悪夢(裏切りの帝国)


「お父様。聞いて。お父様のために、今日はお医者様を連れてきたの」
 色んな方から話を聞いて探し当てた、国で一番と思われるお医者様。
 年端もいかぬ娘は、無邪気にそういった。紹介された医者の女は、表情硬いまま、優雅に会釈する。結われた黒髪。色眼鏡。しかしその奥にある瞳の色は、記憶にある通り美しい緑。
「――と、申します」
 田舎の小さな医院からつれてこられた女は、耳慣れぬ名前を名乗って目を伏せた。

「お手を」
 女は事務的に仕事をこなす。過労が元で倒れ、気力が沸かず、床の上で怠惰に過ごす私の腕を取り、脈を診る。その間、女は必要以上の言葉を発しない。かつて感情そのものをあらわして紡がれていた声音は、淡々と部屋に響く。
 女に問う。
「私を、うらんでいますか?」
 あの時、追いすがらなかった自分を。
 引きとめようとしなかった、自分を。
「何のことですか?」
 女は小首を傾げた。あくまで、他人を装うつもりらしかった。

 娘は、女を気に入ったらしい。宿ではなく屋敷に留め置きたいと言い出した。女は丁重にそれを辞退した。奥方に申し訳がない。そのようなことを言った。事情を知らぬものの耳には奇異に響いたかもしれない。ただ、そのように遠慮しなくともよいのに、と皆は言った。女は困った顔をしていた。
「別宅に滞在していただいてはどうだろうか?」
 この広い屋敷以外に、私は小さな屋敷を持っている。妻を得る前に、暮らしていた屋敷。今も使用人の夫婦と庭師だけが管理人を兼ねて住んでいる。それはいい。皆賛同し、女も拒まなかった。

 別宅を訪ねる。先に訪れていた娘と、すでに住まいを移している女は庭だと、女中は告げた。彼女の何事かを訴えるような眼差しをそ知らぬふりして、足先をそちらに向ける。
 笑い声が響いていた。庭で、草花の一つ一つを手に取りながら、腰を落として説明をする女と、その傍らで笑う娘は、実の親子以上に親子に見えた。

 いつも通り、健診のために女は自分の腕を取る。もう、以前のように床に臥せってはいなかったけれども。脈を計る指先は、柔らかく。その指を、戯れに空いている手で握りこんでみた。
 女が非難の眼差しを向ける。その、悲しみともなんともつかぬものに沈んだ瞳に、まだ自分は見捨てられていないのだと知った。

 妻、が、医者の女に会いたいと申し出てきた。不穏な空気だった。悋気を起こしかけている。また次回に、とかばったのがいけなかったのかもしれない。妻は私の知らぬうちに、別宅へと出かけていった。屋敷のものたちに、緘口令を敷いておくべきだった。

 娘と仲良く笑うその様子が、妻の神経を更に逆撫でしたのかもしれない。妻は女にあることないこと、聞いているものが耳をふさぎたくなるような言葉を浴びせかけた。庭先で、女は娘をかばっていた。どちらが親子だかわからない。その様子に苛立って、妻の前に立ちはだかる。妻は悋気を起こしていた。女に手を上げようとした。その手には、小さな刃が握られている。私は逆上した。手首を捻りあげて、離縁しよう、と言った。
「そんなことをしたら、どうなるかわかっているの!?」
 妻のきちがいじみた悲鳴に、私は笑った。全てを失うのよ、と妻は言う。別に構わない、と私は思っていた。
 今、私の背後で娘をかばう、女がいさえすれば。
 長い長い間、行方の知れなかった彼女を、いまさら手放すつもりはなかったのだ。

