報償(女王の化粧師)

 うきうき、そわそわ。表情は薄布で隠れていても、空気は見て取れる。明らかに浮き足立った様子で、その日、年かさの女官がマークに歩み寄った。卿、とマークの姓を敬称付きで呼んで、女官が尋ねる。
「閣下は今宵は戻られるのでしょうか?」
「戻られるご予定ですが、何かありましたか?」
「はい。姫様の、舞踏会の衣裳の支度について、お伺いしたいのです」
「ぶとうかい……? 雪散らしの会、ですか?」
 はい、と、老齢の女官は頷いた。
「ご期待に水を差すようで心苦しいのですが……シンシア様はご出席なさりません」
 マークやスキピオが出席するということは、姫君、つまり、シンシアの護衛がいないということだ。当日、シンシアはセレネスティへの化粧を終えたあとは塔に引きこもる予定のはずだ。
 女官たちの顔に明らかな失望が広がる。しかし、現実問題、シンシアに不特定多数を接触させられない。顔をさらすこともならない。舞踏会なぞ、もってのほかだ。

 案の定、ディトラウトに確認すると、出席しない、の、回答があった。

「いくつか問い合わせがありましたけれどね。出しません」
 シンシアは宰相がたいせつにしまい込んでいる貴婦人(ほうせき)だ。女王の傍に侍る彼女への感心はみな高い。マークもまた、妻の質問をかわすのに苦労する。
「衣裳ぐらい、見繕ってやればどうなの?」
 意外にも口を挟んだのは女王だった。
「……どういう意味です?」
「晩餐会にでなくとも、衣裳と装飾品を揃えてやれ、といっている」
「なんのために?」
「身を飾るものを意味もなくあげたらだめなわけ?」
 経済まわしなよ、と、呆れた目で女王が言う。
 ことの次第を見ていたヘルムートが笑った。
「ま、好きな男にうつくしいものを贈られて喜ばん女はなかろう? 定石ぞ、ディータ」
 宰相は渋い顔をした。気が進まないようすだ。しかし彼は最終的にマークに女官たちへの伝言と、マークの妻への助力を依頼したのだった。


 マークの妻が関わる理由はふたつ。発注をマークの家を経由したいという意向と、彼女とシンシアの顔合わせだった。
「嫌じゃないですか? 夫が素性の知れない女の人の隣にずっといるって」
 可能なら挨拶ぐらいはしたいんですよね、とはシンシアの弁である。
 引き合わせるべきか否かを丁度討議していたらしい。噂の姫君に会えると知って、妻は興奮した。シンシアのことを口外しないだろうという信頼を宰相から寄せられたことも含めて。
「シンシア様ってどのようなお方なの?」
「閣下の対となるお方だ」
「うつくしさで?」
「気性も含めて」
 事実、シンシアはうつくしい。傾国姫、滅びの魔女。戯曲の題材となりつづける魔性の娘とは、彼女のような存在だとマークは思う。
 宰相と対になる色彩。繊細な造りの顔に、華奢な体格と、嫋やかな所作。マークですら、彼女を眺めていると無性に喉の渇きを覚える。宰相が既婚ばかりを彼女に付けた意味がわかる。あれは毒にも薬にもなる、そらおそろしいものだ。
 しかし宰相がその美貌に狂わされていないのがおかしみを誘う。宰相はどちらかといえば、そう、彼女の気性を好いているのだ。


「え、いらなくないですか?」
「ええ、わたしもそう思います」
 シンシアは宝飾品も煌びやかな衣裳も不要だとばっさり切り捨て、宰相がそれに同意した。
「しかし王命なので、付き合ってください」
「はぁ。それは構いませんけれど」
「経済を回せとの仰せです」
「……なら、腕はいいんですが伝手が少なくて仕事を得るのに苦労している職人に発注してくださいね」
「難しいことを言う」
 宰相は笑って、そうしましょうと言った。いいのか、それで。よいのだろう。
 宰相は要望通りの職人を探し出して、マークとマークの妻に注文を一任した。採寸は予め細かくしたものを職人に渡す。仮縫いのものを預かってシンシアに着せ、女官たちと奮起してシンシアを飾り立てる様は実に楽しそうである。


 舞踏会も終わって幾日かすぎたとある夜、非番の日、マークは妻ともども宰相の塔に招かれた。そこにはうつくしく着飾ったシンシアがいて、どうでしょう、と尋ねてくる。隣の妻は絶句している。自分は大陸会議のときに着飾ったこの娘がどれほど美しいかを見ているので、まだ声が出た。
「よく、お似合いです」
 シンシアはひとつ頷いた。変ではなくてよかった、と、そんな風に。
 宰相は遅れて現れた。シンシアを見て彼は微笑んだ。優しい微笑だ。宰相は彼女に向けてだけ、そういう雪解けのような笑みをする。
「きれいですよ」
 と、宰相は言って、それだけでシンシアは嬉しそうに微笑んだ。
 広く取られた窓から月の灯の差し込む居室で宰相がシンシアに手を伸べる。彼女は笑って、その手を取った。ふたりは一礼した。舞踏会の様式に乗っ取った、優美な礼だ。音楽もなく、なのに、まるで同じ調べが聞こえているように、月あかりの下でふたりは踊った。
 時折、何事かを囁き、さざめくように笑って、影をひとつにして踊る姿は美しく、なぜか泣きたくなるような、胸を締め付けるほどの幸福に満ちていた。


「……わたしにですか?」
「正確には、おまえと夫人に」
 時が流れてすべて終わったあと、宰相はシンシアの衣裳と宝飾品を妻に譲ると言った。
「もとよりそのつもりだった。……色も夫人に合うものを指定しているはずだ。不要ならば売り払えばいい。報奨金の代わりにはなるだろう」
「…もとより、とは?」
「わたしがなぜ、彼女を、飾らなかったと思う?」
 宰相はシンシアへ不用意にものを与えなかった。溺れるほどの贅沢を彼女に許すこともできたのに。また、シンシアもそれを宰相に求めなかった。不用意にものを与えられまいとした。その意味を、マークはようやっと理解する。
 ふたりは最初からこうなることを予見していたのだ。――あぁ、なんと不器用で、歯がゆく、愛おしい恋人たちだったのだろう。
 妻は、なくだろうな、と思った。そしてきっと、宰相から譲られたものを捨てられない。幸福な夜の想い出に。
「ありがとう」
 と、宰相は言った。
「彼女を飾るのは、楽しかったな」
 そして彼女もまたそれを楽しんだだろう――このふたりは、自分たちへの謝礼の意味をこめなければ、あぁやって物を贈ることすらできなかった。マークは瞑目して、息を吐き、宰相に微笑んだ。
「礼には及びません。……あなたがたに仕えたことそのものが、わたしにとって、最大の報償でした」
 叶うことならもう一度、あの夜を、否、女官たちがシンシアの傍で笑って、彼女と宰相のことに、女王が拗ねた顔で口を出して、自分たちが少し、宰相のわがままに振りまわれた日々を。
 目にすることができたなら。