That is so beautiful(女王の化粧師)

「あ、わたし、この人と結婚します」
 と、仕えている主は言った。いや、厳密にいうなら自分は王宮勤めの騎士に過ぎないが、自分たちはとにかく今度こそ、この娘を主人として守り抜こう。そうランディは相方のユベールと決めたのだ。
 しかし。しかしである。主人の唐突な発言に近衛としてひと言もの申してもよいのではないか。
 ランディの主人、ディアナ・セトラ――公称をダイという女王の第一の側近たる化粧師が、稀に見るほのぼのとした顔で紹介してきた相手は、隣国の元宰相だったのだから。
 ダイを支える側近は大陸会議で顔を見たりなんなりして男の素性を知っている。ランディとユベール、ブレンダ、アレッタ、リノという、騎士からは古株の自分たちと、女性騎士筆頭、化粧室の副官と筆頭女官を集めて、ダイが告げる。ダイの隣の席には彼女が結婚を希望する男としれっと席に着いていた。
「陛下から許可をいただいたので、情報を開示します。なので、選んでほしいんです。裏の事情まで知るか、表向きの事情だけ聴くか」
 裏の事情を聞けばマリアージュが生きている限り王城から死ぬまで抜けられなくなる。
 その確認はダイにとっては誠実の証だとわかっているが。
 少なくとも自分たちの機嫌は損なわれたし、ブレンダは激昂した。
「聞くにきまってるではありませんか!」
「えっ、なんでブレンダそんなに怒っているんですか!?」
「忠誠心を試されたように感じたからでしょう」
 紅茶をひと啜りしてダイの婚約者の座に収まっている男が言う。
 ダイははっと瞬いて悄然と呻く。
「ごめんなさい……そういうんじゃなくて……。わたしに誠心誠意仕えてくれているのは知っているんです。でも、だからこそ、ちゃんと話を通しておきたかったっていうか。疑わしい人に仕えたくもないと思いますし。でも、わたしはこの人を離すつもりがないので」
 ダイがもごもごと言い訳をする。何事もはきはき処断する傾向があり、主君に見せる忠誠以外は、来るもの拒まず、去る者追わずの気がある彼女が、目を彷徨わせて言う様は珍しかった。
「……その答えはすぐに出さなければならないものですか?」
 リノが言った。彼女はユマと同時期にダイ付となった女官で、化粧を彼女に教わっている弟子的な位置に当たる。
「表向きの理由をきいて、必要と判断したそのときに追及してはならないのでしょうか?」
「そうですね。……それでいいと思います。皆さんに知っていただきたいのは、わたしに真実を開示する用意があるということなので」
「ではわたくしは裏向きのことは聞きません。それとも、お話されたほうがダイの御心が軽くなる?」
「……いえ、そういうわけでは」
「なら表向きだけをお教えください。その代わり、別のことをお伺いしたいのですが」
「なんでしょう?」
「そちらの方に」
 リノはダイではなくその隣の男へ視線を向けた。
「あなたはダイの味方なのでしょうか?」
「味方ですよ」
 男の答えは間断なく簡素だった。
「女王陛下を裏切らない?」
「彼女がマリアージュ様を裏切らないかぎり」
「それはありませんけど」
 ダイが不愉快そうに口先を尖らせる。男はふっと笑って、自分たちを見渡した。
 彼は本当にさっと視線を走らせただけだった。
 なのにランディには目の前で剣を振られた怖気を覚えた。
「わたしが生きるに当たって望んだことはただひとつ」
 ――わたしから、彼女を取り上げるな。
「それだけです」
 その言葉から判ずるにだ。
 ダイがその男のものを「自分のもの」と呼ぶように、彼もまたそう思っているということである。
 リノは微笑んで頷いた。
「ユマには報告してあげてくださいね。わたくしはそれで充分ですから」


 結局、その場の誰もがリノに倣った。真実を聞こうが聞くまいが、心が決まっているなら余計なことを聞かない方がよい、と、話がまとまったためである。ただ隣国の元宰相がデルリゲイリア預かりになり、唐突に女王の《国章持ち》の婚約者になるのだ。そこには複雑な事情が絡むのだろうし、ダイが男の隣なら穏やかな空気を纏うのが決定打になった。絶対的な味方が増えるのはよいことだ。


 ただし、ランディとユベールにはダイとマリアージュ、そしてロディマスから別途に別の任務を課された。
 ダイとマリアージュからは少し男の警備をしてほしいと依頼、もとい、指示があった。ダイいわく、デルリゲイリアに「戻った」ばかりで危ないので、ダイの最も信頼できる古参に彼のことを任せたい。彼の近衛は別途、選出中らしく、その合間のことらしい。
 マリアージュはついでに「男の動きが行き過ぎていたら」報告しろと告げた。ダイにとって人畜無害のはずだが、彼女の足場を整えるために、多少、無茶を通すかもしれないらしい。多少の無茶とは何だ。
 ロディマスは最後に「何かあったら」と、言った。もしもマリアージュたちの差しさわりになるなら排除したいのが本音なのだろう。報告してほしいんだ、と、宰相は警戒を滲ませて微笑んだ。


