配の塊が、この世の終わりを告げるような悲壮さで、口々に囁いた。
 彼女たちの表情は完璧に野次馬根性丸出しのそれだ。ヤヨイの反応を確かめ、楽しんでいるのだ。誰だ、この口達者な幼い娘たちをここに寄越した者は――焚きつけられなければ、彼女たちが苦手な庵まで足を運んだりするものか。
 妹たちを睨みつけることしばし。
 ヤヨイはため息を吐いて、席から立った。



 そもそも作業を中途半端に放り出して、かの男の下に駆けつけていた子供の時分は、とうに過ぎたのだ。
 ところが周囲はそう思っていないらしい。
 ヤヨイは三つ子たちをけしかけた容疑者を指折りに挙げながら濡れ縁に出て、戸を後ろ手に閉めた。ひとまず気持ちを落ち着けるべく深呼吸し、うんと伸びをする。
 吹き渡る風は新芽の香りを多分に含んで、春の訪れを匂わせている。温かな陽気に身体がほぐれるようだった。
 ヤヨイは気を取り直し、濡れ縁伝いに歩き出した。行きついた階段を下り、正門をくぐって道に出れば、陽光に白む〈里〉を一望できる。人口は二百と少し。魔術師の素養ある者だけを集め、養育し、訓練を施す、存在を秘匿された集落である。
 学びの棟や、施療院、長老たちの庵が、いくつかの人家を囲むかたちで並ぶ。それらはおしなべて木造を主とする異国の建築様式に則って建てられ、里に独特の情緒を与えていた。
 里を隙間なく包囲する森林が、雰囲気をさらに幽玄なものとしている。南に広がるは小高い丘に立ってさえ果ての見えぬ針葉樹林。北を制するはかがやく銀葉と淡紫の幹を有した樹木の連なる、魔の樹海。
 長老たちの占所(うらしょ)は、その北の森を背にした、里の奥にあった。
 番をする壮年の男たちに挨拶して占所に上がり込むと、晩冬の冷気がヤヨイを出迎えた。寒気をやわらげる日差しが窓から差しこみ、金の四角模様を床板に描いている。その光線の中を泳ぐようにして廊下を渡り、黒塗りの階段を上がれば、長老たちの奥座敷だ。平時なら開放されている戸は閉じられていた。
「お入り、ヤヨイ」
 立ち止まったヤヨイに室内から声がかかる。ヤヨイは一礼して跪坐し、戸を開けた。半円を描いて座る長老たちと、彼女たちの前であぐらをかく将軍の背が見えた。
「何用かね?」
 最長老の婆が盲いた目をヤヨイに向ける。ヤヨイは面を伏せて問いに応じた。
「将軍がお帰りだと伺ったものですから。ご挨拶に参りました」
「そんなんよかったのに」
 他ならぬ将軍が口を挟む。彼は傍らに置いていた剣を手に立ち上がり、ヤヨイの方へと歩いてきた。
「今から顔を出そうと思っていたところだ……それじゃあ、トビア」
「失礼いたします、将軍」
 最長老が恭しく将軍に頭を垂れ、他の者たちもそれに倣った。話し合いはとうに終わっていたようだ。盆の上に広げられた茶菓子の包み紙と空の椀が、雑談に興じていたことの証左だろう。
「いこう、ヤヨイ。それともトビアたちに用事ある?」
 将軍に問われ、ヤヨイは否定に首を振った。長老たちに再び一礼して身を起こす。将軍は既に歩き始めていて、ヤヨイは早足で後を追わねばならなかった。
 将軍、とは、彼の身を表す正しい呼称ではない。
 いや、彼は確かにその位に就いて軍を率いていたのだろうが、遠い遠い昔のことだった。
 ただ身体は呼び名にふさわしく今も鍛え抜かれたものだ。彼のすっと伸びた背を見るとき、ヤヨイはいつも、業物(わざもの)のうつくしい鋼を思う。靭(つよ)く、しなやかで、触れた血肉をすっぱり断つ、滑らかな銀の一条を。
 髪色は黒曜石のそれ。瞳は真夜中に焚く火を思わせる、深い赤である。顔立ちは精悍で、端整だった。雑然とした戦場を生き抜いてきたとは思えぬほどの高貴さがあった。
