情報網(女王の化粧師)


 ダイの唐突な問いに、ユベールは瞬いた。
「僕の婚約者の、好きなもの……ですか?」
「そうです。宝飾品、お菓子、花、美術品、動物……。なんでもいいです。教えてください」
 どういう意図なのだろう。ユベールは目の前で紅茶をすする化粧師の娘を見つめた。
 ディアナ・セトラ。皆、ダイと呼ぶ。女王から国章を授けられた娘である。時折、護衛として接してはいたが、会話をするようになったのは、数日前からである。
 つまり、上官であるアッセ・テディウスから、しばらく彼女の護衛を優先するよう、命令――というより、懇願されてから。
 ユベールの他に、数人が、彼女の護衛を請け負うことになった。というのも、今後、商人たちとの接触や貴族たちとの社交が増えるためらしい。
 わざわざ女王が傍に置く理由が、とんとわからなかったのだが、数日みっちり接触していればなるほど。なかなかに賢い娘だということはよくわかった。ひたむきでもある。
 会話してみれば、噂話や自身の装飾が話題の大半を占める女たちとは一線を画していた。どちらかといえば――自分たち、男性の感性に近い。
 実際、彼女は日頃を男装で通していて、性別を知らぬものから見れば、男色を好む男なら――いや、わりとそうでなくとも、うっかりころりといきそうな、ちょっとした美少年だった。
「えぇっと、聞いてどうするんです?」
「ご挨拶に伺うんですよ?」
「あいさつ? どうしてまた」
「はぁ。だって、女装するとき、ユベールに相手役を務めてもらうこともあるでしょう? 誤解がないように、ちゃんとお仕事だって説明しておかないと」
「仕事なら問題ないでしょう。彼女もわかりますよ」
「女性の心象の問題ですよ」
 好みはその挨拶時の手土産に、ということらしい。
 ちなみに、ランディ他、護衛役となった者たちの奥方やら婚約者やら姉やら母やらの好みはすでに聞き出して、土産物は手配し終えているという。
「いつの間に」
「……仕事の早い人が、昔、そばにいたんです」
「はぁ」
「それで? 婚約者の方のお好きなものは?」
 追求されると、思い浮かばない。
 これまでの贈り物で婚約者が最も喜んだものは何だったか。
 ユベールはこめかみに指を押し当て必死に思い出す。
「花、ですかね」
「何の?」
「色は?」
「えっと……」
「好きな色ぐらいご存知でしょう?」
「明るい色…だったかと」
「確証はないんですか? 他には?」
「……今度聞いてきます」
「今度じゃなくて、今日の夜までにお願いします。明明後日には伺うって予定取り付けてありますから」
「はっ!? 明明後日!?」
「明明後日、ユベール、私の護衛の当番だってアッセに聞きましたけど」
「そうですが、けれどそんな突然に言われても向こうにも準備が」
 ダイが無言で封書を取り出す。検めると、ユベールの婚約者一家からの招待状だった。
「ということで、夜までにお願いします。手配しなければいけないので」
「……わかりました」



