愛人(裏切りの帝国)


 キリコに積極的な態度をとっている男がいるらしい。
 らしい、というよりも、いるのだ、と網が告げている。その報告を受け取った時点で、危険がない限りは放置しておくようにと指示を出した。彼女の男性関係にどうこう口出しするつもりはない。
 いくら自分が彼女の夫であったとしてもだ。



 就寝前に今扱っている案件の参考になりそうな本を読んでいると、キリコが帰宅してきた。いつも賑やかに部屋に飛び込んでくるのだが、今日に限ってはそれはない。熱に浮かされたように、ぽーっとしている。
 なんとなく状況を悟って、ウルは本から視線を動かさずに言った。
「あぁ、愛人作るんでしたら、一応教えてください」
 ばっと顔を上げたキリコは、眉間に皺を寄せて呻いた。
「網で見たの!?」
「なんでそんなつまらないことに網を使わなければならないんですか。私は他人の閨を覗く趣味なんてないですよ」
「……ねや?」
「おや、違うんですか?」
 キリコは大きく首をかしげている。
「あんたが何を思ってるのかしらないけど……こくはくっていうの? されただけだもん」
「愛を囁かれた?」
「……あんたがいうとなんか激しく下品なことのように聞こえちゃう」
「失礼ですね。まぁ、貴女に女を求めるなどとなんて物好きだとは思いますが」
「あんたのほうがすっごく失礼!」
 最低最低と連呼するキリコに対して耳を塞いでみせる。するといつの間にか寝台の傍に歩み寄っていた彼女が、こちらの腕をとって耳から手を引き剥がそうと試み始めた。
「ちょっと、聞きなさいよ!」
「話を聞いてほしいと思うんでしたら、その甲高い声やめてください」
「好きで声高いんじゃないもん!」
「普通にしゃべればいいでしょう」
「これがふつう!」
「本当に、なんでこんな騒がしい女に言い寄ることができるんでしょうね……?」
 件の男はウル自身も知っている。才気溢れる若い武官。確か、どこかの名家の三男坊だったか。
「愛人にするなら教えてください」
「……なんでそうなるの?」
「でないと貴女を守れないでしょう」
 一応、交友関係は把握しておかなければ、何かあったときに困る。網への指示の仕方も変わる。予め情報を教えてもらっておけば、網を扱う負担はぐっと減るのだ。
「アタシのいう意味はそうじゃないの! なんでアタシが愛人作るって思うのよ!?」
「……私は婿養子の立場ですから、貴女は作ろうと思えば作っていいですし、この国は多重婚は許可されていますよ」
「そうじゃなくて!」
「なんです?」
 寝台の上で黙り込んでしまった女は、力なく頭を振った。
「……わかんない」
「その告白とやらを受けてどうしたんですか?」
「ん? んーオトモダチじゃだめ? って返しておいた」
「何故?」
「だって、めんどくさい。二人も相手するなんて」
「二人?」
「あんたと彼」
「私のことは放置しておいていいんですが」
 愛を育むために、自分たちは結婚したわけではない。利害が一致したから、結婚したのだ。
「もちろん、いっつも放置してるじゃない! だれがいつどこであんたにかまったのよ!」
「今絡まれてますが。そろそろ寝ていいですか?」
 本を寝台傍の棚に伏せて置いた。枕の上に頭を載せる。掛け布団を引き寄せようとしたところで、腹部の上に乗ってきた重みに閉口したくなった。
「重たい」
「乙女に重たいいうなんて最低!」
「一体どこの誰が乙女ですか五月蝿い乙女もあったものです」
 頭の上に手をやって、己の腹の上に乗っている女を見上げる。幼い顔立ちをした女だ、と思う。それはそうだ。エイとヒノトよりも、自分たちはさらに年が開いているのだから。
「あんたは愛人ほしいの?」
「私に? 貴女に?」
「あんたに」
「いりませんよ」
 実際、自分の生はかつてないほど充実している。仕事は充足をもたらし、精神の安寧を約束する。そこに女はいらない。邪魔にしかならない。
 時折、何かの揺り返しのように倦むことはあるが、この騒がしい女がずかずかこちらの領域に踏み込んでくるので、腐りきる、ということがない。
「相手をするのは貴女一人で十分だ。仕事が忙しい」
「おんなじよ。アタシだって忙しいんだから」
「忙しいならそろそろ寝たらどうです? というか降りてください。私は眠い。重たい」
「重たい連呼しない! もう最低!」
「重たい重たい重たい……」
「死ね馬鹿!」
「貴女一体何がしたいんですか……?」
 腹の上から降りる気配のない女に嘆息して、ウルは身体を素早く捻った。ぎょっと目を剥く女から眼鏡を奪い、棚に放り投げる。同時に彼女を横に引きずり倒し、その華奢な身体を抱え込んだ。
「ちょっとっむがっ!」
 もがくキリコを腕の中で拘束して、抗議してくる口を塞ぐ。普段ならこの時点で噛み付いてくるのだが、今日に限っては珍しく、大人しく身じろぎしなくなった。
 口元からこちらの手をはずしながら、女が呻く。
「……一緒に寝る男なんて、あんた一人いりゃ十分だもん」
「貴女と一緒に寝れるのは私ぐらいなものでしょう」
「なんで!?」
「貴女ほど五月蝿い女に会えば、大抵の男は萎えます。逃げます」
「もう、なんであんたそんな減らず口ばっかなの!?」
「いいから寝てくださいよ……」
 眠い、と訴えると、キリコが口先を尖らせて尋ねてくる。
「……じゃぁ、なんであんたは逃げないの?」
「眠れるから」
「はぁ?」
 眠れるからだ。
 この女が、寝首を掻くはずがない。そう思っている。寝ている間に決してこちらを殺しに掛かってこないだろうと確信を持てる女など、二人も探すつもりはない。面倒だ。
「わけわかんない」
「貴女の存在のほうが奇怪そのものです」
「永久に寝てしまえ! その口と一緒に!」
 身体を反転させてぎりぎり首を絞めてくる女の頭を叩いた。最低! と叫んでくる女を無視して目を閉じる。
「あんたも、愛人作りたくなったらアタシに言ってよね」
「作りたくもなりません」
「そう」
 ならいいわ、と返事がある。面倒が少なくていい、と。
「アタシも作んないから、面倒くさくなくていいでしょ?」
「そうですね」
 頷きながら、妙な安堵を覚える――きっと彼女の言う、面倒が少ないことに関しての安堵。
 ごつ、と鎖骨に頭突きをかましてくる女に苛立ちを覚え、その頭をぐぐぐと身体に押し付けてやる。圧迫感に白旗を揚げながらキリコが両手を動かして激しくもがき――つまらぬ攻防が終わった後、いつの間にか深い眠りの闇が、ウルを包み込んでいたのだった。