爪磨き(女王の化粧師)

「爪を磨きましょう」
「突然どうした?」
「女性の嫋やかさは手で表現されるんですよ。はい、磨きます」
「今からか!?」
「はい」
 シンシアが真顔で頷き、セレネスティは渋面になってヘルムートに助けを求めた。
 しかしこの文官然とした老爺、にやにや笑って磨いて貰えばよいではないかと宣う。基本、彼はシンシアの味方なのだ。
 この兄が連れてきた女は仕事に関するある種の嗅覚があって、本当にほんの少し区切りが付いたところを見逃さず、爪だの肌だのを磨きたがり、セレネスティの口に茶菓を押し込むのだった。
 ヘルムートから承認を得たシンシアはてきぱきと侍女に指示を出してセレネスティが休める環境と、つめ磨きの支度を調えている。さすがというか、腹立たしいことにこの女、兄が認めるだけあって仕事が早いのだった。
 たらいに、たっぷりの湯。木綿の手ぬぐい。玻璃製のヤスリや羊だか馬だかの革。香油の小瓶。銀盆の上に丁寧に並べられる手入れの行き届いた道具たち。長椅子にはふかふかの綿つめと毛布。この女、自分を寝かす気だ。セレネスティは口元を引き攣らせる。
 しかし今日の護衛兼目付役であるヘルムートがよいではないかと勧めてくるし、頭がひどく痛み始めているのはわかっていた。セレネスティはため息を吐くと、にこにこ笑う女の誘いにのり、薄布を外して長椅子に横たわった。
「セレネスティ様、頭を少しあげてください」
「うん?」
 頭を綿つめから僅かに放したすきに、シンシアが素早く何かの袋を首の後ろに差し入れる。
「なんだこれは」
「温熱の招力石の屑石ですよ。厚手の布でくるんであるんですが……角があたりますか?」
「いや、そうじゃなくてだな」
「次は目元です」
 目の上には湯に浸して絞った木綿を載せられた。額を指で押されて頭を綿つめに載せる。ぽす、という、やや間抜けな音がした。
「おい……」
「寝てていいですよ」
 この女、ひとの話を聞く気がない。セレネスティは眉間に皺を寄せた。が、すぐにとけた。頭に巣くう鈍い痛みが遠のいたからだ。
 はじめます、と、シンシアは囁いて、セレネスティの左手をとった。セレネスティは手ぬぐいの隙間から彼女の様子を窺った。シンシアは恭しくセレネスティの取り上げ、矯めつ眇めつする。
 伸びた爪をヤスリで形良く整える。ヤスリの種類を変えて、表面を丁寧に磨いていく。一本一本、ゆっくりと。セレネスティは自身の手爪の美しさは勿論、華美な装飾も好まない。爪だの肌の手入れだのは、単なる手入れ以上だったことはない。
 だがこの女の手入れは不思議と悪くないと思わせる心地よさがあって、それが忌々しいやら腹立たしいやら。規則正しく響くヤスリ掛けの音、銀盆と道具の触れ合う音。革で爪を仕上げたあとに使われる香油の香り。すべる女の指の温度。すべてが音楽のような旋律で張り詰めた五感を解きほぐしていく。
 冷めた手ぬぐいがひやりとして心地よい。セレネスティは諦念を抱いて頭を枕代わりの綿つめに完全に委ねた。窓からそよぐ風に頬を撫でられて、ほんのいっとき、意識が途切れるまで、あとわずか。