主よ、願わくば(聖女の紅国)


 わたしが最初に目にしたとき、その女は血を被り、わたしの弟の骸を手に提げていた。
 わたしたち兄弟は傭兵であり、女と敵対する一団に雇われていた。眼窩いっぱいに瞠目し絶命した血族の姿に、わたしは逆上して女に向けて呪を紡いだ。闇色のそれは蛇に似て女の喉笛に食らいつこうと牙を向いたが、女がまたたくまに組み上げた強固な壁に突き当たって砕け散った。呪の破片は烏の羽のようにばらばらと地に落ち、融けた。
 それ以来、わたしは女を憎んでいる、と、女は思っている。
 それは半分正しく、一方で誤っている。
 女の手にかかって弟が落命した。そのことに憎悪を抱いたことは確かだ。わたしと弟は幼くして親を殺し、後々に混沌としたと形容される世を、二人で助け合って生きてきた。彼はわたしの半身であった。弟の死はわたしの欠損を意味し、わたしからわたしを抉り取った女を、どうして憎まずにいられよう。
 女と同じ国に籍を置き、同じ目的のために行動を共にするようになったあとも、わたしは長らく女を厭わしく思い続け、しかし目は逸らさずにいた。
 あの女はわたしの獲物である。
 いつか弟の仇を。
 わたしの女への憎しみは執着に変わった。
 わたしは女の傍にだまって在り続けた。わたしは女を見つめ続けた。妹に代わって血を被り続ける女を。道を切り開き続ける女を。妹がやすらかにあれる場所を探して戦いに身を投じる――……傷ついた身をひそめひとり痛みに堪える女を。
 その姿にわたしは、かつてのわたしの幻影を見た。弟と共に行き、時に彼を庇い、たのもしい兄を演じる自分の。
 果てしない戦場。血に濡れた荒野。鳥獣が転がる骸をついばむ。あまやかな死臭に満ちた土地に銅色の太陽が接吻する。紅と黒だけが模様を降りなす巨石の影で女は指先に入り込んだ赤黒い粉を楊枝でえぐりだしている。
 遠いところまで来たわ、と、女は言った。
 昔、こうやって爪の先に入り込んだ土を落とした。腐葉土よ。血じゃないわ。わたしたち、北の一角にある森で小さな畑を耕して生きていたの。それを羨んだひとびとに追い出された。逃げるとき、わたしはたくさん人死を出したわ。あのときは苦しかったのに、今はもうなにも感じないの。何を奪っても。
 わたしの心は、遠いところまで、来た。
 ごめんなさい、と、女は言った。
 わたしは首を振って答えていた。
 傭兵だった。敵対していた。仕方がなかったのだ、と。
 弱いものが殺されただけだ。わたしの守りの手が届かなかった。それだけだった。


 わたしは変わらず憎しみを抱いていると女は思っているようだった。しかし執着はいつしか純化されて恋慕になった。
 弟を殺したのは女である。葛藤がなかったわけではない。それでもひとり走り続ける女に寄り添う者があってもいいだろうとわたしは己を納得させた。
 時は移ろい、戦は終わった。わたしはいつ女へ想いを切り出すべきか考えあぐねていた。だがその平和な懊悩はすぐさま断ち切られる。

 アルヴィナ。

 何故、と言ったな。
 命滴らせるわたしはその問いに答えてやれない。実に残念だ。できればお前の語る故郷に足を運んでみたかったよ。焼き菓子を詰めた籠と紅茶の瓶をお前の代わりに持って。
 何故、お前の妹はお前の幸せを望まないのだろう。何故、世界はお前を守ろうとしないのだろう。何故、わたしに守らせてはくれなかったのだろう。
 主よ、あなたの御作りになった世界は、理不尽に満ち溢れている。
 けれどもしわたしの魔すべてを振り絞った願いが届くなら。
 あの女が心から笑える場所を用意してやってはくれないか。
 主よ。