「それであなたってば急に好きなものを聞いてきたのね。おめでたいことがあったのかしらって驚いてしまったわ」
 婚約者は口元に手を当てておかしそうに笑った。
「申し訳ございません。お忙しいお時間を割いていただくのに、さすがに何もなしには、と。ご協力いただきました」
「いいえ。けっこうです。とてもうれしゅうございましたわ。ユベールから好きなものを聞かれるだなんて、って、どきどきさせていただきましたし」
 殊勝なダイにユベールの婚約者は鷹揚に笑う。よかった、と、ダイは微笑んだ。
 ダイが婚約者に贈ったものは花の苗だ。婚約者はとくに花が好きで、個人で温室を所有している。そこに植える苗や種を揃え、加えて花束も手にして、ダイはユベールの婚約者を訪れた。
「本当に……わたくしのわがままに、ユベール様を振り回してしまうことになります。せっかくおふたりがゆっくりできる時間も、わたくしの社交などにとられてしまう可能性が高いのです。ずっとではありませんが……」
「かまいません。ユベールが忙しいのはいつものことですもの」
「アリアローズ様は、お優しい方ですね。そんなアリアローズ様を奥様にお迎えできるなんて、ユベール様は幸せなお方です」
「ユベールが本当にそう思っているのかは存じませんけれども」
「幸せに思っているよ」
「あら」
 ふふ、と、婚約者が機嫌良く笑う。ユベールはいますぐここから逃げ出したくなった。
「それから、アリアローズ様に折り入ってお願いしたいことがございまして」
「あら。なにかしら」
「わたくしはこれから貴族の社交に乗り出すわけですが、大変不作法でして……どうか、アリアローズ様にいくつか、ご教授願えませんか?」
「あら、わたくしでよければ」
「ありがとうございます」
 ダイは微笑んだ。と、同時に婚約者が頬を染める。
 ユベールは思わず胸中で婚約者に突っ込んだ。
(ローズ、どうしてそこで赤くなるんだ)
 ダイが淡々と言葉を続ける。
「本当にうれしいです。こちら、お礼になるかわからないのですが……」
 ダイが連れてきた文官が差し出した箱に、ユベールはぎょっとした。まだ何か準備していたのか。
 箱の中は瑠璃色が美しい玻璃の小瓶だった。
「まぁ、香水?」
「アリアローズ様がお好きな、鈴蘭の香水の新作だそうです。ゼクストの」
「まぁ! アイリスヒュッテの香水だわ! こちら、手に入れるのに苦労なさったのではなくて?」
「いいえ。ユベール様がおいでなのに、私が差し上げるのもどうかと悩んだのですが……。ひとまず小瓶を」
「すてき!」
 感激きわまった様子の婚約者に、ダイがとろけるように甘い笑みを向ける。
「どうかわたくしと我が君マリアージュ女王陛下に、今後もご協力ください、アリアローズ様」
 もちろんです、と、婚約者が、潤んだ目でダイを見つめ返して宣言した。
 ユベールはめまいを覚えた。
 しかしこれが序の口に過ぎないと思い知らされたのは、同僚たちから、ダイが同様の手口で次々と女性陣を陥落させたと知ったあとのことである。




「香水の好みですか? あぁ、花を仕入れている商人をたどって聞きましたよ。あれだけ喜んでいただけるとは思っていなかったですけど」
 いや、あれは確信的だっただろう。
 化粧道具の手入れをする娘を見下ろしながら、ユベールは胸中で毒づいた。
 あれからユベールは、婚約者からダイと比べられる始末。ダイが本当に男なら婚約を破棄して乗り換えてもとまでいわれては。
 仕方がないのでユベールはこれまでにないほど、婚約者のご機嫌を伺いに家に顔を出し、贈り物をし、愛を囁いた。まったく――忙しいわりに、おかげで仲は良好。式の日取りを早めてはと、親が相談し始めている。
 婚約者はご機嫌だ。
「しかし……あんな風に彼女たちに機嫌を取る必要があったんですか?」
「当たり前です。皆さんの仕事を支えている方々ですよ。敵に回したくありません。それに、アリアさんたちの話も馬鹿にできませんからね」
 いまやダイと婚約者は気軽に名前で呼び合う。婚約者がそれを許した。
 ため息を吐きたくなりながら、ユベールはダイに尋ねた。
「馬鹿にできないって?」
「女性陣の噂話はあちこちの家の弱みやら好みやらを網羅しているので、大変ためになります。それぞれの家の事情を汲んで顔を出すのと、何も知らずにひょこひょこ行くのとでは、ぜんぜん話が違うでしょう?」
 ダイは貴族ではない。当然、情報収集に長けた世話役はいない。情報網は自分で作り上げるしかない。
 と、理路整然と説明されて、ユベールは唖然となった。
「おしゃれと噂話ばっかり、だなんて思っていると、足下をすくわれますよ。男性の評価を冷静に下しているのは、女性です」
 にっこりと笑って、ダイは言う。
「いろんな人にお伝えしてますけど、つれない男性は好かれますが、投げやりな男性は嫌われますからね」
 アリアローズ様を、大事になさってくださいね、と、優しい声で告げられて、ユベールはこの娘には逆らうまいと、初めて、ひっそり思った。