眠り姫(女王の化粧師)


 私がお姫さまに付くことになったそもそもの理由は、タルターザでした。
 大陸会議を終えた宰相さまは、女王陛下とはお別れになって、領地をいくつか巡られました。その最後の地がタルターザ。クラン・ハイヴとの国境を守る要所のひとつです。
 途中までは私のほかにも複数の女官を帯同なさっていましたが、そもそも宰相さまは身支度もほとんどご自身で終えられる方。何かあっても侍従役の男官がお手伝いし、侍女役の女官はほとんど出番がありません。盛装の場がなければなおさらです。女官の多くは体力面においてもこれ以上の旅を続けさせるのは、と、判断なさったのか。私ひとりを除いて皆、王都へと先に帰してしまわれました。本当は私も帰そうとなさっていたようですが、女官が不在というのも不都合が起こる場合もあるので、周囲の説得もあって残されたようです。私を残したのは、一番健康で若く体力があったことが大きな理由でしょう。多少、医療の心得があることも加味されたのかもしれません。もうひとりを残そうか、と、おっしゃってくださいましたが、私は首を横に振りました。気を遣ってくださる宰相さまは、お優しい方だと思います。

 ようやっと辿り着いたタルターザは戦場となっておりました。
 誰もが殺気立つなか、私は危険を避けるために、町の宿で待機を命ぜられました。おそらくタルターザの出立の日まで。そのように言い含められてはいたものの、意外にもすぐにタルターザ城砦に呼び出されました。

 私を迎えに来て下さった方は宰相さまの近衛のゼノさまです。ゼノさまは私をとある部屋に案内してくださいました。
 足を踏み入れて最初に気づいたものは匂い。特殊な香が焚かれていました。傷病の治りを高める香だと、私にはすぐわかりました。
 薄暗い部屋に宰相さまがいらっしゃいました。椅子に腰掛ける宰相さまの横顔はずいぶんと憔悴して見えました。無理もありません。タルターザの状況は耳にするだけでもひどく、さらには近衛のおひとりをこちらで亡くされたのです。レオニダスさまは私にもよくしてくださいました。もうあの朗らかな笑みで挨拶なさって、あめ玉をくださることがないのだと思うと……奥さまたちは大丈夫なのかと、胸が苦しくなります。

 宰相さまが立ち上がって私を迎えられました。
 宰相さまはまだ血の臭いの残る城砦に私を呼びつけたことを謝られ、そして本題に入られました。

「彼女の世話をしてほしい」

 宰相さまが目の前の寝台に横たわる方を視線で示されました。
 私は息を呑みました。
 ひどい……ほんとうにひどい傷です。
 彼女、と、おっしゃられたからには女性なのでしょう。ぱんぱんに膨れた顔には湿布と包帯。同じく腫れた瞼。首も力なく投げ出された腕も包帯ばかり。身体を覆う厚い毛布の上からさらに治療の効果を高める魔術布がかけられています。腫れ上がりひび割れたくちびるの隙間から、微かな呼吸音が聞こえます。
 ところどころに見える青あざから、ひどく殴られたのだと、わかりました。
 遠い昔のことが思い出されて目が眩みます。

「宿に移したいが、すぐには危うくて動かせない。……君に任せる」

 宰相さまは抑揚のない声でおっしゃいました。

 私の仕事は簡単です。

 身体を清めること。着替えさせること。お医者さまのおっしゃる通りに包帯や湿布を換えて薬を塗ること。栄養水を投与すること。とにかく横について、異変があれば知らせること。
 なるべく外には出ないように命じられました。部屋の外には歩哨の方が立っています。食事も運ばれます。
 私は一進一退を繰り返すお方を見守ることに日々を費やしました。

 四日経つと少しずつ経過は良好となって参りました。
 お顔の腫れも引き始めて、そうしてわかったのは、この方がはっとするほどおきれいな方ということでした。
 包帯や湿布の数も減り始めました。ただ腹部と足首がまだひどく熱を持っています。この滑らかなお肌にずいぶんと醜い傷が走ってしまったことを私は残念に思いました。ひどい。ほんとうにひどい。なるべくなら傷があまり目立たなくなりますように。
 私は自分の首に無意識に手を当てていました。
 ――どうか、治りますように。

 タルターザを発つ前日。宰相さまがおいでになって、荷をまとめるよう私に言い渡されました。
 この方の分の荷も、と、おっしゃられたからには、王都へお連れになるのでしょう。
 歩哨役の方に荷運びを手伝うように宰相さまは命ぜられて、一度どこかへ。
 戻ってきた宰相さまは、寝台に横たわるお方の頬を、指でそっと撫でられました。

 この方がどこのどなたなのか、私は存じ上げません。
 世話を任せるとおっしゃった宰相さまの目は静かでした。宰相さまはあまり足を運ばれませんでした。もっと言うなれば冷淡でした。このお方を助けたことはお仕事の一貫に過ぎない。そう思えるほどには。
 けれど、そうではなかったのだと。
 眠る美しい方の頬に触れる緊張をはらんだ指先。宰相さまの横顔は痛みを堪えるように歪んでいました。すぐにその表情は消し去られてしまいましたが、そのお方を毛布ごと抱き上げる所作は、文字通り、とても大事な壊れ物を扱うように繊細でした。誰の目にも触れないように顔も頭も毛布で包んでしまって、ご自身の馬車の寝台に運ぶ足取りも。私は後ろについて歩きながら、なんてそっと歩くのだろうと感心していました。

 宰相さまの寝台には、多少の振動ならば吸収されるように撥条が仕込まれています。振動を抑える術も刻まれています。そちらに大事に横たえられて。白い肌に散らばる黒髪を敷布の上に落とす手も、何もかもがとてもやさしい。

(あぁ、この方は)

 固く目を閉じるうつくしいひとは。

(おひめさまなのだわ)

 王都までの帰途。私は変わらずお姫さまのお世話を任されました。
 お姫さまは目覚めません。いまだ深い眠りの中。肌の腫れや痣もずいぶんときれいになりました。
 それでもまだ。

 私は今日もお姫さまが、その瞼を震わせて、目覚める日を待っています。