静かな夜のこと(女王の化粧師)

 寝苦しさに身じろぎし、瞼を空ける。マリアージュの眠る寝台の縁に背をもたせかけて、床にじっと視線を落とす男の背がある。うすら煙る夜の部屋、マリアージュは枕にほほを付けたまま、男に尋ねた。
「何しているの……?」
「ん? あぁ、悪い。起こしたか」
 男――ダダンはぐるりと首を巡らせてマリアージュを振り返った。くわえていたたばこを外し、灰皿の縁をそれで軽く叩く。
「大したことじゃない。ちょっとした暇つぶしだ」
「どんな暇つぶしをしているの?」
 なおも追及するマリアージュに、ダダンは片眉を上げ、身体の位置をずらした。男は床を眺めていたのではなかった。古く擦り切れた絨毯の上に、くしゃくしゃの大陸地図を広げ、何かしがを書き込んだ小さな紙片を並べ置いていた。
 紙片には、タルターザや、大陸会議といった出来事の名とその日付、もしくは人物、商会、様々なものが一枚一枚に書きつけられていた。紙片は食料の包みの裏紙で、暖炉の焚き付けに使うために置いていたものだった。
「これは……?」
「思考の整理みたいなもんだ」
「おもしろわね。わかりやすい」
「昔、軍を率いたことのあるやつに訊いた。兵をこうやって動かすんだとよ」
「へぇ……」
 紙の位置を置き換えたり、追加したり、実際に動かして、その導線を地図に書き込んで。
 ダダンは自身に学がないという。だが、実践的なことを多く知っていて、マリアージュが知りたがれば隠すことなく教えてくれた。それは、とても、貴重なことなのではないか、と、マリアージュは思った。ミズウィーリの当主代行は、自身の手札を明かしたがらなかったものだ。
 しばらく、ダダンの説明に耳を傾けていると、彼は手元のたばこに目をやった。
「あぁ、もしかしてこっちか」
 たばこが煙たいか、と、尋ねられて、マリアージュはふっと笑う。
「いいわよ。別に。……あんたの息抜きなんでしょ」
 そういえば、ダダンは遠慮はせず吸い続けるだろう。
 案の定、彼は肩をすくめると、一服して、またたばこで灰皿の縁で軽く叩いた。その、灰の落ちる、とつとつという音は、雪の積もる音に似ている。
 マリアージュの周囲に愛煙家はいない。初めは顔をしかめたたばこの薫りも、ダダンが好んで吸う銘柄のものには慣れた。あるいは、この男の気配に慣れたのかもしれない。彼が自分の扱いに日々慣れていったように。
 マリアージュは目を伏せた。また寝入った、と、男は思ったのだろう。またマリアージュに背を向けたまま、かさ、と、紙を動かし、たばこをふかし、夜を警戒する。
 この静かに深まる夜を、きっと自分は、ずっと忘れないだろう。
 ふと、そんなことを思った。