この雪に願えるならば(女王の化粧師)


「おお、初雪だな、ディータよ」
 この国の誇る老将ヘルムート・サガンが窓の外を一目見て笑った。
「何か願わねばならんな。ほれ、お前も何か祈れ」
「遠慮しますよ」
 子供のように目を輝かせるヘルムートにディトラウトは苦笑する。初雪に祈ると願いが叶うという伝えがあるのだ。
「まったく、お前は年々つまらん奴になるの」
「サガン老の洒落気にはいつも頭が下がります。真似できるとも思いません」
「褒められておる気がまったくせん」
 ふむ、と鼻を鳴らす老将に笑い、ディトラウトは王の執務室へ向かっていた。セレネスティは梟とともに次の謁見に向けて支度中なのだ。
 底冷えする廊下を吐く息が白く染める。
(願い、か)
 自嘲の嗤いがこぼれた。
(願う段階は終わっている)
 今は悲願に向けて身を削りながらひとつひとつ階を登るのみ。ヘルムートは「それ」以外を口にしろ、ということなのだろう。だが、そんな願いなどあるはずが。そう思いながら、執務室に到着する。


 扉が開かれる。
 ふたり分の影がある。
 王とその顔を、化粧する――……。


「だから!マリアージュ様いいかげんその眉間の皺!どうにかしてくださいよ!」
 ダイは乳液の瓶を片手に鼻を鳴らした。
「もうちょっと余裕をもって、にっこりしてください。女王なんですから」
「どうせ私はいつも余裕ないわよ。無能よ。あんただって知ってるでしょうが」
 と、ダイの女王マリアージュは唇を尖らせた。だめだ。完全に拗ねる体勢に入っている。これから家臣と接見だというのに。もー、と困るダイからぷいと顔をそむけた女王は、とたんに顔を輝かせた。
「あら、初雪ね…」
「本当ですね」
「あの狸たちが腹痛や下痢でもだえ苦しみますように」
「陛下…発想がすごく小物臭いです」
「何よいくらむかついたって狸たちにはいてもらわなきゃいけないんだもの。ダイもなんか祈ったら?」
「陛下が私をもう少し労わってくださいますように」
「あんたね…」
 女官たちが笑いだす
「本当に! あんたは! 私にそう怒られたいのねそうなんでしょ!」
「ひひゃいひひゃい! ひひゃい!」
 女王に力の限り唇をつままれ、必死の抵抗を試みた。同時に初雪に願う。
 助けて……。
 その祈りに応えるように。
 がちゃ、と、扉が開いた。
「何をしているんですか…?」
 穏やかに響いた、呆れた男の声に、マリアージュとダイが顔を上げたのは同時だった。はっと、息をのんで。その視線を受けたアッセが、慌てだす。
「えっ? 陛下も、ダイも、本当にどうしたんだい…?」
 亜麻色の髪に亜麻色の瞳の宰相を見て、二人同時に息を吐き、思わず、顔を見合わせていた。



「……兄上? どうしたの?」
 女王の座につくセレネスティが、ディトラウトの主君が首をかしげる。セレネスティを化粧していた側近の梟も同時に顔を上げ、いつもは無表情に近い顔に訝りの表情を浮かべていた。ディトラウトは扉口に立ち尽くしていたことに気づき、いえ、と首を横に振った。
「……なんでもありません。支度は、おわりましたか?」
「見ての通り、化粧に手間取ってるよ……梟ももう少し勉強しよう?」
「もうしわけございません」
 主従のやり取りをしばらく眺めながら、ディトラウトは笑い、泣きたくなった。


 マリアージュが目を伏せ、ダイは小さく笑って、化粧道具を引き寄せる。窓の外では、雪が、まるで神の光のかけらのように、ほの輝いて降りてくる。自分は、たぶん祈った。マリアージュも、おそらく。ふざけた言葉の裏で。焦がれるように。


 古くから守るべき家族があり、新しく出会いし仲間も持ち、それでもなお、過去いっときの関係を、この雪に希った愚かさを。
 主よ、あわれみたもうな。