言葉に換えて(女王の化粧師)

  ふたりきりのときはわからない。しかしゼノの観測する範囲で、シンシアはディトラウトに甘えない。彼が仕事で塔に戻れないとなったとしても顔色ひとつ変えない。せいぜい、無理をしないように、と、ディトラウトに忠告する程度だ。
 自身の体調が優れないときはそれを申告し、さっと部屋に戻ってしまう。心配をかける余地すら与えないような隙のなさだ。かといってディトラウトが無理を要求すれば、顔色を隠して平然と女王の傍に侍って見せる。
 大した胆力だし、だからか、と、納得できる。
 だから、ディトラウトは彼女を選んだ。
「甘えてくることってあんの?」
 ちょっとした好奇心でゼノはディトラウトに尋ねた。彼の虫の居所が悪いと射殺される勢いで睨みつけられる。好奇心は猫をも殺す。今日はため息ひとつ吐かれただけだった。仕事の進捗が捗々しいからか、それともシンシアが朝から臥せって案じていたためかはわからない。
「ありますよ」
 と、次々と書類に目を通し、署名する手を止めないまま宰相は言った。
「なかなか、口にはしませんが。……で、それは終わりましたか?」
「げっ」
「無駄口を叩いている暇があるなら、追加しましょう」
 そう言ってディトラウトはゼノの前の机に軍務処理系の書類を積み上げた。

 ――シンシアは朝から臥せっている。
 今日は熱も高く起き上がることができなかった。本来であればまだまだ療養が必要な身の上だ。その彼女に無理を強いているのはほかならないディトラウト自身である。
 昼下がり、決裁の仕事に区切りをつけて塔に様子を見に戻る。閉ざした寝室の中、寝台の上で彼女は胎児のように身を丸め、潤びた息を吐いて眠っている。今日はぬるい雨が降っていて、傷跡が痛むらしかった。
 ディトラウトは寝台の縁に腰かけて、汗で張り付いた彼女の前髪を指で梳いた。
 その感触に目が覚めたのか、シンシアがうっすらと瞼を上げる。
「――」
 彼女の唇が音なく自分の名を呼んだ。
「すみません。起こしましたか」
「……戻ってきたんですか?」
「えぇ。一度。またすぐに出ます」
 赤らんだ頬を指の背で撫でて答える。今日は夜に会食が入っているから、なかなか戻ることができない。
 ふと頬を撫でる自分の指に彼女のそれが力なく絡んだ。かしかしと、手袋の縁を爪で引っかかれる。首をかしげて手袋を脱ぐと、彼女が手のひらにぺたりと頬を付けて目を閉じた。自分の手は体温が低いから、きっと、熱を帯びた顔に心地よいのだろう。
 しばらくして、彼女が手のひらに唇を付ける。そして、手を解放した。彼女は何も言わない。ただ、こちらを潤んだ目で見上げるだけだ。
(――甘えないのか、か)
 ゼノの問いを思い出す。そう、彼女は口に出して何かをこちらに求めることはない。いまは。状況がそれを許さないから。
 けれどもこうやって、たまに、無言のまま訴えてくることがある。それを甘えというのならそうなのだろう。
 傷が疼く夜。ひとりの眠りはつらい。だから――ディトラウトはふっと笑って身を屈め、彼女の髪に口づけた。
 懇願への了承の徴に。