 彼は、王――この里の母体たる国の、頂点に就く男だ。
「お帰りなさいませ。今回も長かったですね。どちらへお出かけだったのですか?」
 将軍と並んで階(きざはし)を下りながらヤヨイは尋ねた。半年ほど前が彼を見た最後である。
「あちこちだよ。でも長居したのはアーヴソーウィルだな」
 ヤヨイは脳内で地図を広げた。アーヴソーウィルは大陸の東北端にある国だ。氷河と湿地帯を領土とする。
「いろいろ変わってて面白かったよ。……まぁ、おおかた百年ぶりだ。変わっていて当然なんだけどな」
 呟いた将軍は若いといって差し支えないその顔に自嘲を過ぎらせた。
 二十七、八の頃、将軍は不老不死の呪いをその身に受けた。以来、優に五百年は生きている。彼だけではない。呪いはひとつの都市を丸ごと呑みこみ、その場にいた者たちは誰もが老いと死のない身体となって、今日まで生き続けているのだ。その都市こそ、北の森を隔てて在るかつての帝都。現在は将軍を君主とする国である。
 そして将軍たち不老不死者の縁者を祖として開かれ、解呪の方法を代々探し続ける里が、ヤヨイの属するこの集落だった。
「最近ヤヨイは書斎に籠りっぱなしなんだって?」
 将軍はヤヨイの近況を長老たちから耳にしたらしい。そうです、とヤヨイは頷いた。
「知っている術を書きとめておこうと思いまして。……かなりたいそうなものになってしまったので、なかなか終わらないのですけれど」
 年々、魔術師の数は減りつつある。里もいっときは千を下らぬ術者を有していたというのに。
 人数ばかりではない。個々の扱える術の種類もずいぶん少なくなった。術式を記録した魔術具の類を起動させられる者も減りつつある。かつては口伝だった術を後世のために紙に残すことが求められるようになったのもそのためである。
「退屈で仕方ないだろ?」
「いーえ。そうでもありません。机仕事がお嫌いな将軍とは違いますもの」
 将軍は王である。その責務は国を治めることである。しかし将軍は皆が粛々と日々を送るに任せ、必要最低限とされる職務まで放り投げて放浪している。彼は里にもあまり姿を現さない。ヤヨイが生まれる前など、十年単位だったそうだ。
「手厳しいなぁ、ヤヨイは」
「将軍はふらふらし過ぎなんです! ……ですが、いいですね、アーヴソーウィル。私、行ったことないんですよ」
 里の術者は仕事でない限り遠出することは滅多にない。そもそも許可なく外出を許されない。秘匿性の保持と術者の紐付け、両方の理由で。
 ヤヨイがぼやくと、将軍が待っていたとばかりに顔を輝かせた。
「じゃぁ、行こうか」
「……はい?」
 ヤヨイは立ち止まって将軍を見上げた。彼は深緋(こきあけ)の双眸を笑みに細めている。ただし、きわめてあくどく、含みのある笑みである。
 将軍はヤヨイの耳元に顔を寄せ、あまやかな響きでささやいた。
「出かけよう、ヤヨイ。アーヴソーウィルへ」
 その後に続く、仕事だ、の一言がなければ、逢引の誘いのようだった。



 将軍の来訪を耳にした時点で、仕事を持ちかけられる気はしていた。
 ヤヨイは里の誰もが認める腕の魔術師である。とある魔術師曰く、ここ千年でも五指に入るとのこと。その技量ゆえにヤヨイは幼い頃から、たびたび助手として将軍に喚ばれてきた。
 彼に同行して初めて遠出したのは十の暮れ。十三のときには半年ほど共に暮らした。二十になる今日まで、将軍と旅した数は年齢のそれを超える。ヤヨイが将軍のお気に入りであると里の住民たち共通の認識となってしまったのは致し方ないことだ。
 だがこのような蜜月はそろそろ終わりにすべきだと、ヤヨイは思っていた。
