失われた名の怪物(女王の化粧師)


 政務を終えて私室に戻る。湯を浴び、夜着に着替えた。以前まではそのまま寝台に倒れ込み、早朝に簡単に身を清めるだけで終わっていたが、ここのところ私室には『客人』がいる。女官たちが目をつり上げるので、就寝前にきちんと身を整えるようにしている。

 照明の落とされた部屋の寝室でその『客人』が眠っている。化粧師の娘。傷つき、まぼろばの地の扉を叩いていた彼女を放置することたまらず連れ帰って、いまはこうやって寝台を分け合って眠るまでになっている。

 政務が夜半にまで及びそうなときは先に眠るように伝えてある。病み上がり、というより、まだ回復しきっていない娘は、たいてい自分を待つことなく寝入っている。寝台の片隅で伸びた黒髪を散らして仰臥する娘の傍らに膝を突き、何気なく、その折れそうなほど細い首に手を伸ばした。
 滑らかな肌をゆっくりと撫で上げる。娘は身じろいだが、不快そうに逃れるどころか、逆に自分の手に顎を寄せて、身体をすり寄せるようなそぶりすら見せた。
 疲労に埋もれて燻っていた劣情が、娘の肌に触れる手から火の粉を散らし、吹き上げた火が全身を舐めていく。
 その暴力的な衝動に身を任せようとも思った。この娘といると、全てを壊したい気分にたまさか駆られた。幼い頃から押さえつけ、そして最後はくびり殺して墓に埋めた、ひとりの少年が足許から腕を伸ばして、自分の腿に爪を立てる。そして幼い頃、荒野の影で自分と同じ名の花を踏みつぶしたように、厩の片隅で飼葉を蹴散らしたように、喚き叫ぶ。

 どうして、ぼくだけ、ぼくは、いやだ、あぁ、ぼくだって、ぼくだけの、あぁああぁ――……。

 想像する。
 きっと彼女はこの破壊的な衝動を受け止めるだろう。どうしたの、と、笑いすらするかもしれない。うぬぼれかもしれない。そうあれかしという希望かもしれない。

 笑ったとすれば、その笑顔が曇って悲鳴を上げるまで、粉々に壊したくなるだろうし、笑わなければ、その笑顔をいとおしみながら、鳥かごに閉じ込めてしまうだろう。
 それは自分の望むことか――いいや。そうではない。

 それに、娘に手を出して、そのまま留め置けば、諸々を変更せねばならない。その覚悟を持ったか。いいや。まだだ。

 彼女に手を出すべきではない理由を十ほど数え上げて、そのまま項垂れる。娘の身体を抱いて、その肩口に額をこすりつける。
 懺悔のように。
 同時に、この身に救う、おさなくておろかでみにくい少年を、抱え込むように。