おかえり(FAMILY PORTRAIT)


「クリスマス消滅すればいいのにって思います……」
 ばたりとダイニングテーブルの上に突っ伏すみちるの姿に遊は苦笑した。
「みっちゃんにとって一番忙しい時期だろうしねぇ……。どんなケーキなの?」
「ホール型のケーキなんですけど、デコレーションにマカロンが大量にいるんですよ……」
「マカロン……」
「あれ作るのすごくすごく神経使うんです。すぐに割れるし砕けるし廃棄率高くなるし」
「それで今日のお土産マカロンなんだ……ちょっともろもろだけど」
「マカロンクッキーです。売り物にもならないのです。あああああもうマカロンなんて見たくない……! フランスから離れてようやっと見なくていいと思ったのにこれですよ!」
「よっぽど嫌なんだね……」
 もともと好きが高じて入った道。パティシエのみちるが菓子作りを厭うことはそうないし、どんな菓子の類もやすやすと上手に作る彼女だが、マカロンとだけは相性が悪いらしい。ブッシュドノエルにしてほしかった、せめてマカロンなしにしてほしかった、マカロンクッキーあたりにしてくれるだけでもよかった、と愚痴る様はなかなか珍しいことだった。
 繁忙期の十二月に入ってクリスマスを目前にした日曜日。昼前にやってきて早々これである。よほどマカロンづくりが堪えているのだろう。
「特集組まれたせいで、全国から注文多くて……」
 みちるの就職した洋菓子店は都内の中心からやや外れた一角に居を構える小さな店だったが、先日テレビでドキュメンタリーが放映されたせいもあって盛況を通り越して死屍累々らしい。
 今後スタッフをさらに拡充することはもちろん、都心に移転することも考えているとか。
「うちの分の確保、無理だったらいいよ。……ひとりぶんだし」
 遊はカレンダーに視線をやりながら言った。クリスマスケーキは前々から依頼していたのだが、縁故を頼ったものであって正式な予約ではない。つけくわえると、クリスマス前後の数日、遊は家にひとりである。予定していた四号サイズは甘いもの別腹といえども手に余る。
「あれ、音羽さんは?」
「出張なんだよね。実は」
 十二月の頭に渋い顔で帰宅するなり、やすみがない、と呻いた家主は、どうやら昇進とともに新規プロジェクトの立ち上げに奔走しているらしい。
「せっかく結婚したのに」
「まあそんなもんよね。みっちゃんとこは?」
「残業はさせられてくるんじゃないかなって思うんですけどね」
 イブも聖夜も平日である。当然ながら世間さまは皆仕事。音羽のことばかりは言っていられない。遊自身ももれなく。
「まあ、そんなわけだから。うちのぶんは無理しなくていいよ」
「そんなわけには」
「確保してくれるっていうなら、マカロン抜きでいいよ」
 みちるはきょとんと目を丸めると、苦笑に肩を揺らして、ありがとうございます、と言った。


 クリスマスは共に過ごしたい誰かがいる者たちだけのお祭りだ。友人。恋人。あるいは家族。
(わたしにはそのどれもなしなんだよねー、ざんねんながらねー)
 世間は騒いだところで平日がいきなり休日になったりはしない。仕事は山積しているし、同僚や友人たちはそれぞれの恋人や婚約者とデートすべく仕事を猛烈な勢いで片づけて帰って行った。遊自身はというと新婚を邪魔しちゃあなどと不必要に気を回してくれたせいで予定なし。友人たちが片づけきれなかった仕事を引き取ってデスクに残っている。
 叩き込まれた習い性のせいで仕事をするのは嫌いではないのだが、ひとりで節電により灯りの絞られたオフィスに残るとなんとなく気が滅入ってきた。窓から見える都心のイルミネーションがきらびやかなのがむなしさを掻き立ててやまない。
 期限がきられているものだけ片づけて、予定よりはやくオフィスを出た。

(わたしって……ひとりがきらいなんだなー)
 ぼんやりと自覚してはいたが、強く思ったのは初めてかもしれない。
 思えば自分は本当の意味でひとりになったことはなかった。クリスマスは毎年友人たちとそこそこ賑やかにしていた。学生時代は仕事先でパーティーをすることが常だった。人々が賑やかなときにひとりでいることを痛感させられることは幸いにしてなかった。
(ああ、なんかやだな、こういうの)
 たまたまクリスマスにひとりだけだった。たまたまだ。自分は別にひとりでないことを知っているのに。
 無知で愚かなまま世間に放り出された高校生の自分に戻ってしまう。