「一緒に来てくれないのか? ヤヨイ」
 ヤヨイの居室で椅子に腰かけ、卓に頬杖を突く将軍は実に不満そうだった。
「そうは言っておりません」
 ヤヨイは紅茶を淹れながら説明した。
「将軍にお仕えすることは私たちの喜びであり、誉れです。将軍がお求めでしたらどこへでも馳せ参じます。ただ経験を積ませるという意味で、私ではなくほかの子たちを連れてはいかがですか、と申し上げているのです」
「昔はどこ行くにも二つ返事でついて来てくれたのになぁ。さびしいなぁ。うわぁさびしい」
 卓の天板に顎を載せ、将軍がぶーたれる。突き出されたその下唇の前にどんと茶器を置いて、ヤヨイは腰に手を当てた。
「今と昔は違います。子どもみたいに不貞腐れた顔をなさらないでください」
「だってさぁ……なぁ?」
 何が、なぁ、だ。
 ヤヨイは対面の椅子を引き、腰を落としながら尋ねた。
「……ほかの者では不服ですか? 将軍」
 彼は否定に首を振った。
「実際のところ、今回はほかの術者じゃ難しい。場所の魔が強すぎるんだよ。……ヤヨイが一番適任なんだ」
 そのように将軍がヤヨイをあえて指名するということは、それだけ問題の場所の魔の密度が濃く、下手な術者では対応しかねるということなのだろう。
魔、とは、世界を循環する、力のことである。
 魔には大きくわけて二種類ある。ひとつは内在魔力。動植物といった命あるものの身体を満たす魔力である。もうひとつは、外在魔力。無生物に宿るかもしくは宙を浮遊している。
 通常なら外在魔力の量は生物に潜在する内在魔力のそれを越えることはない。だが何らかの理由で内在魔力が外在魔力に屈すると生物は魔の侵蝕を受け、自我のない畸形と化してしまうのだ。
 よって魔が高密度となっている場所には、ことのほか内在魔力の高い者か特殊な結界を張れる者、いずれかしか存在できない。里の術者の魔力が低いわけではないが、ヤヨイはその中でも遥かに抜きん出た存在で、高密度の魔力に対しても高い耐性を有していた。
「それに……」
 将軍が唐突に顔をことんと横に倒し、途方に暮れた子犬のような上目使いでヤヨイを見上げた。
「ヤヨイが来ないと、俺がさびしい」
 せっかく色々下見したのにさぁ、とぼやく男を前に、ヤヨイは絶句した。
(またなにをいいだすの、このひと)
 気のない女にかける言葉ではない。
 まったくもって、ほんとうに、ひどい。
 将軍はかねてより、ヤヨイを甘やかし続けてきた。
 それは彼の助手としてたびたび働く遠縁の子どもに、駄賃を与えるようなものだったのかもしれない。けれど彼から浴びせられる甘言とやさしさはヤヨイを溺れさせるには充分だった。将軍はヤヨイにとって父であり兄であり師であり主であり――もっとも身近な男だった。ヤヨイはいつしか彼を愛していた。
 将軍がヤヨイを愛人とする日はまず来ないとはわかっている。里の女に手を出さないことを彼はきまりとしていたし、ヤヨイは不世出の術者でありはしてもタダヒトである。ごく普通に老い、将軍よりも先に死を迎える。そんな存在をどうして傍に置けようか。彼の生の呪わしさを際立たせるばかりなのに。
 将軍にとっての便利屋という立場を悲しく思ったことも今は昔だ。
 逆に甘さを与えられるほど苦しさは増した。重なる未来は来ないのだから。
 それでも、ヤヨイは最後には笑ってしまう。
「本当に、仕方のないかたですね、将軍は」
 出発はいつですか、と尋ねれば、将軍は顔を上げて微笑んだ。
「急がないさ。ヤヨイの都合がつくまで待とう」


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