彼だけが惜しんでいた(女王の化粧師)

「ディータ」
クラウスはいつからかこちらをそう呼ぶようになった。
「区別だよ。君は君以外の何者でもないというね」
 歴史の授業の時だった。唐突に師となった男は国が荒れる前までは歴史学者で、それもあってか宰相となった自分にとにかく歴史を学ばせた。
 自国のものはもちろん、他国のものも、大陸外のものも、それどころか、数ある名家の歴史、街や村の成り立ち、教会についても。人について調べるとき、とにかく生まれからこれまでの経歴を事細かく調べる。そしてそれを癖づけるように、自分たちは要求されている。
 膨大な数の歴史書に埋もれていて、自分は、ディトラウトだと、訂正することも億劫でいると、肩すかしを食らった気分だったのか、元気がないね、と顔を覗き込まれた。
「疲れているんですよ。あなたのだした課題で」
「それはすまないな。でも、歴史は政経を学ぶのに一番手っ取り早いんだよ」
 事実、後年、かれからの課題は自分を大いに助けた。だがこのときは、元歴史学者で、いまは国の維持に奔走する彼の言葉を、話半分に聞いていた。
「歴史を学ぶ意義は為政者にとってなんだと思う?それは、ただしさを知ることにある」
「ただしさ?」
「そう、物事の理由ともとれる。たとえば、そう。どうしてこの大陸は、他と違って、女王しか許されないのか」
「呪われていたからでは?」「呪いについて、あとで矯正せねばならないね……ほかには?」
 思いつかない。そこで、自分の考えが硬直していることを知る。クラウスは笑って、他国の歴史書の表紙を指で叩いた。
「ほかの国の歴史を紐解くといい。たとえば、シュレディングラード」
 シュレディングラードは北大陸の最北にある古い国だ。長命種の末が治めていて、いま王も数百年の時を生きているという幻想めいた国。そこは女王制で、というのも、母体の内在魔力値が子のそれを決定する部分がある以上、より長命種としての特徴を残す子を玉座に就けるために
 女を王にした方が血筋の証明がしやすいからだった。
「メイゼンブル――いや、スカーレットか。も、同じかもしれない。聖女の血としての正当性を必死に主張するために、女王にした」
「なぜ正当性を疑われるんです?」
「不貞じゃないかな。ほら」
 ととん、と、クラウスは別の表紙を叩く。
「よくあるだろう? 男が王の場合の、王位継承問題。だれが王の血筋かわからなくて国がひっくり返るあれだ。こんなふうに、推測を立てると」
「面白いんですか?」
「面白いよ。でも、いまはそうではなくてね、ディータ。正しさ、の、話だ」
 クラウスは、急に改まった顔を見せた。
「僕の仮説が正しければ、当時は神代にまだ近かったから、主神に近しい娘から離れることは、国の崩壊を意味したんだろう。でも、主神の加護が離れ、古代種も長命種もほとほと滅び掛け、北の最果てにしか見られない――そんな時代で、聖女の血の正しさの証明のためという女王制は、無意味だろう?」
「他に理由があれば?」
「その理由が今の時代に即していれば、それなら女王制は正しいね。……僕は、ディータ、女王制を否定しているわけではないんだ。相応しいなら維持すればいい。でも、そうではないと、わかる」
 なにやら歴史の意義の講義となってきていて、なるほど、と、思う反面、ここまでさせるか、という感情もある。滔々と気持ちよさげに語る男のうんちくに、大人しく耳を傾ける。
「物事の背景を知るということは、それが、今あるに相応しいか、いま、付き合うに相応しいか、正しい価値を知ることだ」
「人に対してもそれは適応される?」
「勿論だよ。相手の行動の背景を知っていれば、敵か味方の判断もできる。人となりは、その人の歩いてきた歴史の集合体だよ。切っても切り離せないものとなる。本人が故意に、背景を消さないかぎりは」
 自分には背景がある。しかしその背景は――。歴史がひとの集合体だというのなら、歴史のない自分は何者なのか。足場を失ったような感覚は、クラウスの大きな声に遮られた。
「だからね、ディータなんだよ」
「……何の話ですか?」
「君の名前の話ではなかった?」
 確かに最初はそうだったが。首を傾げるこちらに、師は笑う。
「ディータは、区別だ。君の分岐点を、示す名だ。……いつか君の背景に気づいただれかが、君を見つけてくれるように」
 目印だよ、と、師はいい、何をいっているのだ、と、呆れて目を細める。師は、時々、意味のわからぬことをいう。
「君は君のことを、大切にするように。君は……」
 師は、それから、何といったのか。クラウスの言葉を思い出せない、自分がいる。
 ただ、彼は失われゆく自分を拾い上げようとしていたのだ。
 彼だけが、墓に埋めた男の喪失を惜しんでいた。
 そう知るのは、全てが終わってからのこと。