 それからひと月半。元ペルフィリア宰相ディトラウト・イェルニ。現在の名をヒース・リヴォート。
 この監視対象はランディにとって得体の知れない男だ。

 
ペルフィリアで男を王に仕立てたと噂される聖女背信者。主君ともども祖国のために尽くし、けれども守ってきた民人から死ねと弓引かれた。
 冷徹で冷厳な白皙の美貌を持つ政治家。小スカナジアで射殺さんばかりの目を直視したこともあって、おっかないやつだ、と感じたことを覚えている。
 ランディが知る限り、この男とダイのまともな絡みはあの小スカナジアの一回だけ。
 実はマリアージュが即位した初年度、ペルフィリアを彼女たちが表敬訪問したときにも、やりとりはあったらしいが、同行していた同僚たちいわく、ふたりは火花を散らし、親交を深めるなど言語道断といった様子だった。
 それがである。
 聖教騒乱終結時、重傷を負ったものの、マリアージュの計らいにより救われ、デルリゲイリアで保護観察を受ける彼は、何がどうなっているのかさっぱりだが、ダイと恋人同士になっていた。
 

 ペルフィリアで死にかけた元宰相の男は、ダイのためにこの国で生きることを了承した。国どころか、デルリゲイリア王城の外へ自由に出ることすら叶わない。今後の人生、結婚もなにもかも、マリアージュを含めた各国の承認がいる。
 死ねと命じられればすぐに毒を呷らなければならず、いざというときの殺し手ーーランディ自身もそのひとりだがーーに常に張り付かれている。
 それでも。
 どこでどうそうなったのか、ヒースは女王の化粧師をひどく愛しているようだった。
 男は女王と宰相の命でペルフィリアの事後処理だけではなく、デルリゲイリア国内の雑務を負っていたが、それに加えて、進んでダイの仕事の環境を整えることに従事している。
 ダイは商人の伝手から貴族との繋がりを取り付け、その貴族の子女と親しくすることで、どうにかその立場を保っていた。ダイは平民出身の職人だ。苦手な社交に身を投じることや、化粧の時間が減ることに、ダイは苦悩していたが、それを彼女の周りは、女王すら、どうすることもできなかった。
 だがヒースは解決してみせた。化粧品の流通網を貴族の利権を絡めるかたちで整理し、内戦で燻るしかなかった画家や作家、音楽家を巻き込みながら、化粧を普及させる事業を起こしてーー彼らはもっとも貴族に抱えられている類の芸術家だ。これまで化粧という分野の台頭に歯がみしていた彼らは、女王講演の事業に我先にと絡んだし、その支援者たる貴族も同様で、利を生むダイを表立って口さがなくいわなくなった。
 この間、わずかひと月半。
 誰も何も命じていないのに、これだけのことを成し遂げた。
 何も知らない女官たちは愛のたまものだと言った。
 ぽっと出て沸いた美貌の男をやっかんで、あれはダイへのご機嫌取りなのだという者もいる。
 だが、さすがに今回はランディにもわかる。
 ヒースは本当にダイを愛しているのだ。
 互いの仕事の多忙さで、一日の半刻もあればいい面会時間、男のダイを見る目はやさしかった。彼女と言葉を交わす声は柔らかく、それを側で聞くダイの女官たちは一様に頬を赤らめた。
 ランディは男がダイの真名を囁く声音を一度だけ耳にしたことがある。
 それは蜜のように、ただただ甘かった。
 男がダイに惚れ込む理由はわからなくもない。
 ダイはうつくしい。
 少年の成りをしているときはまだよい。女性らしく着飾った彼女はまさしく凶器である。美貌の娘はそこそこいる。教養と気品を備えた美少女は、丹念に育てれば作り出せる。そうでなくても内在魔力高めの貴族なら、美しい造作のものが大半を占めるのだ。
 ランディの知るそういったものと、ダイのうつくしさは別種だった。
 彼女が常に纏う無性の透明感は、朝日を浴びて燦めく処女雪を思い起こさせる。緑の黒髪や雪花石膏の白といった色彩の曇りのなさ。掴めば脆く崩れそうなほど華奢な体躯は、彼女のその無垢さを特に引き立てた。
 一方で彼女には得も言われぬ淫靡さがあった。その言動に媚びたところは決してないのに、何気ない仕草に婀娜っぽさがあって、柔く白い肌に歯を立ててみたい衝動を掻き立てられた。
 だから、男がダイに堕ちても、そう不思議なことではない。彼女の愛を請うためなら、金銀を積む輩も現れる。そうなっていないのは、ダイが女性として振る舞うことがほぼないためだ。女装もここのところは必要最小限に留めているし、男から想いを寄せられていてもなびかない。恋愛より仕事第一。人を誑かしても誑かされない――はずだった。
 ところがヒースはダイを射止めた。この男もたいがい、たいがい、ダイと並んでも遜色しない程度にたいがい(大事なので三回)きれいな顔をしている。だが、美しいだけの男なら他にもいる。
 では有能さか。それもあるだろう。
 何となくこれだろうな、という答えを得たのは、男が女王の命令に従順な理由を、訊いたときのことだった。マリアージュが彼に下す命令は結構な無茶ぶりで、それを解決する能力にも驚きだが、よく淡々と処理できるな、と、感心したのである。


