帚星(神祇の楽園)



 不吉だわ、と、夜空を見上げて女は言った。
「何が不吉なんだ?」
「だって見て、レイン。あそこにね、ほうき星がでているの」
 女が指差した群青の果てに、白く尾を引いた星がある。昔、姉が彗星と呼んでいた星。
「あれが、不吉なのか?」
「不吉」
「誰が決めたんだろうか」
「知らないわ。多分昔の人。ほうき星があるときは、飢饉が起きたり、大雨が降ったり、嫌なことが起こるのですって」
「そうなのか」
 自分にしてみれば星は皆、ただの星だ。星の動きと魔力の流れに、関連性があるのかどうか知らない。姉に尋ねれば、おそらく判るだろうが。
「人は星にいろんなものをみるね、エスメラルダ。この間はマリパスが流れ星を見て願い事を唱えていたよ」
 マリパス、というのは、エスメラルダが友人と呼ぶヒトガタだ。友人というものが何であるのか、最近ようやっと判りかけてきている。つまり、とても親しいなにかだ。例えば自分にとって、楽園における、獣たちのような。
 気のよいマリパスという名前のヒトガタは、こちらのことを友人と呼ぶようになった。そこまで自分たちが親しかったかどうか謎だが、こそばゆい気がするのも確かだ。マリパスだけではなく、エスメラルダの周囲にいるヒトガタは、いつしか自分にとって親しいものになっていった。
 先日、そのマリパスたちと夜、空を見た。幾万もの星が天を流れていった――流星雨と、村のヒトガタたちは呼んでいた。ヒトガタたちは歓喜し、それぞれ星に向けて願い事を唱えていた。
「流れ星に願い事を唱えると、叶うといわれているのよ?」
「大きさや天にある長さは違えど、星には違いないのに。ほうき星にも、何か願ったら、駄目なのか?」
 不吉と口にした女の表情は暗かった。彼女に陰鬱な表情は似合わなかった。流れ星のことを口にする時の、笑顔がいい。そう思ったが故の発言だった。特に深い意味はない。
「ほうき星に? ……うーん。駄目ではないと思うけど……何か、叶えたい願い事でもあるの? レイン」
「願い事?」
 思いがけない問いかけに、瞬く。願い事。そのようなものを抱いたことはない。望めば、大抵すべてが手に入るからだ。
「あぁごめんなさい。神様だもの。望めば叶わないことなんてないのよね」
 エスメラルダも同じことを思ったらしい。その美しい顔を少しばかり歪める。普段、自分を神として認識することの少ないエスメラルダ。時折、差を思い出しては、彼女は苦痛に顔を歪める。
 それが、とても辛い。
 女の呟きを否定するために首を横に振る。
「すべて、手に入るというものでは、ない」
 少しでもヒトガタと同じを装いたくて、そのように口にした。あながち間違いではない。自分は、万能ではない。
「すべて、できるということでも、ない。姉上ができるものは私にはできない。私ができることは姉上にはできない。そんな風になっている。だから、私にもできないことや、叶えられないことはある。今まで、それを望んでいなかっただけで」
 できる範囲のことだけを、望んでいた。だから自分は彼女を知るまで、こんなにも、苦痛を覚えることなどなかった。苦痛など、知らなかった。
「じゃぁ、貴方にも、星に願いたいような、望みがあるの? レイン」
 まっすぐにこちらを見据えてくる翡翠の瞳を見つめ返す。柔い頬に手を添えて、銀の髪に指を通す。そうすれば、彼女が嬉しそうに笑うことを知っている。
 時間をかけて、自分はそれを知った。出会ったとき、まだ、少女と呼ばれるほどの年齢だった女は、いつしか番を得て子をなしていてもおかしくないような年となっていた。
 そう。自分にも、叶えたい願いがある。
 たった、一つだけ。
「できることなら人になりたい」
 女に口付けて、囁く。
「君と、同じ時を歩めるように」
 ヒトガタは、瞬きするほどの早さで、老いて朽ちていく。
 美しい、エスメラルダ。彼女もまた例外ではない。
 人になりたい。自分も、彼女と同じように老いて朽ちて生きたい。そうすれば、この瞬きのような時間も、長く感じられるだろうか。
 しかし、自分には、その術がわからない。
 自分は地を統べる無知の神。天から見下ろし全てを知る姉とは違う。
 エスメラルダは泣きそうに微笑んで、頬にあるこちらの手にその繊手を重ねる。水仕事によって彼女の指先の皮膚は硬くなっていた。魔を使って、その皮膚を癒す。また、硬くなっていくと知っていても。
 衣服に隠れた腕はどうなのだろう。襟元の更にその奥。髪に隠れたうなじ。そういった、見えぬすべて。
 知りたい、と思う。もし彼女がこの指先のように傷ついているようならば、その全てを力全てを注いで癒したい。
 この、感情を、人はなんと呼ぶのだったか。
「エスメラルダ、君を愛していいだろうか?」
 そう、愛と呼ぶのだった。
 全てを知りたい。傲慢にすら思えるその、欲求を。
 愛と、呼ぶのだった。
 神に愛された女は笑う。
「もちろん。私は、最初から、貴方を愛していたわ」
 
 その日、神は初めて人を愛した。
 それが、すべての引き金だった。
 楽園は、閉じられたのだ。