あのひとのこと(女王の化粧師)
雨がひどい日、ダイが不安定になるって気づいたのは、幾度目かのお茶会のときだった。
「ユマもおいで。今日もおいしいの作ったから」
アルヴィナさんはよく雨の日にお菓子を作ってダイの下を訪れる。外に散歩に出られないし暇でしょ、という、不思議な魔術師さんの言を最初は信じていたけれど。雨の日、特に夜から雨が降り続くような日は、朝からダイの食欲が細くなっていることがよくあるの。
するとアルヴィナさんが決まって甘いものを携えてダイを訪ねる。そんな関係性になかなか気づけなかったわたしの馬鹿。
ダイは元から食は細かったけれど、食事に一度、毒を混ぜられたことがあって、それからさらに最小限しか食べなくなった。社交に出るようになってから忙しさを増したダイはなおさら、食べたり眠ったりっていうことができなくなっていたみたい。うっすらと、そうかなっていうのはあって、気を付けていたつもりだったけれど、深刻なほどだって気づかされたのは、雨の日が続いたから。雨になると屋外の行事が中止になったり、屋内に振り返られて簡略化するし、人の足も遠のくから時間が空く。するべき事のないダイは急に不安そうになって。
普段はわたしたち女官にも護衛のひとたちにも、飄々とした態度と笑顔を貫いているのに。でも雨が続いて、時間があいて、ダイが自分で隠せないほど、情緒不安定になって、アルヴィナさんはずっとべったりで。わたしは、ようやっと。
「リヴォート様がおいでならね」
雨が三日降り続いて、あちこちに植えられたばらの花弁も、ししどに濡れて項垂れている、そんな日。わたしは女王陛下のご用事でミズウィーリにいた。わたしに応対したのは陛下の侍女をなさっていたティティアンナさんで、わたしの話すダイの様子にそんなふうにぽつり。
「リヴォート様?」
「ご存知ない? ヒース・リヴォートさま」
聞いたことはある。ミズウィーリの家にお勤めで、女王陛下が即位された折の襲撃事件で行方不明となられた。
とても有能な方だったって聞いている。城にも上がるはずだっただろうって。
「ダイと、とても仲がよろしかったから」
「そうなんですか?」
「うん。仕事が終わったあととかに、ふたりで話し込んでいるの、よく見かけて……」
ふたりで声を上げて笑っていたときには驚いたわ。ティティアンナさんの言葉に、わたしも驚く。ダイはよく笑ったけれど、にっこり、という感じで。はしゃいで笑うようなことは本当になかった。
「食べなくなって、寝ないだなんて、リヴォート様みたいだわ」
あの方も仕事漬けで、社交のときを除くと、よく食事を抜いてしまって。ダイに怒られていたっけ。
そんな風にティティアンナさんは言う。
わたしはダイからその男のひとの名を、耳にしたことがない。一度も。
「どんな方でいらしたんですか?」
蜜色の髪に蒼の目をした、白皙の美貌を持つ男のひと。
そして、とてつもなく有能で、ミズウィーリ家とお父上亡きあとのマリアージュ様を支えたひとだと、ティティアンナさんは答えた。
急に気になって、わたしはこっそり、アルヴィナさんに尋ねた。
「ヒース? あぁ、知っているわよ」
ダイと初めて会ったとき、彼も一緒だったのだとアルヴィナさんは言った。
「んー、そうね。男前ではあるわねぇ。でも不器用さんよ。意外と」
ティティアンナさんの説明とちょっと違う。何でもそつなくこなす感じのひとだと聞いたのに。
あとはねぇ、と、アルヴィナさんは付け加える。
「ダイを大切にしていたわ」
マリアージュ様にも、訊いた。
「は?」
冷気すら漂う低温で問い返されて、尋ねてはいけないことだったかと、わたしは慌てながら事情を説明する。
「……ティティアンナがね。そう」
「……その……なんていうか、リヴォート様がどういう風にダイを励ましていたのかなって知れたらその、ダイも元気になるかなって」
「無理よ」
マリアージュさまは、すっぱり断言なさった。
「あと、あいつに様なんていらないわ」
「……ですが」
マリアージュ様がわたしを見る目は、これまで見たことのない色をしていた。
悲哀、憐憫、苦渋、憤怒。すべてが、ない交ぜになったような。
「……あれはとても冷たい男よ。冷徹で、非情で、残酷な、ずるい、最低な男」
でも、と、マリアージュ様は付け加える。
「ダイを、大事にしてたのよ」
***
「ユマ」