「彼女の理想には賛同できますから」
 王城の人気ない廊下を歩いていた。声は響かない。この男の警護をするにあたって、ランディは《消音》の招力石を貸与されていた。
 ランディは眉をひそめた。
「理想……?」
「二回目の演説に立ち会わなかった……あぁ、あなたには投票権がありませんね。起こしを読まなかったのですか?」
「文字起こし? 二回目の女王選の? 読んだけどさ……」
「理解できていないならもう一度よむといい。あなたは、ダイの化粧をどう思いますか?」
「は? 化粧?」
 唐突な内容に頭がついて行かない。
 黙りこくるランディに男は淡々と問う。
「わたしは彼女の化粧を、うつくしいと思っています」
 と、彼は告げた。
「……わたしは、わたしたちは、祖国で人が平穏に生きられる国を求めながら、終ぞその理想を語れずに終わった。けれど、いまならこう思う。女王が化粧師を傍らにおいても、彼女の仕事はうつくしいからと、その事実ひとつで皆がなっとくできる国こそ、わたしたちが求めた国の在り方なのではないかと。うつくしいものに目を奪われる余裕を、皆が持ち得る国を、わたしたちは求めていた」
 そしてその答えを早々に得て、女王選で訴えた女王こそ、ランディの女王マリアージュなのだ。
 それを別の国から来た男に指摘されてランディは己を恥じた。
 男はランディの反応に気づいているのかいないのかわからない顔で淡々と続ける。
「ダイが女王の傍らにある意義を、だれも疑わなくなったとき、きっとマリアージュ・ミズウィーリ・デルリゲイリアは、その理想を叶えるでしょう。弱さを嘆かなくてもよい国を手に入れている。……その未来はわたしの望むところであり、わたしは彼女の治世の象徴たる化粧師を愛している。……飼い犬になるのに充分な理由では?」
「……あんたは、自由を失ったのに?」
 何かを言い返したくて、苦し紛れにそう言うと、男はふっと一笑した。
「失った? まさか。わたしは手に入れた側ですよ。とびきりの、好きに人を愛せる自由を」
「俺らがずっと張り付いてるのに?」
「あなたは国を治めるものの不自由さをもう少し知った方がいいのでは? ……かつてわたしの傍には常に護衛がいて、わたしは彼らの命を預かる立場でした。わたしの予定は刹那刻みで決まっていた。王城から一歩出るために、予定の調整と膨大な手続きが必要でした。護衛が監視に。わたしを守るための手続きが、逃がさないためのそれに変わっただけで、今も昔もそう変わりません。わたしは自由ですよ」
 男はのびのびとした様子で言った。どうやらこの生活をちっとも窮屈に思っていないのは確からしかった。
「……俺の姉さん、料理人なんだけどさ。王城の」
 そのときランディは初めて自身のことを男に語ったとは後で気づいた。
「俺の姉さんが《国章持ち》だったら、あんたはどう思う?」
「それは美食の国になりそうですね」
 文官連中ならきっと顔をしかめている。
 なのに男の答えは即答だったし、至極当然という物言いだった。
 ランディは唖然と男を見た。
 男がくすりと笑って首をかしげる。
「尋問は終わりですか?」
 ランディが答えられずにいると、男は肩をすくめて歩き出した。護衛を置いて先に行こうとする彼をランディは慌てて追いかける。
 ある種の囚人といっていいはずなのに、彼は実にふてぶてしく、真っ直ぐに前を向いて歩いていく。
(あぁ、こりゃ)
 ランディは鼻の先を擦った。
(ダイが惚れるだけ、あるわ)
 頭が切れて、顔がよい。それだけならきっとダイは歯牙にも掛けなかった。
 ヒース・リヴォートは、視野が広く、人の価値を貶めない。
 その上、真心全部を使って、ダイという存在ごと、ディアナ・セトラを愛しているのだ。
 それはなんと、うつくしいのだろう。