「やめて!」
 静止の声をあげたのは、娘をかばっていた女だった。
「そんなことをしたら、この子は親を失うのよ!」
 女は娘を抱きしめながらそういった。娘と妻の仲は悪いわけではない。私達は、それなりに仲のよい夫婦であったし、親子でもあったと思う。けれど、私のとってはすべて遠い出来事だった。玻璃を一枚隔てた世界で行われる茶番のようだった。けれど娘にとってはそうではないだろう。娘は女の身体にしがみついて、唇を噛み締めていた。私達夫婦の会話のすべてを理解したわけではないだろうが、それでも、一つの家族が崩壊していくのだという危機感を抱いただろう。私は仕方なく、妻をなだめて屋敷に引き返した。出て行け、と、女の目が言っていたからだった。
 この別宅は、彼女の家だ。昔から。

 夜、私は別宅に戻った。娘は泣きつかれて、客室の一間で寝かされていた。その寝顔を見て、私は女の部屋へと向かう。既視感を覚えた。私が女を失った夜も、このようにして女を求めて部屋へと足を急がせたのだった。

 女は部屋で待っていた。待っていた、と思いたかった。女は無言であり、私も紡ぐべき言葉を持っていなかった。私は女を組み敷き、女はそれを許した。愛を囁いても、女は泣くばかりだった。どうして、いまさらそんなことを言うの。

 朝、私は悲鳴で目覚めた。敷布の中に女はいなかった。身なりを整え、部屋を飛び出す。庭先で、娘が泣いていた。女中が悲鳴を上げていた。だんな様、だんな様。庭師の男が自分を呼ぶ。花に埋もれて、女がいた。女が、死んでいた。頬には涙の跡があり、ずっと黒髪の鬘に隠されていた、銀色の髪が土の上に広がっていた。手には、彼女の養母の形見である刃があった。血に濡れた、その華奢な身体をかき抱いて、私は喉がつぶれるほどの、絶叫を搾り出した。

「エイ!」
「――――っ!!!!!」
 目覚めると。
 自分の荒い呼吸ばかりが耳についた。徐々に焦点のあっていく視界の中で、女が心配そうな表情でこちらを覗き込んでいる。
「ひ、のと」
「大丈夫か?」
 そういって、汗で張り付いた髪を指先で梳くのは、内縁の妻だった。柔らかい指先。そこから香る、心を落ち着ける甘い香り。
「どちらが、夢、ですか?」
 それはとても間抜けな質問だったと思う。しかし女は軽く首をかしげただけで、こちらの髪を梳き続けたまま言った。
「こちらが、現実じゃよ。お帰り」
「本当に?」
「うん。これが夢じゃったら、妾もこまるなぁ」
 この幸せが、夢だったら、困ると、女は繰り返す。
 その言葉と同時に、徐々に記憶が甦って来る。あぁ、自分はあのとき、間違えなかったのだ。彼女の腕を手に取り、引きとめ、閉じ込めた。彼女を一人で行かせるようなことをしなかった。よかった。自分は間違えなかったのだ。
 彼女は自分の下に留まり、都で医者として働いている。自分の預かり知らぬところで、たった一人、生きるようなまねをさせずにすんだのだ。
 身体を起こしている女を、無言で腕の中に引きずり込む。女もまた何も言わない。夢と一つ違っていたのは、女が微笑んでいたということだった。
「どんな夢を見たのじゃ?」
 組み敷かれたまま、女はこちらの頬に手を当てて尋ねてくる。その手をやんわりと押しのけ、首筋に唇を当てながら、答えた。
「あまり、いいたくないですね」
 哀しい夢だった。もしかしたら起こりえたかもしれない。妻を得て、娘を授かる。
 あぁ、娘だけは、悲しくなかったか。
 自分を純粋に慕ってくれていた小さな命だけは。それでもあの夢の結末は、あまりにも残酷だったけれども。
「……むすめ、か」
「うん? なんの話じゃ?」
「いいえ。何も。愛していますよ」
「……どういう話のつながり方じゃ? それは」
 話の筋が見えず、釈然としない面持ちで女は眉根を寄せる。けれどその顔はすぐに、くすぐったそうに歪められた。憮然として、彼女はこちらの髪を指先で梳いてくる。
 唇に口付ける間際に、もう一度囁いた。
「愛して、いますよ」
 現実を生きる女は、微笑んで言った。
「うん。わたしも」