出立するあなたへ(裏切りの帝国)


「閣下は……ここをお出になるのですね」
 立ち聞きしたかったわけではない。ただ、茶菓子を運んでいたら、ティアレと宰相の会話が、耳に入ってしまったのだ。
 問いに宰相は頷いた。
「うん。ちょっとねぇ。……違う空気を吸ってこようと思うんだ」
 宰相は明るく装っていたが、寂しそうだった。それはそうだろう。皇帝と離れるのだから。そのような決断ができるのだと驚いたほどだ。
 今は亡き私の兄は、彼らふたりのことを、二本で一本の木のようだと評した。
 あのふたりがどうして正気を保っていられると思う? それはね、あのふたりが互いに依存することで、自分のすべてに目を閉じているからだよ。
 兄が不敬にもそんな風にふたりのことを語ったとき、自分はまだ幼く、そして兄に対して反抗期だったこともあって、あまり話をきちんと聞いていなかった。でもいまならわかる気がする。自分たちの敬愛すべき皇帝と宰相はとても繊細――とりわけ宰相は。ふたりとも普通ならこんなに情に溢れたひとのはずがないのだ。この国で。
「いい機会だと思いますよ。閣下も陛下にとってのティアレ様を見つけたらいいと思います」
「……キミも言うねぇ」
「だってそうでしょう? このままだったら閣下がひとりになりますよ。……兄は、それを望んでいません」
 兄はこの危うすぎる宰相に付き添い、そして皇帝の妃に毒を盛られて死んだ。
 繊細すぎるあまり耽溺といっていいほど皇帝に尽くすこの宰相を、兄はたったひとりの肉親であった自分より、気に掛けていた。
 初めはこの宰相を恨んだが、いつの間にか兄と同じように、はらはら見るようになっていたのだから笑ってしまう。
 それは恋、ではなかった。兄に向けるような、肉親の情に近いのだと思う。とても不敬で、この宰相が同じ思いを自分に向けているかと思えば、決してそうではないけれど。
「外を楽しんで、陛下にたくさんお土産話を聞かせてさしあげたらいいと思います。……閣下の奥さまをお世話して差し上げますよ」
 宰相は苦笑していた。
「君はティーちゃんの味方だと思っていたけれど?」
「もちろんです。……私は、陛下と閣下と、おふたりが愛する方々の味方です」
 皇帝に対する感情これこそ恐れ多い――彼が愛すべきひとを得て、笑えるようになったことは本当によかった。彼を救った婦人を、自分は敬愛している。
「私たちは皆、あなたがたの味方です」
 皇帝と宰相は、自分たちに負い目を持っている。
 皇帝たちが自分たちに絶対の信を置いていたかと思えば違うだろう。
 自分たちは彼らによって奪われたものだ。婚約者を。夫を。兄を。義父を。
 彼らは死んだ。皇帝と宰相を敬愛して心酔して、その危うさの支えになろうとして。自分のような憎しみまでとは言わずとも、残され、皇帝たちに仕えるものたちは皆、複雑な感情を抱いたことだろう。皇帝が自分たちを離宮に付けたのは、ひとえに肉親の死に場所をいつでも参れるようにと、温情をかけたからに過ぎない。
 ただ、自分たちは見てきた。愛したものたちが何を目指したか。どうもがいたか。皇帝と宰相のあがきを通して。
 自分たちは彼らを愛している。
 宰相はふと笑って言った。
「……その忠誠はラルトとこれからのティーちゃんに捧げてあげなよ。俺はいらない」
 宰相は手を振った。退室しろという合図だ。
「……キミこそ、よい誰かを見つけるんだ。君がいつまでもひとりでいるなんて、それこそあいつは望んでいない。あいつは――君のことをとても愛していた」
 俺たちの見た夢に兄が乗ったのは、妹のためだったのだと宰相は言った。
 宰相の口から兄について聞くことは初めてだった。宰相はそれ以上を語らず、自分も追及しなかった。それができる立場でもなかった。
 宰相はおそらく戻らないのではないか、と、のちに同僚が涙ぐみ、震えながら言った。自分もそう思う。なぜそうなったかを誰も語らなかったけれど。
 だから。
 次に宰相が姿を見せたらそのときは、兄とどのような話をしていたのか、聞かせてもらいたい。
 その夢を、願掛けに。
 自分は今日も皇帝たちの傍に侍る。