 遊は中心街へと繰り出す人々の流れに逆らってまっすぐ自宅のマンションへ戻った。吐く息が白い。世界は寒い。
 一階のバルコニーから漏れる子どもの笑い声に訳もなく感傷的になる自分が嫌だ。マッチ売りの少女の気分だった。
 ひとりになりたくないから、結婚したのに。
 エレベーターを降りて、鍵を差し込み、開く。オートで玄関のライトが点灯する。気だるげに靴を脱ごうとしてふと、遊は目を瞠った。
 男物の靴があった。
 リビングに足を踏み入れてライトを付けると、ソファーの上で横になる男がいた。
「音羽、なんでいんの?」
 眩しそうに目元に手を置いた男は、あぁ? と不機嫌そうな声を上げた。
「出張早めに切り上げて帰れそうだって夕方メール送ったろう。見てないのか?」
 遊は鞄の中から携帯を引き抜いた。会社から支給されているものとは別のものだ。
「……見てなかった」
「……だろうと思った」
 まったく、と溜息交じりの呆れ声を上げて、音羽がのっそり起き上がる。遊は思わず反論した。
「ええー、でも、切り上げるとか絶対無理っていってたじゃん!?」
 音羽に新しく付けられた部下とふたりで北陸の工場に出張だったのだ。
「成川ひとりに任せられそうだったんでな。俺は明日のために戻れっていうことになったんだ。……で、飯は? 買ってきたのか?」
「……何もない」
「はぁ?」
「だって……ひとりだと思ってたし」
「世間はクリスマスでうまいもの食ってるんだぞ!? 飯もたいてないのか!?」
「冷凍ピザはあるよ」
「冷蔵庫を覗いたときに嫌な予感はしていた」
 買うか、と呟いた音羽は、椅子の背に放り投げていたコートを取り上げた。マフラーを手早く巻き付けながら、おい、と声を掛けてくる。
「何ぼっとしてるんだ? お前は」
「へ、へへ……」
「……遊?」
「おとわー」
 胸のあたりに頭突きをすると低い呻きが返ってくる。何をするんだ、と男はいうだろう。とりたてて意味はないのだ。
 ただ。
「おかえり」
 ひとりでないことが嬉しかった。
 この一瞬、過ごす誰かがいるということは、どれほどの奇跡なのだろう。
 音羽が軽く遊の頭を叩いた。
 コンビニに行こうと彼は言った。


「遅くなっちゃった……。ユトさんに謝らないと」
「メールではなんて?」
「返事はまだ来てないの」
「ユトちゃんも仕事だったりするんじゃない?」
「かなぁ」
「そうだよ。ユトちゃんもあれで忙しい身だもんね……うん?」
 最寄り駅から兄の新居に向けてみちると歩いていた叶は、コンビニエンスストアの前で足を止めた。これから今まさに会いに行かんとする兄夫妻がコンビニのシャンパンの前で言い合いをする姿が目に入ったからだった。
「……あれ、音羽さん、今日出張だったんじゃ?」
「いるね。っていうかもー、なに言いあいしてんだろ。いい年扱いてさー。恥ずかしくないのかな」
「でも楽しそうよね。音羽さんとユトさん」
「まあ、そうだけどさ」
 あのふたりは、口論の最中でさえどこか楽しそうだ。
 もっとも叶とみちるの友人である奈々子に言わせれば、お前たちがそれを言えたことか、らしいのだが。
 だが遊がひとりでない姿を見てほっとした。彼女がひとりでいる姿は見るに堪えないものがあるから。
 彼女にはひとの輪の中にいて欲しい。
 それは妹尾の兄弟の共通の願いだ。
「あ、ケーキの方に移動した」
「みちる。ケーキ持って行くの遅いからって、忘れられてるんじゃない?」
「うう、かも」
「あーあ、もーユトちゃんの分のマカロン、僕が食べるよ。いこうみちる。ふたりを止めないと」
 はあ、とため息を吐いた叶に、みちるが肩を揺らして笑った。