初雪(さやけくこひたもう)


 雪が降ると、ついつい暁人さんを思い出す。
 出会いのとき、一度目の別れのとき。忘れがたい思い出のときに、雪が降っていたからかもしれない。
 日曜日の朝、薄墨色の空から六花が花弁のように舞い降りていて、濡れて黒さを増したアスファルトの両端を、雪がぎざぎざレースのように縁取っている。
 わたしは指先があかくかじかんだ両手に、はぁ、と白の吐息を吹きかけて、暁人さんのマンションへ向かった。

 合鍵を差し込み、玄関のオートロックを開ける。開店したばかりのスーパーで買い込んだ、ミルクとブロッコリーとほうれん草、ジャガイモ、人参、ホタテ貝がみっしりつまった買い物袋が両手に重い。重心を奪われながら、わたしはふらふらエレベーターに乗り込んだ。
 八階で降り、ほどなくして到着した部屋は、とてもとても、ひえていて、奥の寝室を覗くと、暁人さんは羽毛布団と毛布にくるまり丸くなっていた。穏やかな寝息。わたしはエアコンのリモコンを探し、暖房のスイッチを入れた。

 台所の冷蔵庫に食糧を一度しまって、リビングの片づけにかかる。テーブルの上には、ノートパソコンと仏語の資料が乱雑に置かれている。わたしはそれを軽く揃えてテーブルの端に押しやった。資料の並びを、勝手に変えてしまわないように注意する。
 ヒーターのスイッチを入れて、わたしは腕まくりした。暁人さんが起きるまでに、朝ごはんとお昼ご飯の支度を終えなければならない。

 朝ごはんとしては、買い置きのクロワッサンに切り込みを入れて、ベーコンとチーズ、スライスしたトマトを差し込んでおく。暁人さんが起きたときに、トースターに載せて、コンソメスープを温めればおしまい。お昼ご飯はクリームシチュー。遥人さんに、おいしく作る方法を教わったのだ。外へ食べに出かけるのなら、これを夜に回しても構わない。



 くつくつくつと、煮える音を響かせる鍋の中身を、小皿に移してぺろりと舐める。

「うんおいしい」

 おいしくできましたよ。ありがとうございます遥人さん。
 心の中でお礼を言って、小皿を置く。置時計を確認すると、もうお昼前だ。

 ちょっとお寝坊ではないですか? 暁人さん。

 いつもなら早々に起きてくるのに、部屋はことりとも物音しない。昨日の夜が遅かったのだろうか。
 火を止めてから寝室を除くと、暁人さんはまだ蓑虫。わたしはむぅ、と唇を曲げて、もっこり盛り上がった布団の丘にダイブする。
 う、と低い声が漏れた。
 もそもそ布団の下で身体が動く。
 彼は布団と毛布を跳ね上げると、転がりそうになったわたしを腕の中に引きこんだ。

「きゃ!」

 暁人さんが、わたしを抱きしめて、さむい、と呻く。
 また寝入りそうになっているひとの背を、わたしは叩いた。

「アキさん、もうすぐお昼ですよ」
「……え? そんなに?」

 わたしを片手に抱いたまま軽く身を起こした暁人さんは、首を巡らせて時計を探す。

「あ、本当だ。どーりでお腹すいたと思った」
「ご飯できてますよ」
「ありがと」
 暁人さんは寝ぼけ眼を擦って、それにしても、と呟いた。
「寒いね。暖房効いてる?」
「今日、雪が降ってるんです」
 初雪ですよ、とわたしは補足した。金曜あたりから、各地で初雪が観測されていたから、ここでもそろそろなんじゃないかな、と思っていたところなのだ。暁人さんは窓にやった視線を、そっと細める。

 ようやっと起きるかな。

 けれどわたしの予想に反して、暁人さんはわたしを抱いたまま、再び布団にもぐりこんだ。

「おなかすいた」
「だから朝ごはんできてますよ」
「んー? 朝ごはんここにあるよ」

 ちゅ、と音高くわたしの頬にキスをして、暁人さんは笑う。

「おなかすいた」

その意味を悟って、はわ、とわたしは真っ赤になった。

「ああぁ、アキさん! 手、冷たいですよ!」
「うんあっためて」
「アキさん!」
「ねむいさむいおなかすいた」
「アキさん!」
「君が僕に食べられれば全て満たされるんだけど」
「えぇえええぇえ!」

 暁人さんはわたしを強く抱きしめて、子供のように頬を寄せる。

「露子あったかいよね。雪が降ってるとすごくよくわかる……」

 暖房は入っているはずなのに、どことなく底冷えする部屋で、暁人さんの体温は高い。日頃も温かいと思う腕の中が、いつもにもまして離れがたい場所であることは確かだった。
 暁人さんの鎖骨のくぼみに、顎をちょこんとはめる。観念したね? と彼は笑った。

「別に、嫌なわけじゃないですもん……」

 彼に求められることは好きだもの。四年前に捨ててしまった大切なものが、手元に戻ってきたという実感を得られる幸福な時間。
 暁人さんはわたしの瞼にそっと口づけて囁いた。

「さむいね」
「さむいですね」
「でも、あったかいね」
「……あったかいですね」

 暁人さんの手が、わたしのそれを包んで、握りしめる。
 空いた手でわたしの前髪をあげて、彼はわたしの額に、唇を触れさせた。
 外では、音を呑み込む銀色が、静かに世界を照らしている。