休憩室の戸口に立って、ダイがわたしを呼んだ。アルヴィナさんも一緒。珍しく、護衛のひとたちがいない。
手招かれて歩み寄ると、ダイがわたしを散歩に誘った。
雨上がり。雲と雲の切れ目の青空の下に渡された、空中回廊を先に歩きながらダイが言う。
「……リヴォート様のことを訊いてまわっていると聞きました」
わたしはあっとなってダイに謝った。
「……ごめんなさい」
「謝る必要はないんですよ。ティティから聞いたらしいですね。でも……気になるのはいいんですが、尋ねてまわるのはやめたほうがいいです。リヴォート様がいなくなった理由、知っていますよね?」
マリアージュ様が女王に選ばれた夜、ミズウィーリ家に襲撃があって、その後、行方知れずに……。
犯人は捕まっていない。
あぁ、と、わたしは口元を押さえた。
危険なんだ。だって、誰が犯人なのか、わからないのだから。
「どうして彼のことを知りたいんですか?」
わたしの前を歩きながらダイが問う。
わたしはしゅんとなりながら答えた。
「ダイと……仲がよかったって聞いて。それで……」
初めはちょっとした好奇心。けれども聞けば聞くほど気になった。
だって皆、ばらばらのことを言うのだもの。
けれど、たいていの人が口を揃える。
ダイを大事にしていた。
……ダイからは、名前すら聞いたことがないのに。
「彼は……うちの国とペルフィリアの国境沿いで生まれ育ったひとです」
ダイは唐突にそのひとのことを語り出した。
「ご家族を失って、ミズウィーリ家に来た。マリアージュ様のお父上に引き立てられて、働いていました。とても頭がいいんですけど、なんかちょっと抜けているんですよね」
「ダイみたいね」
「……そうですかねぇ?」
ダイが首を捻る。そうよ、と、私は笑って言った。ダイはふっと目を細めて私に背を向けた。
とつとつと、ダイは話す。
上級貴族十三家。その末席の長子であったマリアージュ・ミズウィーリを、強豪な候補者であった他四家の娘たちを押しのけて女王の座に就けた、影の功労者と囁かれながら、《聖女の祝祭》の夜に襲撃を受けて姿を消した。
白皙の美貌を持ち、その叡智は国を動かすに足ると聞く。
まるで夢幻のような男のひとのことを。
「ご兄妹がいるようなことを言っていました。だから面倒見がよくて。ちいさいころは厩によく出入りしていたっていっていました。馬が好きなんでしょうね。わたし、馬って馬車でしか乗ったことないですけど、視界が高くなってすごく気持ちいいんですって」
「……そう」
「忙しいとすぐに食事を抜かすんですよ、あのひと。立場がら、頻繁にではないですけど、食事を一緒にとったりしました。贅をこらした食事より、下町でも食べられるような、単純に焼いただけとか、煮ただけみたいな料理が好きだったんです。そういうところとか、見かけよりも随分と貧乏くさいっていうか……見かけだけなら貴公子っぽいひとなんですけどね」
ダイの言葉はひとりの男のひとの生を肉づけて私に伝える。
ダイの隣を歩いて、ダイと他愛のないことを語りあう、男の人の姿が、見えるような気がした。
ダイは空中に渡された石畳の廊下を、ゆったりとした足取りで進んでいく。社交を繰り返して、隙を見せないように、一挙一動を洗練させたダイの動きはとてもきれい。首の付け根でひとくくりにした黒髪が、風に吹き上げられて、上質の墨のような艶やかさを帯びて空に流れる。
ダイの話は色々だった。細かかった。あのひと、と、呼ぶ声はとびきり優しく、そして哀しげだった。
「ダイは――好きだった?」
彼のことを。
ダイの浮ついた話は聞いたことがなかった。ダイはいつも上手く交わしていている。そんなこと興味ありませんよ、みたいな、少年のような顔で。
ダイがことさら緩慢な動作で私に向き合う。
白い雲がダイの背後を照らしていて、逆光で表情が見えにくい。
それでも私にはわかった。ダイは、わらったのだと。
影のなかにあっても輝きを失わない、ダイの月色のきれいな目が細まって、薄いくちびるが弧を描く。真珠色の肌が艶を増してぞっとする色香を漂わせる。
初めて目にする――少女の貌。
「彼は遠くに行きました。この感情が何か、私にはもう、わかりません」
雨の向こうにすべては消えたのだと、ダイは私に告げた。
その顔は、わらっているのに、いまにも泣き出しそうに、私には見えた。